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様々な場面において、しばしば物事に対して「受け身でいる」姿が見られる。自分なんかその場にいなくてもおなじという顔をして、自分の意志や意向はとりたててないような素振りをする、このことは、そうしているのが一番危険がなさそうだ、安全だと思える時、よく使われる行動である。では、安全ならどのような良いことがあるかというと、「なんとなく安心」という気分になれそうな気持ちになれるのである。つまり、「受け身」のもたらすものは、「安心感」であると言えるだろう。ということは、私たちが受け身でいる時は、同時に、ゆったりとした安心感を得ていなければならない。
ところが、受け身でいる時というのは、実は決して安心感を得られない原理になっているのだ。「受け身」というのは、その根本構造が「相手次第、相手の出方次第」なので、いつも相手がどのような行動に出るか見守っていなければならない。この作業は、「受け身」でいるために、まず欠かせない作業である。次に、相手の出方をただ見守っているだけではなく、それを了解し把握して、それと自分との関連を探り、相手が怒り出したり、自分を嫌いになったりしないような自分のやり方を、見つけなければならない。これは、神経を使う大変な心理作業である。しかも、これを行わないと不安になってしまう。自分のやり方に自身がもてない場合は、その様な心理作業の一端を小出しにして相手の様子を見たり、すこしその場から離れてみるなど、いろいろ方法はあるが、大変なことには変わりはない。「安心感を得る」とは、ほど遠い。安心感などは、夢のまた夢である。
それでは、受け身でいることの良さとは、他にどの様なことがあるのだろうか。
自分で決めなくてよい、何も自分で決断を下さなくてよいということである。確かに、これは楽である。これと、「自分でとる態度が決まらない時に、決定を下さない」とは異なる。こちらは「受け身」ではなく「待つ」と言うべきであろう。時の流れ、状況の流れを、じっくり見続けることである。「待つ」というのは、自分が自分の決定を下す時、その時を待っているわけである。いつでもその時が来れば、自分の決定を下す心の姿勢があるのだから、「受け身」どころかとても積極的な姿勢である。「受け身」というのは、永遠にそれがない。自分で決めたくない、相手に決めてもらいたいのだ。「いま、自分が、なにをしているのか」について、相手次第なのだ。相手というのは、社会だったり、会社だったり、友達だったり、恋人だったり、親だったり、一口でいえば、自分以外の周囲の状況である。「周囲の状況」に「いま、自分は、なにをしているのか」「なぜ、そうしているのか」の決定と理由づけをゆだねているのが、受け身というやり方である。このやり方だと、出だしの頃は少し楽かもしれないが、結局不安になってしまいます。いつまでたっても、自分に自身がもてない、自分を自分で信頼出来ない。そこから立ち昇ってくるモヤモヤっとした不安感とともに生きていく、ということになる。
これくらいのことは分かっているはずなのに、私たちは、時として「受け身」になってしまう。それは、自分の人生を自分で選択して決定して生きていくのが怖いからであろう。自分で決めてしまうと、誰のせいにも出来ないからである。「受け身」でいる時の私たちは、自己不信感を代価に支払って、自分の人生を「誰かのせい」にしてしまうずるさを確保していたいのであろう。 |