2002年 今月の言葉 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月

9月 10月 12月

 

御仏の 御名となえつつ あらたまの
今年も 清く 日々を送らむ
ー甲斐和里子ー

今年も、元旦会(がんたんえ:新年最初のお勤め)で、皆様と新年を迎えました。
 「最初」とか「新」という区切りになれば、誰もが目標を立てたり、気持ちを入れ替えたりと、カウントを0に戻すような気分になるものですが、皆様はいかがでしょうか。
 正月というのは不思議なもので、普段と同じように昨日から今日への移り変わりなのですが、とても特別な始まりに感じられます。

 さて、去年を表す文字(清水寺の管長さんが、公募した文字の中から書かれましたよね)が、「戦」であったことに凝縮されているように思いますが、大変な世の中でした。
 戦争が始まったことだけでなく、それぞれ不況との戦いでもあったことでしょう。
「ハッピーニューイヤー」
と迎えた年が、まさか多くの犠牲者が出る戦いの年になるとは、戦地で戦っている人々も考えなかったことだと思います。

 去年の正月に、新たな気持ちで迎えた1年であったわけですが、蓋を開ければ清く日々をおくれなかった自分であるように思います。うちの場合、一昨年の大晦日に祖父の葬儀をしてから、雪崩れ込むように気がついたら年が明けていたような状況でしたので、新たな清々しい気分になる余裕もなかったことも事実なのですが…

 「今年は!」
と思ってはいても、その思いがなかなか持続できないのが「私」です。毎年のように「今年こそ」と反省しながらも、その反省の気持ちすら続かない「私」だと、あらためて感じる時期でもあります。
 自分で建てた目標のようにはなかなかならない私ですが、仏と成らせていただける私であることを阿弥陀様に感謝して、少しでも元旦の新たな気持ちを忘れないように過ごしていきたいものだと思います。

 今年も、よろしくお願い申し上げます。

2002年1月

 今月の言葉MENU

 

 

引く足も 称うる口も 合わす手も
弥陀願力の 不思議なりけ

本願寺 第14代寂如上人(1725年 御往生)の、詠まれたうたです。

 今年も元旦の朝6時に始まる修正会(元旦会)が、勤まりました。一緒に正信偈と現世利益和讃(ここら辺では現世利益和讃を1月に詠むことが多い)をお勤めし、
「新年おめでとうございます」
と挨拶を交わし、朱塗りの杯で屠蘇をいただきました。
 「影現寺だより」(毎月門信徒さんに配布)にも書き、また、お誘いもしましたが、10人ほどの集まりでした。
 報恩講にお誘いすると、
「そのうち暇になったらお参りしますちゃ」
と、おっしゃる人があります。それほどお寺参りはできないものなんでしょうか…
 そのことを、「引く足も」と表現してあるのです。

 寺へ参れば手を合わせ、お念仏します。また、お葬式や、ご法事におまいりすることがあると思いますが、皆さんと一緒に手を合わせてお念仏しますね。
 自分の意思でお参りに行くと思いがちではありませんか。誰かに誘われて行っているとは思いませんか。では、それは住職さんですか。親戚の人ですか。
 寂如上人は「弥陀願力の不思議」と、申されました。阿弥陀様の、私の頭では理解できないお力によってお参りさせられる、ということです。

 仏教では、人間の力を「自力」と言い、仏様の力を「他力」と言います。決して、他人の力ではありません。間違って解釈されると困りますので、法話をする時は黒板に「陀力」と書く事があります。決して「自分以外の力」ではありません。浄土真宗では勿論、阿弥陀様のお力を言います。
「欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、妬む心多く」
と言われる自分。その心をなんとかしたいと思うけれども、この肉体を持つ自分では、いかに努力しようとも綺麗な清らかな心にはなれません。

 このような私の生き方・行く先を心配してくださる阿弥陀様です。

 平素、私の願うことといえば、自分に都合の良いことばかり。念仏する時に心を込めれば込めるほど、いろんな欲心が混じります。雑物が混じってしまいがちです。いつまでも若く健康で、収入もあって死なないように……と、願い事もエスカレートするものです。
 そんな心の混じった念仏では困ります。
 そこで阿弥陀様は、私の頭では理解できないお力で、私を念仏しやすいところへ誘い出し、手を合わせ、念仏させてくださるのです。

 京都女子大学を創設された甲斐和里子女史が詠まれました。
み仏の み名となふるわが声は
わがこえながら とうとかりけり

 つまり、自分で念仏しておれども、気がつけば阿弥陀様にさせられておりました、ということです。
 私に念仏させて、仏に成る為の善と徳を我が身に具えさせ、お浄土へと連れて行ってくださる、何もかも阿弥陀様のお働きなのです。

住  職

2002年2月

 

 

人間の まごころには 限りがあるが
執着には 限りがない

「お金や物質にとらわれた、殺伐とした時代になった」と嘆くのは、私だけではないでしょう。
 でも本来、私たち人間は皆、優しい心を持っています。全体を見れば荒れていますが、ひとりひとりを見ると、優しい人が沢山いらっしゃいます。
 その人の子供の頃から知っている青年がおります。俗に言う、「おじいちゃん・おばあちゃん子」として育ちました。朝暗いうちから仕事をしている、真面目な好青年です。
 周囲の人から聞いたことですが、おばあちゃんが小学校のクラス会に行きたいけれど、今はお金が無いと困っていた時、
「行ってこられ」(行っておいで)
と、お金を差し出したそうです。車のローンで大変な青年が、おばあちゃんのことを思い、お金を差し出したとは感心しました。小さな時から知っているから、尚更嬉しく聞きました。
 皆様の周りにもいろんな嬉しい話があると思います。
 ところが歎異抄に

聖道の慈悲といふは ものを憫(あはれ)みかなしみ育(はぐく)むなり、
しかれども思ふが如く 助け遂ぐること極めてありがたし。

と、あります。
 気持ちが100あっても、できることは幾つあるでしょうか。1つもできないこともあります。痛い、苦しいと言われても、代わってあげることはできず、ただ見ているだけのこともあるでしょう。
 できないことが続いたり、好意を断られると段々嫌になってくることもあるでしょう。それで、まごころに限りがあると言わざるを得ないのです。嫌なことですが、私たちの身体や心に限界があるということです。
 一方、自分の身体や持ち物となると、それを維持するために必死になります。これを執着と言います。
 病気を治したい、健康を維持したい、もっと大きな家に住みたい、高級車が欲しいなどと際限なく欲望が沸いてきます。私の身体、物、肩書き、地位、家族など、何にでも「私の」がつきます。これを書いている私も、どのとおりです。

 今、次女が友達の母親の通夜に出かけました。51歳だったそうです。
 亡くなれば全てをを放し、全ての人と別れるしかない私達です。子供でも知っていることではありますが、本当に納得していない自分ではないでしょうか。納得していないから、苦しい・辛い・悲しいのでしょう。
 だからこそ阿弥陀様は私の側に居てくださるのです。一緒に苦しみ悲しんでくださいます。全ての人と別れても阿弥陀様だけは一緒に居てくださいます。そして阿弥陀様の浄土へ連れていって仏にしてくださいます。
 ですから親鸞聖人は阿弥陀様を「あて たより」にして何時もそのお名前を呼んでいらっしゃいました。私たちも気付いたとき、お名前を呼びたいものです。

 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏……ナマンダブ・ナマンダブ……

住 職

2002年3月

 

 

念仏は 知る力
自己を知る 悪を知る 死を知る 恩を知る

 先日、ライターの方に、インタビューを受ける機会がありました。
 門徒さんのお通夜で私を見かけて、興味を持たれたようです。

 私よりも少し年上の その方は、
「(宗教については)知識が無いんです」
とおっしゃって、興味深げに色々と質問してらっしゃったのですが、その方だけではなく、皆さんも「お寺さん」に対して、ちょっとした先入観があるかもしれません。
 以前にも、
「やっぱり、お寺のおねーちゃんだから、考え方とか違うやろ」
というようなことを、聞かれたことがあります。

 人は其々違った考え方を持ち、いろんな感じ方をして生きているものです。私だけが特殊というのはちょっと違うかな?という気がします。やはり、先入観というのでしょうか。
 でも、生まれ育った場所が寺院であったおかげで、祖父や父の後ろで手を合わせていた幼い頃、法要に集まってお念仏する門信徒さんに囲まれて育ち、自然と手を合わせることが身についたのは間違いないし、同年代の方はあまり慣れないことなようで、不思議かもしれません。

 高校の頃に得度して、僧侶になりました。でも、他の高校生と、なんら変わらない私だったと思います。休み時間にたわいの無いことを喋っている、普通の高校生です。
 でも、手を合わせることに自分を見つめるとか、嬉しいときに「有り難い」という、文字通り「有ることが難しい」というご縁とかご恩を考えられるようになったのは、環境と、得度がキッカケになったと思います。

 べつに、「だから皆さんも、得度しましょう」だとか、「難しい本を読む」だとかいうことではないのです。私の場合は得度がキッカケになっただけで、皆さんだって、法要に参拝したり、大事などなたかを亡くしてしまったり、ご仏前で結婚式に参列したり、家族が手を合わせる姿であったり、ちょっとした誰かの一言だったり、そういうことも全てがキッカケになりうるわけです。

 「本堂にいたら、特別な気持ちになりませんか」
と、言われました。その通りです。
 でも、皆さんだってそうではないでしょうか。宗教は…お念仏は生活の一部であって、別世界の話ではないのですが、荘厳なお仏壇や、お寺の内陣、高い天井や、独特な雰囲気。真ん中の阿弥陀様。
 静かに手を合わせるとき、誰でも自分自身を見つめることができるのです。

2002年4月

 

 

揉まれねば この味は出ぬ 新茶かな

 5月になりました。
 門信徒のお爺さんお婆さんから、お孫さんが幼稚園や保育園に行くようになられたという話しを耳にします。
 お参りに伺うのが、子供たちが幼稚園や保育園にいる時間ですから、これまでは一緒にお参りしていたのに、後ろにいなくなると、成長を思うと同時に、少し寂しくもあります。
 実際、
「毎日 朝から一緒におったがに、静かだと、あいそもないちゃ」(毎日 朝から一緒にいたのに、静かだと、寂しいです)
と、おっしゃる方も多いです。

 友達の子供が、節分(ちなみにこれは浄土真宗の行事ではありませんが)の時期に体験入園に行ったそうです。
 先生が豆の代わりに飴を投げてくれて、子供たちが拾うのだそうですが、その子はひとつも拾うことが出来ず、お母さんの側にいたそうです。
 最終的には、拾えなかった子供たちに先生が分けてくれたそうですが。
 まだ一人っ子の状態だったので
「家では兄弟で取り合うこともないし、買って貰うものは全て自分のものだから、今まで取りに行くということが無かったんじゃないの?保育園とか幼稚園とかに行って、集団の中に入って友達が出来たら、きっと大丈夫だよ」
と申しましたら、
「そうかもしれない」
と、友達が言っておりました。

 大人だけでなく、幼い子供たちも家から出て、色々な出会いの中で揉まれ、成長していきます。
 ぶたれたことが無い子は、人をぶつと痛いということを知らないけれど、喧嘩をしたり、悪いことをしたら怒られたり(本当は家で教わるものだと思うんですが)そういう中で良いことと悪いことを覚えていきます。
 勿論、子供だけでなく大人も、社会に出たり、失敗や苦労や成功を含めた沢山の経験をしたり、色々な人の話を聞いたりして、揉まれて成長していきます。
 ただ、沢山の経験の中で、自分の力で生きてきたと驕りがちな私たちがいます。いつの間にか人の話を素直に聞けなくなっている自分がいないでしょうか。

「永代経があるから、いらしてくださいね」
等と行事のことをお話しても、
「なぁん、まだ寺に行くにちゃ、早いちゃ」(いいや、まだ寺に行くには、早いです)
と、話を聞く耳持たないという方も、実際にいらっしゃいます。

無慚無愧の この身にて
まことの心は なけれども
弥陀の廻向の 御名なれば
功徳は十方に みちたまふ
 人に、法に恥じる心が無い…畜生とも言います…この身で
 真の心は無いけれど、
 南無阿弥陀仏の功徳は
 十方に満ちています

 いくつになったから法を聞くというものではありません。
 例えば…ちょっと余談ではありますけれど…お寺や教会が運営している幼稚園や保育園などは、親御さんにから見たら、良いと思われがちなようです。確かに、親鸞聖人の銅像に会釈したり、藤祭りなどの宗教行事に参加したりして、幼い頃から手を合わせている子供を見ますが、子供たちを送り出している家族はどうなんでしょう?「自分はまだ早い」なのでしょうか?
 子供であれ、大人であれ、頭ではわかっていても、いつも綺麗な心でいられるわけではない、驕り昂ぶりの心も常に持ち合わせている、無慚無愧のこの身です。
聞かざれば この身にはわからぬ 弥陀の御心
ではないでしょうか。

2002年5月

 

 

信仰は 人生の力である

 娘が先日、チャットで友達と話していたら
「外国在住で、仏教について知りたいという人がいるのだが……」
という話になりました。知りたがっていた方は、娘やその友達が直接知っているわけではなく、ドイツ語圏の方でした。インターネットはこのような繋がりができて、面白いようです。

 諸外国では
「宗教は何?」
ということを聞かれることが少なくないそうです。キリスト教でも最近は若者の宗教離れが問題になっていると聞いたことがありますが、やはり日本より生活に密着しているから出る質問であったり、興味があったりするのでしょう。
 この方には、ドイツ「恵光」日本文化センターという、仏教伝道協会の呼びかけで日本の各宗派が協力して設立された寺院のホームページを教えて差し上げたそうです。

 数年前、門信徒の皆さんとハワイ別院へ団体参拝しました。(行事報告参照)
 あちらのお寺では、日曜日にキリスト教のミサのように法要があり、門信徒の皆さんが集まります。時間を変えて、英語のご法話、日本語のご法話があって、門信徒の皆さんが司会などのお世話をして勤まります。
 葬儀や法事以外にはお寺に参拝しない人が多い日本とは、えらい違いですね。いかに宗教が生活と密着し、人生に欠かせないものとしてとらえているかがわかるというものです。

 とある会社が「他力本願」という言葉を誤用して宣伝に使ってクレームがつきました。
 仏教用語である「他力本願」は一般的に「人に頼る」とか「依存する」というような意味で使われてしまっているようですが……

 寺参りはまだ早い。そのうち歳をとったら参ろうかな…等と思っている方はいらっしゃいませんか。
 昔、会社を定年退職した後の再就職も退職した方が
「そのうち歳をとったら、寺へ参るちゃ」
と、言われました。その娘さんが
「あんた、年寄りでないがけ」
と笑っていましたが、その方はとうとう寺へ参ることなく、亡くなられました。
 老人が暇潰しに行って、ご法話を聞くのではありません。自分がどう生き、どうなっていくのかを考えるのが信仰の世界ではないでしょうか。
「自分にとって宗となる教え」
それが宗教です。
 そんなことに無頓着な人が多いから、新聞に大きく載せた宣伝文句に、誤った仏教用語を使ってしまい、後で慌てている始末です。

 では、改めて考えてみましょう。
 本来、仏教の目的はなんでしょう。悩み苦しむ自分が、清らかで苦しみのない境遇に成るこです。
 例えば、子供の頃は周囲から”成長”を願われます。でも、いつの頃からかそれは”老い”という言葉に変わってしまいます。嫌なことですが、逃れるわけにはいきません。
 そして、身体のあちこちが都合悪くなってきます。病です。そして、必ず死ぬ時が来ます。こんな苦しみはないでしょう。
 ですから、苦しみのない世界を求めるのです。それは即ち、仏に成ることです。
 その方法には2つあります。
1、自分の力で仏に成る
2、阿弥陀様の力で仏に成る

 前記の苦しみの他に、毎日の生活上、三毒の煩悩(欲をおこし腹をたて愚痴をこぼす)を燃やす自分ではないでしょうか。ですから自分の力で清らかな心に成ることは至難の業でしょう。
 お釈迦様以来、どなたも自分で清らかな心に成られた御方はありません。そうすれば私にとって、阿弥陀様の力で仏に成る以外方法はありません。
 この時、阿弥陀様のお力を仏教用語で「他力」といいます。限られたスペースで説明することは大変難しいことですが、
「お願い致します」
と、自分のほうから願うのではなく、阿弥陀様のほうから
「助かってくれよ」
と仰る仏様です。
 阿弥陀様が私に対する気持ちは、親が子に対して
「大きくなってくれよ」
と願うのと同じ気持ちで、大慈悲心で接してくださいます。
ですから、私にできない注文はつけていらっしゃいません。私にできないことは全部承知の上ですから、私に代わって私が仏に成るための善と徳をつんで、それを私にお与えくださる仏様です。
 それで(阿弥陀様)というのです。

 阿弥陀様の私に対する気持ちを信じた時……村田静照という学者であり念仏行者でもある方が
日光がさし込むと、室内の空気中の塵が よく見える。
仏智の光がさし込めば、心の浅ましさが いよいよ見えてくるなり。

また、
大海に入るには尻を洗うにおよばぬ。そのまま入ればよい。
如来様のお心は海のようである。
しかし、風呂に入るには尻を洗わねば人がうるさがる。
世間を渡るには悪を改めて、善を心がけねばならぬ。

と、説かれました。

 自分の心を素直に見つめ、冷静に物事に対処できる自分でありたい。
 阿弥陀様をあてたよりにして、人様に嫌がられることのない生活をしたいものです。

住  職

2002年6月

 

 

人はみな
目のために欺かれ 鼻のために欺かれ
口のために欺かれ 身のために欺かる

お寺の掲示板にはこれだけなのですが、この後には

汝が目を正しくせよ 汝が耳を正しくせよ 汝が鼻を正しくせよ
汝が口を正しくせよ 汝が身を正しくせよ 汝が意(こころ)を正しくせよ

と、続きます。

 よい香りの美しい花だと思っても毒があることだってありますが、第一印象というものは誰にでもあるものの、それだけでその物や人をはんだんするわけにはいきません。
 最近は慣れたのか、あまり聞かなくなりましたが、一時期は
「今の若い人の格好はなんだ!」
と、ちょっとだらしなげな格好が流行ると
「ガラの悪い子ではないか、良くない事をするのではないか」
という色眼鏡で見た言葉を耳にすることが多かったように思います。
 でも実は、優しいお孫さんだったり、親切なお子さんだったりするわけです。
 流行の移り変わりははやいですけれど、モデルが着ている流行の格好に、似合う似合わないを別にして飛びつくことも、目に欺かれた……というか、見えることによって起こった私の煩悩からくる行動なのかもしれませんけれども。

 美しいと思うものを好むのは本能ではありますが、自分の都合のよいものを好きといい、都合が悪いとか気に食わないものを嫌う私たちです。
 美味しそうな匂いがしたら「食べたいな」と思うでしょうし、素敵な香水の香りにドキッとしたり、また自分も同じものを欲しがったり。

 口は禍のもとと言いますが、嘘を吐いたり吐かれたり、自分を誉めてもらえば喜び(当然でしょうけども)、叱られたり注意されると、善意からの言葉だとわかっていてもムッとすることだってあるでしょう。

 先日、Wカップが開催されました。とくにサッカーに興味が無かった方も、世の中の盛り上がりにつられてTVの前で観戦し、日本の初出場の頑張りに一喜一憂し、好きな選手がいる国を応援したりなさったことだと思います。
 あの頃にTVを観ていて、
「あの審判は、××(負けてしまった国)に対して厳しく無かったですかぁ?」
と言った司会者がいらっしゃいました。
 実際、審判の判定が問題になった試合もありましたけども、その試合はフェアな審判だったように見えましたし、元サッカー選手の解説者も、フェアだったと答えていらっしゃいました。
 どうしても応援するとなると贔屓目で見てしまいがちで、アンフェアに見えてしまったことから出た、司会者の言葉だったのでしょう。
 ケースは違っても、誰にでもありうることではないでしょうか。

「正しくせよ」
と、言われても、
「なるほどな」
と、頭で理解しても、正しく清い自分でいることは、難しいことです。
 知識や考えと、心で感じることはまた別ではないですか。
 でも、だからといって
「別なんだから、仕方ないじゃないか」
と言って開き直るのでは、頭ですら理解していないのと同じことになるのではないでしょうか。
 常に正しくはできないけれど、ふと気づかせていただける瞬間があれば、それはとても尊い瞬間だと思います。

2002年7月

 

 

わしがしなけりゃ だれがする
いましなけりゃ いつできる

 本当は最初に「念仏」とつけたかったのですが、つけなければ何の場合にも当てはまる文章だと思います。
「宿題、しなさいよ。それから遊びなさい。早く休みが終わらないかしらね」
と、学校が夏休みになると、よく耳にします。走り回ってうるさい上に。明日、明日…と延ばしている宿題。
 子供だけでしょうか?大人にも、
「誰か、やってくれるだろう。今しなくても、後でナントカなるだろう」
と、他人をあてにしたうえに、仕事を引き伸ばしている事の、なんと多いことか。

 夏休みになると、海水浴・川遊びの事故死が100人を下りません。このように、楽しいはずの夏休みが、取り返しのつかないことになる場合もあります。
 また、お盆の帰省途中の交通事故死も多くあります。家族で待ちに待った帰省の途中で死ぬなんて、誰も思っていません。
 いつまでも生きていると思いがちですが、明日の保障がある人なんて何処にもいません。まさに、
「いましなけりゃ いつできる」
です。

 よくご存知の『白骨の御文章』に、
朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり……
されば人間のはかなき事は、老少不定のさかひなれば……

と、ご教示あります。
「寺参りや念仏は、年寄りになってからでいいんだ」
と、言う人がありますが、年寄りになると医者通いに忙しくなり、寺どころでは亡くなる人もいらっしゃるようです。また、
「足が痛くて、座っていられないから、行けない」
という方もあるかもしれません。(お年寄りの定義がどこらへんなのかは個人差があるだろうし、わからないけど、最近本堂では座布団より椅子が大人気です:さと衛門)
 また、聞くには耳の悪くなり、テレビの「ご長寿クイズ」のように理解力も落ちて阿弥陀様のお気持ちにも自分勝手な解釈をしたりと、本当に救われている喜びも湧くかどうかわかりません。

 8月初めに、アメリカから、オレゴン仏教会に通う21歳と、ロサンゼルス別院に通う24歳の青年が来日して、当寺院に2泊していきました。家族と一緒にお寺へ通っている青年たちが、本願寺へお参りして、飛騨高山で開催された「真宗青年の集い」に参加する前に、当寺院に寄ってくれたのです。
 椅子があるのに座布団が珍しいらしく、正座して足が痺れて困っていましたが、毎朝のお勤め(お晨朝)も、声を出して詠んでいました。

 呉羽山の五百羅漢へ案内した時、私の英語力ではなかなか難しいことでしたが、お釈迦様の高弟500人のことは理解してくれました。
 やはり、若い時でなければ、難しい事ではないかと思いました。
 アメリカ人が手を合わせ、焼香し、お経を読んで、念仏するなんて想像できない方もいらっしゃるかもしれませんが、高山の集いには外国から80人が参加したそうです。
 キリスト教徒の多い国ではキリスト教徒に習って、日曜日には家族で別院や寺院にお参りするそうです。そんな環境にあり、念仏を喜ぶようになった青年が
「私が参加しなければ誰がするか」
の勢いで、来日されたのでしょう。

 今、聞法し念仏しなければ、いつ喜ぶことができるのでしょう。私が念仏し、私が喜ぶのです。他人がしなくても、私がお念仏します。「いつか」ではなく、「今」喜びましょう。
 これが、私たち仏教徒の目的でもあると思います。

 本来怠惰な私の心に任せれば、他人に言えないような恥ずかしい、愚かな気持ちを起こします。それに気づき、阿弥陀様に懺愧し、私のために働いてくださる阿弥陀様に感謝してゆくのです。
 また、私に心や身体をかけてくださる方に感謝していくのが本当でしょう。

住   職

2002年9月

 

 

久遠の愛 いのち等しく おがまれて

 『正信念仏偈』のはじめ3行目から、ゆっくりと意味を考えながら読んでみてください。意訳を見たほうが、わかりやすいかもしれませんね。

法蔵比丘のいにしえに
世自在王のみもとにて
諸仏浄土の因たずね
人天よしあしみそなわし
すぐれし願をたてたまい
まれなる誓いおこします
ながき思惟の時へてぞ

と、書かれてあります。
 私たちには考えられることも出来ない遠い遠い昔、数字では表すことが出来ない久遠の昔に、私のことを心配して、私のために私の能力に合わせて、私が仏に成る道をつくってくださいました。
 考えられたのは、法蔵菩薩様。そして、永いご苦労の末、阿弥陀仏となられました。阿弥陀仏に成られた時、私が仏に成れる道が完成したのです。ですから阿弥陀様は、久遠の昔から、私に愛を注いでくださっております。

 親鸞聖人は、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためなりけり

と、遠い遠い昔からおろかなものを救おうと願い、苦労されたのは他人のためではなく、ひとえに私、親鸞一人のためだったと、喜んでおられます。

 また、お経には

十方の衆生を目当てにしてくださる阿弥陀様

と、説いてあります。阿弥陀様からすれば「皆を救いたい」お気持ちであることがわかります。

 世間では普通、私たちが阿弥陀様を拝みますが、その反対に、阿弥陀様が私たちを拝んでくださいます。
 というのは、お経に「若不生者 不取正覚」と、あります。(『仏説無量寿経』で法蔵菩薩様が仏に成るために立てられた48願にある:さと衛門)この意味をうかがうと、私に向かって「助かってくれよ」「仏の命をかけて助けずにはおかない」とまで呼びかけてくださる意気込み、目的をお持ちの阿弥陀様ですから、私たちを拝んでくださるのです。

 誰でも大切な命を持ち、自分しか出来ない働きをし、生かしあっております。自分にすれば、生かされております。しかも、阿弥陀様から仏に成ることを願われ、拝まれている私です

 親鸞聖人の詩、『現世利益和讃』に、

無碍光仏の光には 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり
南無阿弥陀仏をのなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重圍曉して よろこびまもりたまふなり

と、あります。
 助かってくれよ、のお気持ちから、念仏者をまもってくださる大慈悲心を喜んで詠まれた詩です。

 昔、念仏を喜ぶことで有名な讃岐の庄松さんという人がいらっしゃいました。
 友達一緒にご法話をお聴聞にでかけました。大変素晴しいご法話に、友達は感激し、涙ながらに言いました。
「庄松さん、こんなありがたいお話を聞いたら、流石の私でも邪見の角がとれました」
庄松さんは
「そうかい。とれた角なら、また生えにゃいいがのう。角の生えたまんまのお救いと聞こえなかったかのう」
と、答えたそうです。
 角の生えた私だから、「助かってくれよ」とお呼びくださり、拝んでくださるのです。邪見の角のまま大悲に円融されていくところに、念仏の救いがあり、それこそ、「煩悩を断ぜずして涅槃をうる」(『御文章』の「信心獲得章」にも書かれてますね:さと衛門)という素晴しい救いがあるのです。

 世の中には思い通りにならないことが多すぎます。念仏する人にも同じことです。でも、念仏者はその苦しみに念仏を溶け込ましてゆかれました。そして、懺愧と感謝に変えてゆかれました。そういう人を、妙好人(みょうこうにん)と呼びます。庄松さんも、そのお一人です。
 難しいことですが、そう心の時間をとりたいものです。

住   職

2002年10月

 

 

ゆるせぬものを ゆるせぬままに
摂取不捨

 煩悩に満ち満ちた私たちだけれども、そのままに、阿弥陀様に救い取られるという意味です。
 「ゆるせぬまま」というのは、「このままの私」という意味で、阿弥陀様に許されないという意味ではありませんよ。

 私たちが日々暮らしていく中で気を使っていることもあれば、優しい穏やかな心のこともあるでしょう。我が子や孫の成長に喜び、可愛がっているペットの仕種に微笑む。その他にも沢山優しく暖かな心でいる時間もあるでしょう。
 しかし、そんな時間ばかりではなく、言うことを聞かないと腹を立てたり、人を羨んで興味本位にアレコレと言ってみたり、妬んでみたり、文句を言ってみたり、愚痴ってみたり、そんな私たちも存在します。

 「今の若い人は何でも便利なものがあって、楽でいいわ。私たちの頃なんかね……」
とか、
「何でも贅沢にあって、肉みたいモンばっかり食べてて。今の人は煮物とか嫌がって贅沢だわ」
という言葉を耳にすることがあります。
 確かに、戦火を潜り抜けて生きていらっしゃった方々、終戦前後にお生まれになった方々にしてみたら、私たちの世代が生まれた頃から当然のようにあったと思っているものでも、便利で贅沢に見えることもあるでしょう。実際に私たちには想像できないご苦労も多かったのでしょうし。
 しかし、いつの間にか愚痴になってしまいます。現代を生きる若い人も、その時代の流れの中で頑張って生きていらっしゃる。景気が悪いとか、リストラだとか、現代病といわれるものだとか、その時々の問題の中で家族を守り、働き、生きています。それを見ていても、
「今の者は贅沢で……」
と言いたくなるものなのでしょう。
「じゃあ、昔のほうがちゃんとしていたって言うなら、今の生活から昔の生活に戻れるの?」
と聞くと、
「そういわれると、嫌だけどね」
と、笑い話で終わっていく只の例え話ですが、誰にでも思い当たることかもしれません。

 仲良く一緒に生きていく家族であっても、支えあっている友達であっても、またテレビに出てくる人のことであっても、愚痴や妬みにつながる心が起こることもある私たちです。
 ふと手を合わせ、
「駄目駄目、こんなことばかり言ってちゃ」
と気づき、怒ったり反省したり煩悩に苦しむ私たちをそのまま救って捨てないぞとおっしゃる阿弥陀様への感謝の心を思い出す時間が、欲しいものです。

2002年12月