自分の歩いたみち

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生れてからのことを順序よく書いても、読んでいただく方は退屈するだけと思います。そこで先ず書く項目を挙げて、その中から適当に選んで、なるべく短く書きたいと思います。ご意見をお聞かせ下されば幸いです。    

1.生れたのはどこ  ・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1回目(2000/4/15)

2.小学校から海軍に入隊するまで  ・・・・・・・・・・・・2回目(2000/8/15)

3.終戦、復員、工業学校卒業まで ・・・・・・・・・・・・3回目(2000/12/31)

4.柏崎市内の工場に就職、転職まで・・・・・・・・・・・・4回目(2001/4/22)

5.北海道で十條製紙・釧路工場に就職・・・・・・・・・5回目(2001/8/13)

6.結婚、3交替勤務、東京の十條工場に転勤・・・・6回目(2002/1/7)

7.大阪の都島工場を経て富山の伏木工場に転勤・7回目(2002/5/5)

8.伏木工場60歳定年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8回目(2003/2/15)

9.安田火災に再就職、70才で退職・・・・・・・・・・・・・9回目(2004/5/4)

10.伏木工場閉鎖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10回目(2005/1/1)

結局 1.から書くことになりました。

1.生れたのはどこ(H12.4.25記)
 昭和5年2月新潟県刈羽郡(現、柏崎市)西山町妙法寺に生れる。父は近くの日本石油西山鉱業所に電気屋として勤務、母は子育ての傍ら祖母と雑貨店経営、兄弟は兄姉弟の4兄弟、全部で7人家族。母の実家は40m位の所にあり、男4人の従兄弟がおり、風呂は交互にたて(沸かすこと)省エネを兼ね交流が毎日のようにあった。戦時中でもあり、高橋の家で蓄音機を聴くときは、座布団を前に当てて屋外に聞こえないようにしての(流行歌の)鑑賞会だった。
 父は昭和10年頃から台湾の外地勤務がはじまっていた。小学校に上がったのが昭和11年、翌昭和12年7月には日中戦争勃発、続いて16年12月、6年生のとき太平洋戦争に突入、父は昭和15年に2度目の一時帰省以来、終戦後の昭和21年2月海軍で現地(台湾)復員した兄と揃って無事帰宅した。
 親類や部落の中には戦死の方々が居られる中、たとえ着のみ着のままでも、無事復員できたことは、幸運であったといえる。(注、西山町:田中元総理の故郷)

2.小学校から海軍に入隊するまで(H12.8.15記、H18.9一部訂正)
 昭和11年4月二田村立(現西山町)二田尋常小学校(後の北野小学校、現在は統廃合で廃校)に入学、その冬は大雪で、背の丈を越える雪の中を学校まで歩いて通ったことだけを、鮮明に記憶している。
 昭和12年7月7日、日中戦争がはじまり、妙法寺部落でも、早々に上海で戦死された人も出たが、神国は絶対負けることはないと、教えられていたから、戦死者は運が悪いだけ、最後は勝つものと思っていた。
 まもなく(母方の)高橋の伯父が、昭和12年、40歳で応召、中国北方に派遣された、そのご昭和14年に無事帰還はしたものの、むりがもとで、2年後には亡くなっている。
 父はそのとき(昭和12年)すでに日本石油から台湾に現地勤務していたので、応召は免れる事ができた。但し3年おきの台湾からの帰省は昭和15年以降はとだえた。
 昭和16年小学校に高等科が新設され、(中学に進学しなかったので)自動的に高等科に進む。
 山本連合艦隊司令長官も戦死され、われわれ高等科の生徒にも、志願兵の募集がくるようになった。時流と少年の赤心から、海軍の乙種飛行予科練習生を受験。第一次試験はパスしたが、二次試験に舞鶴海軍航空隊まで行ったものの、適正検査で不合格。校長の勧めで次は陸軍少年飛行兵を受験、合格。昭和19年10月の入隊が決定していた。 一方わずかな期間になりそうだったが、台湾の父の勧めもあって19年4月柏崎工業学校機械科に入学。入学後まもなく、先の海軍から(第2志望の)電信兵に採用の通知がきた。 
 結局昭和19年5月25日山口県防府海軍通信学校に14歳3ケ月で入隊する、結果になった。
 平成20年1月横浜市在住の室伏氏からこのホームページを見たと連絡があり、通信学校の同期生は3,300名だったことが分る。

3.終戦、復員、工業学校卒業まで(H12.12.31記、H18.9追記)
 通信学校の卒業演習は山口県田布施の通信所で20年1月から3月まで暖房なしの生活で、全員がひどい霜やけか、あかぎれを切らし苦しんだ。これも耐寒訓練のひとつで、その代わり復員後の冬は寒さを感じなかった。4月には舞鶴海軍通信隊に配属、そのあと舞鶴海軍防備隊を経て、6月には第五十一播州丸(掃海艇)に配転、終戦は長崎付近の船上だった。その後博多の北方古賀海岸に上陸、一旦博多に出て列車で舞鶴海軍防備隊に戻り、9月に復員した。学校は2年生に復学し、昭和22年3月に卒業。就職ゼロの時代、幸い東京に決まったが、食糧難のこともあって、ふん切りがつかず断念、これがその後8年間の悪戦苦闘の始まりとなってしまった。(H14.3に通信所跡を訪れている)

4.柏崎市内の工場に就職、転職まで(H13.4.22記)
 
卒業から9月まで母の農業の手伝い。しかし以前から農業には興味が無く、役場が紹介した職業訓練所、柏崎木工補導所に10月から6ヶ月入所。生徒は中学卒の人から、元陸軍軍曹や海軍大尉などと一緒で、家具建具の製作を手作業のみで教わる。 元々器用な方だったので、授業は面白く毎日が楽しいくらいだった。
 卒業と同時に市内の木工所に就職、学童机の製作その他全ての木工製品の製作に従事。仕事は面白かったが月末の給料を貰うと、先の生活のことが不安になる日々だった。
 その後工場閉鎖で、別の同業会社に再就職を繰り返し、設計や企画にも携わるようになり、会社からは相当重宝がられたが、どう考えても肝心の生活ができる見通しが立たず、胃を悪くするような状態が続いた。
 そこで昭和30年4月心機一転、知人に付いて、北海道に渡り、砂川市に移住。当面臨時工で発電所の整備建設をする太平電業鰍ノ就職、北海道電力・砂川火力の主にボイラーの定期整備の仕事に従事することになった。学校を卒業して8年、まさか北海道で再出発するとは、思いもよらぬ事で大きな回り道をする結果となった。

5.北海道で十條製紙・釧路工場に就職(H13.8.13記)
 昭和30年5月から2ヶ月太平電業轄サ川作業所の臨時工として、ボイラーのバルブや給水ポンプの分解整備作業を習っていたが。7月半ば釧路の工事現場応援を命ぜられ、慌しく布団をチッキ(鉄道小荷物)に出し、夜行(鈍行)で釧路へ出発。翌日から十條製紙・釧路工場の動力事務所で、ボイラー工事の図面書きの仕事を手伝いだした。あとで分かったことは私が木工所で図面書きをしていたことと、新潟県で受験した2級ボイラー技士の合格通知が砂川に来てから届いたこともあって、太平電業から十條製紙に、設計技士として労務提供されたことが分かった。既に専門学校出の年配技師が1人派遣されていた。従ってその人の指示で図面を書く仕事だった。
 当時は中古ボイラーを他の会社から解体移設する事は珍しくなく、工事には手間が掛かったが、このときも室蘭製鋼所の三菱セクショナル水管式30t/h、ガス焚きを石炭ストーカー焚きに改造するものだった。 10月頃から現場の工事も経験、ガス溶接、電気溶接も覚えた。
 11月末、工事も終わりに近づいたころ、太平電業の現地責任者の了解を得て、十條の臨時工に12月1日付けで採用してもらうことができた。
 その後も新ボイラー増設の工事が続き、ボイラー以外にマシン(抄紙機)やパルプの蒸煮釜に送る蒸気配管の設計も手がけるようになった。
 昭和33年3月21日、漸く正規社員に登格し、その後も引き続き動力事務室で増設工事の計画等に携わることになった。
 3年前故郷を出るときは何の予定も立て得なかったことを思うと、当時紙景気で現地の人でもなかなか就職困難な職場を確保できたことは幸運だったと思う。

6.結婚、3交代勤務、東京の十條工場に転勤(H14.1.7記)
北海道に渡った頃からの神武景気が一旦終り間もなく昭和33年秋頃から岩戸景気といわれる好況が再来した。
 本採用後半年余の私にはまだ家庭を持つほどの生活力はなかったが、たまたまお世話くださる人と出会い結婚話が進行していた。当時400軒以上はあった社宅の一角の私有地で飲食店をしていた婦人が新潟県出身者と言うご縁で、その店の隣の柴田食料雑貨店の次女を世話してもらった。
 昭和33年10月10日会社の体育館の和室で故郷の両親に来てもらいあとは会社関係と妻の親族に祝ってもらって挙式した。勤続年数の少ない私には社宅の権利が無く妻の実家の2階が新婚生活の始まりだった。
 昭和34年3月に6号マシン(紙幅274㌅当時東洋一の抄紙機)の増設が決定。これに伴って、旧1〜3号ボイラーを撤去、新ボイラー38t/h2基の設置が決まり、私はまた工事に参加することになった。
 その頃既に家内は身ごもっていたが、34年7月末、十條病院で長男出生、心配した生活も残業手当がかなりあり、案ずるより生むが易しの状態だった。
 工事も終りに近づいた35年8月ころから、私の勤務は初めてボイラー運転の3交代に入った。当時は3直3交代で、かなり過酷なものだったが、人員配置は今に比べると相当余裕があったように思う。(夜勤では若干の仮眠ができた)
 昭和36年の5月ころ東京・十條工場で本格的な重油焚きの自家用発電所(10,000kw)の建設工事が決まり、私の発電所建設の経験が買われ、転勤の話が持ち上がった。当時家内が2人目を妊娠していたため勤労課の計らいで、栗林商船の紙運搬船に便乗させてもらい9月末、釧路港を出発東京竹芝桟橋に上陸した。北区王子1丁目の社宅に落着く。
 着任1ヵ月後に西尾久の東京女子医大で次男出生。このときも帝王切開だった。
 ボイラーに重油を使うことは当時重油規制法でなかなか難しく、37年に入って漸く許可になったように記憶している。製紙会社では初めてのベンソンボイラー、ドラムのない貫流式のボイラーで、運転制御には苦労があった。手動では誰も運転できず。曲がりなりにも計器運転であった。
 工事が終り引き続き3交替勤務となる。昭和38年9月には大阪の都島工場に転勤が決まる。

7.大阪の都島工場を経て富山の伏木工場に転勤(H14.5.5記)
 
十條工場も都島工場の転勤も釧路工場勤務中の上司の引きだったことがあとで分かったが当時一般職の転勤が希少だったこともあり、十條工場を発つ時なかなか都島工場から転勤の受け入れの辞令が出ず、十條工場の関係者は気をもんだということも後で知った。
 都島工場の発電所建設のころからメーカーが設備を一括受注するようになり、工事の仕事も随分楽になってきた。ボイラーは汽車会社(現川崎重工)の45t/hの重油専焼、タービンは東芝4000kw背圧式、重油タンクを旧淀川の河川敷きに2基置くものであった。
 1年後の39年秋には工事も終り先任汽缶士として3交替勤務に就いた。
 十條工場で熱管理士、都島で特級ボイラー技士を取得。少し遊び心が出て、通天閣付近のバイクショップで50ccのホンダのカブ(中古)を1万円で購入、大阪市内を隈なく探検することになる。おかげで東京と違い大阪はかなりなじみ深くなった。
 昭和41年5月高岡市の伏木工場で発電所建設がはじまるということで転勤が決まる。
 十條工場(東京)は昭和48年8月31日跡地を日本住宅公団に売却(120億円)
 都島工場は平成12年3月閉鎖。これで私の人生に夫々思い出を残した大都市の2工場は無くなることになった。

8.伏木工場で11,000kw、33,000kwの発電設備の建設、60歳で定年(H15.2.15記)
 1)11,000kwの設備は85t/h重油専焼、タービンは背圧式で工事は順調に昭和42年3月終わった。それまでは2,500kwの中古タービンと24t/hバーク・重油混焼ボイラ2基だったから自家発比率は相当上がり、工場の収益に貢献した。
昭和48年からボイラーの排煙規制のため、排煙脱硫装置が自社の設計で計画され、49年の9月ころから稼動した。廃液は亜流酸ソーダーで回収、濃縮して製品として販売するため、逆に品質の保持に苦労をさせられた。
 2)58歳の定年が近づいた昭和63年、今度は33,000kwの石炭(微粉炭)専焼火力発電設備の計画が持ち上がりそのお陰で、2年間の定年延長になった。
この火力発電設備の完成により、ほぼ100%の自家発電比率になりその後バブル崩壊のころ全工場中でも数少ない黒字工場になったと聞いている。

9.安田火災海上(現、損保ジャパン)北陸本部に再就職(H16.5.3記)

 6ヶ月間雇用保険を貰って、1990/10月から労働省関係のボイラー・圧力容器の性能検査業務に就くことになる。安田火災のボイラー保険に加入している事業所の物件に限り、安田火災の代行検査が認められているので、北陸3県の事業所を回って年1回の性能検査を担当した。台数は約12,000基、検査員は課長を含めて3名だった。

 富山県ではYKKの工場が、福井県では東洋紡績の物件が多く、石川県はボイラー協会での検査が主で安田火災で検査する物件は比較的に少なかった。変ったところでは、立山の大観望ケーブル駅、室堂ターミナルのボイラーがあり小生はむしろ楽しみにしていた。

 65歳に到達した時点で、非常勤嘱託に変り、仕事はめっきり減った。これを機会に日本百名山を目指すようになった。→[登山のページ参照]

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