本願寺 第14代寂如上人(1725年 御往生)の、詠まれたうたです。
今年も元旦の朝6時に始まる修正会(元旦会)が、勤まりました。一緒に正信偈と現世利益和讃(ここら辺では現世利益和讃を1月に詠むことが多い)をお勤めし、
「新年おめでとうございます」
と挨拶を交わし、朱塗りの杯で屠蘇をいただきました。
「影現寺だより」(毎月門信徒さんに配布)にも書き、また、お誘いもしましたが、10人ほどの集まりでした。
報恩講にお誘いすると、
「そのうち暇になったらお参りしますちゃ」
と、おっしゃる人があります。それほどお寺参りはできないものなんでしょうか…
そのことを、「引く足も」と表現してあるのです。寺へ参れば手を合わせ、お念仏します。また、お葬式や、ご法事におまいりすることがあると思いますが、皆さんと一緒に手を合わせてお念仏しますね。
自分の意思でお参りに行くと思いがちではありませんか。誰かに誘われて行っているとは思いませんか。では、それは住職さんですか。親戚の人ですか。
寂如上人は「弥陀願力の不思議」と、申されました。阿弥陀様の、私の頭では理解できないお力によってお参りさせられる、ということです。仏教では、人間の力を「自力」と言い、仏様の力を「他力」と言います。決して、他人の力ではありません。間違って解釈されると困りますので、法話をする時は黒板に「陀力」と書く事があります。決して「自分以外の力」ではありません。浄土真宗では勿論、阿弥陀様のお力を言います。
「欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、妬む心多く」
と言われる自分。その心をなんとかしたいと思うけれども、この肉体を持つ自分では、いかに努力しようとも綺麗な清らかな心にはなれません。
このような私の生き方・行く先を心配してくださる阿弥陀様です。平素、私の願うことといえば、自分に都合の良いことばかり。念仏する時に心を込めれば込めるほど、いろんな欲心が混じります。雑物が混じってしまいがちです。いつまでも若く健康で、収入もあって死なないように……と、願い事もエスカレートするものです。
そんな心の混じった念仏では困ります。
そこで阿弥陀様は、私の頭では理解できないお力で、私を念仏しやすいところへ誘い出し、手を合わせ、念仏させてくださるのです。京都女子大学を創設された甲斐和里子女史が詠まれました。
み仏の み名となふるわが声は
わがこえながら とうとかりけり
つまり、自分で念仏しておれども、気がつけば阿弥陀様にさせられておりました、ということです。
私に念仏させて、仏に成る為の善と徳を我が身に具えさせ、お浄土へと連れて行ってくださる、何もかも阿弥陀様のお働きなのです。住 職
2002年2月
「お金や物質にとらわれた、殺伐とした時代になった」と嘆くのは、私だけではないでしょう。
でも本来、私たち人間は皆、優しい心を持っています。全体を見れば荒れていますが、ひとりひとりを見ると、優しい人が沢山いらっしゃいます。
その人の子供の頃から知っている青年がおります。俗に言う、「おじいちゃん・おばあちゃん子」として育ちました。朝暗いうちから仕事をしている、真面目な好青年です。
周囲の人から聞いたことですが、おばあちゃんが小学校のクラス会に行きたいけれど、今はお金が無いと困っていた時、
「行ってこられ」(行っておいで)
と、お金を差し出したそうです。車のローンで大変な青年が、おばあちゃんのことを思い、お金を差し出したとは感心しました。小さな時から知っているから、尚更嬉しく聞きました。
皆様の周りにもいろんな嬉しい話があると思います。
ところが歎異抄に聖道の慈悲といふは ものを憫(あはれ)みかなしみ育(はぐく)むなり、
しかれども思ふが如く 助け遂ぐること極めてありがたし。と、あります。
気持ちが100あっても、できることは幾つあるでしょうか。1つもできないこともあります。痛い、苦しいと言われても、代わってあげることはできず、ただ見ているだけのこともあるでしょう。
できないことが続いたり、好意を断られると段々嫌になってくることもあるでしょう。それで、まごころに限りがあると言わざるを得ないのです。嫌なことですが、私たちの身体や心に限界があるということです。
一方、自分の身体や持ち物となると、それを維持するために必死になります。これを執着と言います。
病気を治したい、健康を維持したい、もっと大きな家に住みたい、高級車が欲しいなどと際限なく欲望が沸いてきます。私の身体、物、肩書き、地位、家族など、何にでも「私の」がつきます。これを書いている私も、どのとおりです。今、次女が友達の母親の通夜に出かけました。51歳だったそうです。
亡くなれば全てをを放し、全ての人と別れるしかない私達です。子供でも知っていることではありますが、本当に納得していない自分ではないでしょうか。納得していないから、苦しい・辛い・悲しいのでしょう。
だからこそ阿弥陀様は私の側に居てくださるのです。一緒に苦しみ悲しんでくださいます。全ての人と別れても阿弥陀様だけは一緒に居てくださいます。そして阿弥陀様の浄土へ連れていって仏にしてくださいます。
ですから親鸞聖人は阿弥陀様を「あて たより」にして何時もそのお名前を呼んでいらっしゃいました。私たちも気付いたとき、お名前を呼びたいものです。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏……ナマンダブ・ナマンダブ……
住 職
2002年3月
先日、ライターの方に、インタビューを受ける機会がありました。 私よりも少し年上の その方は、 人は其々違った考え方を持ち、いろんな感じ方をして生きているものです。私だけが特殊というのはちょっと違うかな?という気がします。やはり、先入観というのでしょうか。 高校の頃に得度して、僧侶になりました。でも、他の高校生と、なんら変わらない私だったと思います。休み時間にたわいの無いことを喋っている、普通の高校生です。 べつに、「だから皆さんも、得度しましょう」だとか、「難しい本を読む」だとかいうことではないのです。私の場合は得度がキッカケになっただけで、皆さんだって、法要に参拝したり、大事などなたかを亡くしてしまったり、ご仏前で結婚式に参列したり、家族が手を合わせる姿であったり、ちょっとした誰かの一言だったり、そういうことも全てがキッカケになりうるわけです。 「本堂にいたら、特別な気持ちになりませんか」 2002年4月 |
5月になりました。 友達の子供が、節分(ちなみにこれは浄土真宗の行事ではありませんが)の時期に体験入園に行ったそうです。 大人だけでなく、幼い子供たちも家から出て、色々な出会いの中で揉まれ、成長していきます。 「永代経があるから、いらしてくださいね」
いくつになったから法を聞くというものではありません。 2002年5月 |
娘が先日、チャットで友達と話していたら 諸外国では 数年前、門信徒の皆さんとハワイ別院へ団体参拝しました。(行事報告参照) とある会社が「他力本願」という言葉を誤用して宣伝に使ってクレームがつきました。 寺参りはまだ早い。そのうち歳をとったら参ろうかな…等と思っている方はいらっしゃいませんか。 では、改めて考えてみましょう。 前記の苦しみの他に、毎日の生活上、三毒の煩悩(欲をおこし腹をたて愚痴をこぼす)を燃やす自分ではないでしょうか。ですから自分の力で清らかな心に成ることは至難の業でしょう。 阿弥陀様の私に対する気持ちを信じた時……村田静照という学者であり念仏行者でもある方が 自分の心を素直に見つめ、冷静に物事に対処できる自分でありたい。 住 職 2002年6月 |
本当は最初に「念仏」とつけたかったのですが、つけなければ何の場合にも当てはまる文章だと思います。
「宿題、しなさいよ。それから遊びなさい。早く休みが終わらないかしらね」
と、学校が夏休みになると、よく耳にします。走り回ってうるさい上に。明日、明日…と延ばしている宿題。
子供だけでしょうか?大人にも、
「誰か、やってくれるだろう。今しなくても、後でナントカなるだろう」
と、他人をあてにしたうえに、仕事を引き伸ばしている事の、なんと多いことか。夏休みになると、海水浴・川遊びの事故死が100人を下りません。このように、楽しいはずの夏休みが、取り返しのつかないことになる場合もあります。
また、お盆の帰省途中の交通事故死も多くあります。家族で待ちに待った帰省の途中で死ぬなんて、誰も思っていません。
いつまでも生きていると思いがちですが、明日の保障がある人なんて何処にもいません。まさに、
「いましなけりゃ いつできる」
です。よくご存知の『白骨の御文章』に、
朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり……
されば人間のはかなき事は、老少不定のさかひなれば……
と、ご教示あります。
「寺参りや念仏は、年寄りになってからでいいんだ」
と、言う人がありますが、年寄りになると医者通いに忙しくなり、寺どころでは亡くなる人もいらっしゃるようです。また、
「足が痛くて、座っていられないから、行けない」
という方もあるかもしれません。(お年寄りの定義がどこらへんなのかは個人差があるだろうし、わからないけど、最近本堂では座布団より椅子が大人気です:さと衛門)
また、聞くには耳の悪くなり、テレビの「ご長寿クイズ」のように理解力も落ちて阿弥陀様のお気持ちにも自分勝手な解釈をしたりと、本当に救われている喜びも湧くかどうかわかりません。8月初めに、アメリカから、オレゴン仏教会に通う21歳と、ロサンゼルス別院に通う24歳の青年が来日して、当寺院に2泊していきました。家族と一緒にお寺へ通っている青年たちが、本願寺へお参りして、飛騨高山で開催された「真宗青年の集い」に参加する前に、当寺院に寄ってくれたのです。
椅子があるのに座布団が珍しいらしく、正座して足が痺れて困っていましたが、毎朝のお勤め(お晨朝)も、声を出して詠んでいました。呉羽山の五百羅漢へ案内した時、私の英語力ではなかなか難しいことでしたが、お釈迦様の高弟500人のことは理解してくれました。
やはり、若い時でなければ、難しい事ではないかと思いました。
アメリカ人が手を合わせ、焼香し、お経を読んで、念仏するなんて想像できない方もいらっしゃるかもしれませんが、高山の集いには外国から80人が参加したそうです。
キリスト教徒の多い国ではキリスト教徒に習って、日曜日には家族で別院や寺院にお参りするそうです。そんな環境にあり、念仏を喜ぶようになった青年が
「私が参加しなければ誰がするか」
の勢いで、来日されたのでしょう。今、聞法し念仏しなければ、いつ喜ぶことができるのでしょう。私が念仏し、私が喜ぶのです。他人がしなくても、私がお念仏します。「いつか」ではなく、「今」喜びましょう。
これが、私たち仏教徒の目的でもあると思います。本来怠惰な私の心に任せれば、他人に言えないような恥ずかしい、愚かな気持ちを起こします。それに気づき、阿弥陀様に懺愧し、私のために働いてくださる阿弥陀様に感謝してゆくのです。
また、私に心や身体をかけてくださる方に感謝していくのが本当でしょう。住 職
2002年9月
『正信念仏偈』のはじめ3行目から、ゆっくりと意味を考えながら読んでみてください。意訳を見たほうが、わかりやすいかもしれませんね。
法蔵比丘のいにしえに
世自在王のみもとにて
諸仏浄土の因たずね
人天よしあしみそなわし
すぐれし願をたてたまい
まれなる誓いおこします
ながき思惟の時へてぞと、書かれてあります。
私たちには考えられることも出来ない遠い遠い昔、数字では表すことが出来ない久遠の昔に、私のことを心配して、私のために私の能力に合わせて、私が仏に成る道をつくってくださいました。
考えられたのは、法蔵菩薩様。そして、永いご苦労の末、阿弥陀仏となられました。阿弥陀仏に成られた時、私が仏に成れる道が完成したのです。ですから阿弥陀様は、久遠の昔から、私に愛を注いでくださっております。親鸞聖人は、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためなりけり
と、遠い遠い昔からおろかなものを救おうと願い、苦労されたのは他人のためではなく、ひとえに私、親鸞一人のためだったと、喜んでおられます。
また、お経には
十方の衆生を目当てにしてくださる阿弥陀様
と、説いてあります。阿弥陀様からすれば「皆を救いたい」お気持ちであることがわかります。
世間では普通、私たちが阿弥陀様を拝みますが、その反対に、阿弥陀様が私たちを拝んでくださいます。
というのは、お経に「若不生者 不取正覚」と、あります。(『仏説無量寿経』で法蔵菩薩様が仏に成るために立てられた48願にある:さと衛門)この意味をうかがうと、私に向かって「助かってくれよ」「仏の命をかけて助けずにはおかない」とまで呼びかけてくださる意気込み、目的をお持ちの阿弥陀様ですから、私たちを拝んでくださるのです。誰でも大切な命を持ち、自分しか出来ない働きをし、生かしあっております。自分にすれば、生かされております。しかも、阿弥陀様から仏に成ることを願われ、拝まれている私です。
親鸞聖人の詩、『現世利益和讃』に、
無碍光仏の光には 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり
南無阿弥陀仏をのなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重圍曉して よろこびまもりたまふなりと、あります。
助かってくれよ、のお気持ちから、念仏者をまもってくださる大慈悲心を喜んで詠まれた詩です。昔、念仏を喜ぶことで有名な讃岐の庄松さんという人がいらっしゃいました。
友達一緒にご法話をお聴聞にでかけました。大変素晴しいご法話に、友達は感激し、涙ながらに言いました。
「庄松さん、こんなありがたいお話を聞いたら、流石の私でも邪見の角がとれました」
庄松さんは
「そうかい。とれた角なら、また生えにゃいいがのう。角の生えたまんまのお救いと聞こえなかったかのう」
と、答えたそうです。
角の生えた私だから、「助かってくれよ」とお呼びくださり、拝んでくださるのです。邪見の角のまま大悲に円融されていくところに、念仏の救いがあり、それこそ、「煩悩を断ぜずして涅槃をうる」(『御文章』の「信心獲得章」にも書かれてますね:さと衛門)という素晴しい救いがあるのです。世の中には思い通りにならないことが多すぎます。念仏する人にも同じことです。でも、念仏者はその苦しみに念仏を溶け込ましてゆかれました。そして、懺愧と感謝に変えてゆかれました。そういう人を、妙好人(みょうこうにん)と呼びます。庄松さんも、そのお一人です。
難しいことですが、そう心の時間をとりたいものです。住 職
2002年10月
煩悩に満ち満ちた私たちだけれども、そのままに、阿弥陀様に救い取られるという意味です。
「ゆるせぬまま」というのは、「このままの私」という意味で、阿弥陀様に許されないという意味ではありませんよ。私たちが日々暮らしていく中で気を使っていることもあれば、優しい穏やかな心のこともあるでしょう。我が子や孫の成長に喜び、可愛がっているペットの仕種に微笑む。その他にも沢山優しく暖かな心でいる時間もあるでしょう。
しかし、そんな時間ばかりではなく、言うことを聞かないと腹を立てたり、人を羨んで興味本位にアレコレと言ってみたり、妬んでみたり、文句を言ってみたり、愚痴ってみたり、そんな私たちも存在します。「今の若い人は何でも便利なものがあって、楽でいいわ。私たちの頃なんかね……」
とか、
「何でも贅沢にあって、肉みたいモンばっかり食べてて。今の人は煮物とか嫌がって贅沢だわ」
という言葉を耳にすることがあります。
確かに、戦火を潜り抜けて生きていらっしゃった方々、終戦前後にお生まれになった方々にしてみたら、私たちの世代が生まれた頃から当然のようにあったと思っているものでも、便利で贅沢に見えることもあるでしょう。実際に私たちには想像できないご苦労も多かったのでしょうし。
しかし、いつの間にか愚痴になってしまいます。現代を生きる若い人も、その時代の流れの中で頑張って生きていらっしゃる。景気が悪いとか、リストラだとか、現代病といわれるものだとか、その時々の問題の中で家族を守り、働き、生きています。それを見ていても、
「今の者は贅沢で……」
と言いたくなるものなのでしょう。
「じゃあ、昔のほうがちゃんとしていたって言うなら、今の生活から昔の生活に戻れるの?」
と聞くと、
「そういわれると、嫌だけどね」
と、笑い話で終わっていく只の例え話ですが、誰にでも思い当たることかもしれません。仲良く一緒に生きていく家族であっても、支えあっている友達であっても、またテレビに出てくる人のことであっても、愚痴や妬みにつながる心が起こることもある私たちです。
ふと手を合わせ、
「駄目駄目、こんなことばかり言ってちゃ」
と気づき、怒ったり反省したり煩悩に苦しむ私たちをそのまま救って捨てないぞとおっしゃる阿弥陀様への感謝の心を思い出す時間が、欲しいものです。2002年12月