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Lovely Life のために
ほんとうの わたし
    
・・・・・・ ほんとうの あなた

自分探しの旅
since
1999
9.6
まずはじめに 受け身でいること
待つことを意識することの重要性
自分  自分と自分以外
     自分で自分を見る
社会  社会が先か、自分が先か
     社会が先という考え方の息苦しさ
まず、考えるか、感じるか
考える  地図を作る・行動の仕方
    地図は地図である・見えてくるイノチ
感じる  ストレスとリラックス
     いま・ここ

受け身でいること
 様々な場面において、しばしば物事に対して「受け身でいる」姿が見られる。自分なんかその場にいなくてもおなじという顔をして、自分の意志や意向はとりたててないような素振りをする、このことは、そうしているのが一番危険がなさそうだ、安全だと思える時、よく使われる行動である。では、安全ならどのような良いことがあるかというと、「なんとなく安心」という気分になれそうな気持ちになれるのである。つまり、「受け身」のもたらすものは、「安心感」であると言えるだろう。ということは、私たちが受け身でいる時は、同時に、ゆったりとした安心感を得ていなければならない。
 ところが、受け身でいる時というのは、実は決して安心感を得られない原理になっているのだ。「受け身」というのは、その根本構造が「相手次第、相手の出方次第」なので、いつも相手がどのような行動に出るか見守っていなければならない。この作業は、「受け身」でいるために、まず欠かせない作業である。次に、相手の出方をただ見守っているだけではなく、それを了解し把握して、それと自分との関連を探り、相手が怒り出したり、自分を嫌いになったりしないような自分のやり方を、見つけなければならない。これは、神経を使う大変な心理作業である。しかも、これを行わないと不安になってしまう。自分のやり方に自身がもてない場合は、その様な心理作業の一端を小出しにして相手の様子を見たり、すこしその場から離れてみるなど、いろいろ方法はあるが、大変なことには変わりはない。「安心感を得る」とは、ほど遠い。安心感などは、夢のまた夢である。
 それでは、受け身でいることの良さとは、他にどの様なことがあるのだろうか。
 自分で決めなくてよい、何も自分で決断を下さなくてよいということである。確かに、これは楽である。これと、「自分でとる態度が決まらない時に、決定を下さない」とは異なる。こちらは「受け身」ではなく「待つ」と言うべきであろう。時の流れ、状況の流れを、じっくり見続けることである。「待つ」というのは、自分が自分の決定を下す時、その時を待っているわけである。いつでもその時が来れば、自分の決定を下す心の姿勢があるのだから、「受け身」どころかとても積極的な姿勢である。「受け身」というのは、永遠にそれがない。自分で決めたくない、相手に決めてもらいたいのだ。「いま、自分が、なにをしているのか」について、相手次第なのだ。相手というのは、社会だったり、会社だったり、友達だったり、恋人だったり、親だったり、一口でいえば、自分以外の周囲の状況である。「周囲の状況」に「いま、自分は、なにをしているのか」「なぜ、そうしているのか」の決定と理由づけをゆだねているのが、受け身というやり方である。このやり方だと、出だしの頃は少し楽かもしれないが、結局不安になってしまいます。いつまでたっても、自分に自身がもてない、自分を自分で信頼出来ない。そこから立ち昇ってくるモヤモヤっとした不安感とともに生きていく、ということになる。
 これくらいのことは分かっているはずなのに、私たちは、時として「受け身」になってしまう。それは、自分の人生を自分で選択して決定して生きていくのが怖いからであろう。自分で決めてしまうと、誰のせいにも出来ないからである。「受け身」でいる時の私たちは、自己不信感を代価に支払って、自分の人生を「誰かのせい」にしてしまうずるさを確保していたいのであろう。 

待つことを意識することの重要性
 人間というのは一人ひとり、社会の投影図である。たとえば、狼社会に育てられた少年は、狼のようなヒトになるし、ヒト社会に育てられると、ヒトのようなヒトになる。ヒトは文化的にプログラムされているのである。であるから、「分からない時に、分からないままでいる」ことが出来ない、ついつい急ごしらえの感情や意志で、その場を間に合わせてしまう、つまり「待つこと」が出来ない、苦手なのは、ヒト社会そのもののプログラムが、待つことを苦手としている、ということである。苦手というよりも、待つことを知らない、あるいは、待つことを意識していない、と言った方が正確であろう。
 それは、ヒト社会の文明にもよく現れていて、西洋をリーダーとする文明は、「より早く、より効率よく」がモットーである。ゆっくりよりも、早い方がよい。テレビ画像は、スイッチを入れた途端に出現するのがよい。手紙よりも、電子メールやファックスがよい。鈍行列車よりも、新幹線・ジェット機がよい。馬車・人力車・徒歩は、好ましくないのである。
 このように、ヒト社会全体の潮流は「ノロイのはダメ、早いのがよい」の方向に流れている。早くさえなれば進歩充実しているように、感じられる。そうしたヒト社会に生まれ育った我々の仲間が、「より早く主義者」になるのは、当然のことである。誰もが時代の子、社会の子であるから、「分ラナイ」ままでのんびりしてはいられない。火は常に尻についているので、ともかくも、手っ取り早い反応をする。
 しかし、ただ反応が早いだけではいけない。その素早い「反応」は、ヒト社会のオキテの許容範囲内に、収まっていなければならない。ヒト社会の常識範囲内の行動を取っていないと、「人でなし」と言われたり、「あの人、ちょっとオカシイんじゃない」と言われたりする。上司が気に入らないことを言ってきたからといって、「アッカンベー」などして帰ってはいけないのである。お得意さまが、自分に悲しい思いをさせたからといって、ピーピー泣き出してはいけないのである。常識の範囲内で行動しなければならないのである。素早く、かつ、常識的に。これが、現代の人びとに与えられたプログラム(課題)である。
 この様に考えると、現代人はみんなかわいそうで、少々うそつきになっても仕方がないという気もしないでもない。
 しかし、このことを逆に考えると、素早くかつ常識的、でありさえすれば、もうそれだけで社会の要請は満たせるし、本人自身が自己正当化していられる、さらに言えば、充実感すら感じていられる。ここが恐ろしいところである。ある役職を依頼され、その時に「引き受けると、どういうことになるか分からない」と感じ、断るとしよう。その時、仮に「私は、魂の自由を至上とするものです。その役職につくということは、魂の自由を束縛しかねない危惧があります。よって、折角のお申し出ではありますが、辞退させていただきます」と、ものものしく応えれば・・・。仮に「運営部と企画部との共同戦線的相乗効果」について一席ぶてば・・・。仮に「アイサツ的言語がもたらす精神の無内容化」について、とうとうと述べれば・・・。社会のウケは(それなりに)よいだろうし、本人自身「やったな」という感じにもなったりするだろう。実のところは「分ラナイ」だけのはずであったのにである。単なる、手っ取り早い反応態度に過ぎなかったのに、あたかも、自立的態度に周りも自分も思えてしまうのである。
 何を話せばよいのか「分ラナイ」時は日常茶飯事な事でもある。人との別れ際には、お互い何の関心もなくても、「近い内に一緒に食事でもしましょう」、「ええ、是非」などといったりしている。まったく無言のまま別れあう、というのは、出来にくいことである。出来にくい、ということは、ヒト社会の文化的プログラムから外れているからだ。ヒトは、社会の文化プログラムに、なぜかくまでも従順なのであろうか。それは、ヒトはいつも、自分としての「まとまり感」が必要であるからであろう。つまり「自己組織化」である。
 「自己」と「環境」というものは、ひっきりなしに、絶え間なく交流を繰り返している。そして、その交流状態をとおして、瞬間、瞬間、自己という存在・統合体が維持されている。ヒトは、常に「自己組織化」せずにはいられないので、文化的プログラムから解放されにくいのである。世間の枠組みから出られないのである。
 それでは、「自由」になるためには、どうすればよいのか。自己組織化の習性を一度はずし、つまり自己存在を一度解体し、そうすることによって、生まれて以来のしかかっている文化的プログラムの重圧から解脱すればよいのだ。その上で、生きればよいのである。少し踏みとどまって、心を鎮めてみれば、ちゃんとそれなりに自己組織化して、「ひとまとまりの自分」でいられる。求心の旅である。

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自分  自分と自分以外
 生まれたての赤ん坊は、なんの認識もないであろう。混然一体の「生きている感覚」があるばかりであろう。長じて私たちは、いま、さまざまなものを認識するようになる。ここにリンゴがある、というように。この宇宙に地球という惑星があり、私は「今」その星の上の「ここ」におり、目の前にリンゴがある、というようにである。つまり、認識とは、「自分」と「自分以外」を分けることから始まる。赤ちゃんには、これが出来ないのだ。「自分」と「自分以外」があり、両者を分けているのは、皮膚の境界線である。この境界線によって、外側、外界、「自分以外」、つまりこの世界と、内側、内界、つまり「自分」が、分けられているのである。そして、その「自分」つまり内界が、「リンゴがある」「外界がある」「世界はある」と感じるのである。

自分で自分を見る
 人それぞれに「ものごごろ」つく。そして、自分の「役割」を選び取り、自分なりに生き始める。これが、通常我々が感じている「自分の生き方」である。自分なりの生きる力(生きるやり方)を手に入れ、この世を過ごしていくことである。であるから、子供の頃から現在に至るまで、よい環境(生きるのによい環境)に恵まれ、らくらくとこの世に適合し、日々を楽しく暮らしている人は、このやり方を終世つづけていくだけで良いのである。神々と共に暮らすバリ島の人々など、きっと、そうなのであろう。
 ところが、「今のままの生き方では、不満である。今のままの自分では、イヤである」と思う人は、そうはいかないであろう。「あなたは、幸せですか」と尋ねられて、即座に「ハイ」と言える人以外は、「生きる感覚」を自分で変えるほかない。変えるためには、改めて今の自分の役割り(今までの生き方)を直視する必要がある。
 多くの人は「他人にどう見られるか」に、自分の「心の安定」をゆだねているようだ。「他人に見られる自分」を、生きているのだ。バリ島の人々は、「神々にどう見られるか」で、生きているのであろう。しかし、今回の人生を、「他人にどう見られるか」というやり方で生き、そのまま終わってしまって、よいのだろうか。もし、よくなければ、やめるほかないだろう。自分で自分をみるほか、ないのである。
 自分で自分を見ようとすると、見えない。見えるのは、自分の表面、心のクセのようなものだけである。たとえば、人に好かれることばかり気を配っている、自分などである。もっと内側の自分、もっと内奥の自分を、見ようとしても、見えない。見える(知りうる)のは、自分と自分以外のもの(他人)の接触面だけである。

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社会が先か、自分が先か
 「自分を変えたい」と、真剣に思っているとしよう。人間は、自分のなにを変えられるのであろうか。人種、年齢・・・無理である。姿形、だれの子であるか・・・これも、無理である。性格、気質・・・やや近いだろう。しかし、変えたいのは、そのようなものではなく、自分のものの考え方、さらに言えば、生きていることに対する自分の今の感覚、あるいは自分自信に対する今の自分の感覚、それを変えたいのであろう。
 さて、「なにをしてもよい」と言われてしまう場に放り出されて、「孤独」を感じ、不安になってしまう人たちの半生は、いつでも、誰かしらから、自分の「すること」についての要望が来ていたであろう。そこで、「本当は、なにがしたいのか」と考えたのであろう。しかし、このような考え方は、たいていの場合、自分と社会の接点を探しているに過ぎないのである。「私は、本当は、なにがしたいのか」を考えるとき、「(既に、あらかじめあるこの社会の中で、)私は、なにがしたいのか」という発想なのである。「社会」が先にあり、「自分」は、その後にいるのだ。社会という言い方が大げさならば、自分を取り巻く周囲の環境、それが、「自分」より先に既にある、と自分で決めているのである。そこでは、「自分で満足あるいは納得できる、自分のポジション(場)を見つけたい」というのと「私のいられる場が欲しい。私にも、どこか、いられる場があるかしら」は、強気・弱気の違いがあるだけで、根本の発想は、まったく同じである。
 私たちは、なぜ、社会の中に自分の「場」を求めるのであろうか。生きるため、とよくいわれている。(既にある)この社会で、生きていくために、自分の「生きていける場」が欲しいわけである。
 だが、我々は、いま、もうすでに生きているのである。一日一日生きていくと、一日一日「場」はついてきているのである。「場」のないままに生きている人は、この世に一人もいないのである。私たちは、透明人間ではないのだから。
 「社会」というのは、目に見えない。目に見えないものは、全部、自分の心の幻想である。私たちの目に見えるのは、「いま・ここ」に自分といる人々や物々である。いま・ここにいるその人には、その人ぶんの場があるように、いま・ここにあるその物には、その物ぶんの場があるように、「いま・ここ」の中には、必ず「自分ぶんの場」がある。「自分の場がほしい」と行っている人は、そのように言える場を、いま、持っているのである。「することがなくて、不安だ」と思っている人は、そのように思える場を、いま、持っているのである。
 人は常に「自分ぶん」だけ満たされている。「自分」というものは常に「支えられて存在している」こと、が分かる時、「場」を求める心の動きが、「もう場はある」と気づく動きに変わった時、私たちはあらためて、「みんなと共にいきている」と感じ始めることが出来る。嬉しいような、寂しいような、言うに言われぬ共生感が、自分の心の中に広がり始めるのである。 

社会が先という考え方の息苦しさ
 まず社会があって、(生まれる前から、「社会」というものはあって)自分は、それに属している一人、という思い方は、とても息苦しいものであろう。
 多くの人は、親から、いつもいつも「みんなと同じになりなさい」と言われて育てられてきている。ある日のある時まで、少しも気に止めていなかったであろうし、この世に「時」もなかったであろう。ところが、ある日のある瞬間に、「みんなと同じにしなければ」になるのである。人としての「社会性」を獲得したのである。親の目で自分を見た時から、社会(集団)の一員になったのである。
 大人になる、というのは、他人の目で自分を見ることである。人は誰もがこうして「ものごごろ」つき、大人になっていくのだろう。社会の目で、自分を見るのだ。他人の目で自分を見て、自分を審査して、自分の「すること」を判断するのだ。当然、「社会が先、自分が後」になる。息苦しいのは、このせいである。息を楽にしたくなったら、「他人の目で、自分を見ること」をやめるほかないのである。

まず、考えるか、感じるか
 人とは、「分離されたもの」である。人とは、個的な生命体である。一個の、意識生命体である。個というものは、インディビデュアル(これ以上分離されないもの)であるから。人とは、「おおもと」から分離され、ひとまとまりになった、島宇宙みたいなものである。
 人とは、人本位にこの宇宙を分けると、「わたし」という島宇宙と、「わたしでないもの」という島宇宙に、分けられることになる。そうしなければ、人というものは成立しない。あなたは、あなた、という一人の人になり、私は、私、なのである。
 そして、「わたし」というものは何をしているのかといえば、「わたしでないもの」と交流しているわけである。空気という「わたしでないもの」を吸って、吐いて、食べ物という「わたしでないもの」を食べて、出して、そうして生きている。
 「わたし」の内部では何をしているかというと、六十兆から七十兆の細胞が、様々な働きを行っているわけだが、それらはひとりでに機能しているので、一応健康であればあまり気にしなくてもよい。
 気にしなければならないのが、「わたし」なるものは、つねに、考える、か、感じる、かのどちらかをしていて、それ以外のことはしていない、ということである。
 「わたし」の精神活動は、考える、と、感じる、だけであり、いつも、どちらか片方しか行っていないのである。それ以外の時は、夢を見ずに眠っている時と、人が「瞑想」と呼んでいる時である。夢の中でも、人は、考える、か、感じる、かの、どちらかだけをしているのだ。

考える  地図を作る・行動の仕方
 気がつくと、知らない場所にいたとしよう。考えても、ここがどこか、まるで判らない。そうすると、たいていの人が不安になり、人によってはパニック状態になるだろう。
 だが「ここ」がどこか、判ろうと判るまいと、「そのところ」に変わりはない。布団の上は布団の上であるし、窓は窓である。判ったからといって、別になにも変わらないのである。だが落ち着かないのである。落ち着かないと言うよりは、自分がどの様に振る舞ってよいのか、「行動の仕方」が判らないのである。そうしている内に、そこがどこかを思い出したとしよう。すると、まことに安心するのである。ここは、どこどこだから、なになにしてよいのだという、自分の「行動の仕方」が明らかになったのだ。
 ここが、人間と野生動物の異なるところである。野生動物を持ち出さなくても、ハエでも、ノミでも、「ここはどこか」が判らないと、行動の仕方が判らないということは、ないであろう。確かなことは、聞いてみないと判らないが、おそらくその通りであろう。人間にしろ、赤ん坊の頃は、そのような事を気にはしなかった。自分を守ってくれる母親(か、それに、替わるもの)さえいれば、ここが友人宅であろうと、ホテルであろうと、刑務所であろうと、委細関心はない。
 「ここ は、どこ」が判らないと、不安になってしまう。「ここ は、どこ」を考えることは、自分を取り巻いているその状況 を認知する ということである。「わたしでないもの」と関わっているのか について 自覚する ということである。部屋が、部屋 として在るだけでは、いけないのだ。布団が、布団 として在るだけでは、いけないのだ。「事実」が「事実」として、「状況」が「状況」として在るだけでは、いけないのである。状況を解釈して、自分の「地図」に置き換えなければ、自分の動きが、とれないのである。自分で作った 地図 の上を、歩けないのである。
 人は、地図 がなければ、生きられない。地図を作ること が、考える ということである。
 考える とは、地図 を作り、自分のこれからの行動の仕方を決定すること である。これからの行動、それは、つまり、未来に向かうポーズをとること が、「考える」ということの本質である。

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地図は地図である・見えてくるイノチ
 人は、考えて状況を自分流の「地図」にしないと、生きられない。それは複雑で、赤ん坊のように幸せ ではない。空をクルリと回って飛んでいるトンビのようにも幸せではない。ノミやシラミのように幸せでも単純でもない。人は、なぜ、考えるのだろうか。それは、なぜ人に生まれてきたのだろう、という質問と同じであろう。では、考えると、どのようなよいことがあるのだろうか。
 私たちは、知能ある生き物であるから、言葉を作り出して、その言葉によって地図を作り出し、その上を生きているわけであるが、同時に、自分はそのようにしている と知り得たわけである。考えることによってである。つまり、地図は、地図にすぎない ということが判ると、地図を、実物だ というように思い違いをしないわけである。
 地図は、まるで透明のガラスの上に仮の線で描いたもの のようになっていて、いつも地図の向こう側が、透けて見えるのである。ところが、その地図 が、実物 になってしまうと、それが向こう側に張り付いてしまい、実物が透けて見えなくなってしまうのである。自分で作った地図が、実物らしきものに思えてくるのである。
 私たちは、この地上で、約300万種類の生き物たちと一緒に生きている。そして、「この土地は、どこの国に属する」とか、「この家は、だれの家だ」とか、「この人は、何歳だ」とか、「この人は高額所得者だ」とか、そういう物事の取り決めは、たった一種類の生き物である人間だけにしか、通用しないのである。そのような、人間社会専用の取り決め事項は、全部「地図」である。
 そして、それらが単なる「地図」であると判ると、自分もその上を生きていくのであるが、別段とらわれなくなる。それは、この世の約束事でそうなっています、というだけで、それ(地図)イコール自分だ、という風に結びつけなくなるであろう。「自分は人間だ」と思うことも、言葉によって考えた地図 であるから、地図の結びつきがゆるまると、「人間である」ということに、それほどとらわれなくなるであろう。そして、「人間」を通り越して、イノチ が見えてくる。
 イノチ が見えてくると、生きていることのエネルギーを、ただ感じるようになるのである。生きているエネルギー、それは静かな喜びといってもよいだろう。「静かな喜びのヒト」になるわけである。自分のことを、「静かな喜びのヒト」に感じるようになると、他人のことも、同じく、「静かな喜びのヒト」に見え始めるであろう。そのために、人は考えるのである。
 知りたくなるのは、人間の性である。知りたい というのは、今まで知らなかった事を知ろうとする、精神の活動 である。よって、未来へのポーズ である。そして、知りたい から、考える のである。考える には、言葉が必要なので、言葉を作った。これが、人類史上最大の発見であり、一大事業であろう。そして、言葉を作って、考え始めると、生きていることが、地図の上を歩くこと、になってしまったのだ。そして、さらに考えると、それは「ただの地図」である、というところに戻ってしまった。裸の生命体から、一度人間的なる思考の世界に来て、もう一度、もとの裸の生命に戻っていくのが、「考える」ということである。 

感じる  ストレスとリラックス
 人は、「わたし」が「わたしでない空気」を、吸ったりはいたりしている。そのたびに、「わたし」のからだ全体は、伸びたり縮んだり、つまり、弛緩したり緊張したりしている。そして、ひろがる・弛緩する は、リラックス方向で、縮む・緊張する は、ストレス方向である。ハッと驚くと、息を呑む。そして、そこで止まると(吸うだけで止まると)明らかにストレスであろう。そのままでは都合が悪いので、フーと吐いて、リラックスするのである。
 人は、この様に、ストレスとリラックスの繰り返し をしているから、生きていけるわけである。昼と夜もそうであるし、夏と冬もそうであり、満ち潮と干潮もそうである。リラクゼーションとストレスの繰り返しが、この世界には必要なのである。そして、言葉を用いて 頭で考える というのは、ストレスの方向、つまり「知」は、人にとって、ストレスサイドの少し大変な「旅」なのである。
 そして、リラックス方向が、感じる ということである。感じる世界は、考える思考世界と違って、言葉がない。たとえば、いろいろな飲み物があって、飲むと(私は味を感じて)、その感じの違いが判るけれども、言葉では、ひとつひとつの違いを正確に説明することは出来ない。「感じる」方向は、言葉では描写出来ないのだ。

いま・ここ
 わたしがあなたのことを、考えて理解する のではなく、あなたがわたしのことを 考えて理解する のでなく、人が人を 感じる のは、「いま・ここ」で、その人が楽しそうか、ラクそうか、心地良さそうか、あるいは、ツラそうか、苦しそうか、不快そうか、そのところを 感じる わけである。 
 目の前を通りかかった人のことを、感じてみるとする。その人のことを、(初老のご婦人)と思ったり、(上品そうな人だな)(きっとスーパーの帰りだな)(誰かに似てるみたい)と思ったりするのは、「考え」である。アタマが考え、その人という人間を、タイプ別に分類して、「上品な人」の項目に入れたりすること、それが「地図」を作るやり方である。感じてみると、言葉には出来ないが、まず、なによりも、いま この世界に、一緒にいる人だな、それは、なんだか うれしいことだな、いとおしいことだな、という風な、感じであろうか。
 そして、「感じる」というのは、いつも、「いま」である。人間とは、言葉を作り、「いま・ここ」でないことも、考えられるようになったモノである。「いま・ここ」に無いモノ を思い浮かべることが出来るのは、アタマ である。カラダ とか、イノチ は、いつも「いま・ここ」あるのに、アタマ だけ、「いま・ここ」に無いモノのことを考えたりすると、「自分」が分裂してしまう。だが、「感じる」のは、そのときに、そのことについてである。
 そして、人の感じ方の基本は、それが、気持ちよいか、気持ちよくないか、ということである。考える のをやめて、感じて みると、私たちには「いま」しかないのである。感じる のは、この生のままの「いま・ここ」を受け入れるポーズである。だから、考える のが、人のストレスの方向だとすると、感じる は、リラックス方向である。その両論あるのが、人 なのである。
 もし、「いま・ここ」を受け入れないとすると、どうであろうか。考えること は、出来る。感じること は、出来ない。感じること は、「いま・ここ」を愛することである。では、考えたときには、愛 は、ないのだろうか。考えたときには、知 があり、感じたときには、愛 がある。知 は、地図にすぎないということを知ることである。そして、「自由」になるのである。 
 人が 人を 感じる というのは、ほんとうのわたし が、ほんとうのあなた をかんじることである。そして、自分を感じる というのは、地図を持たないほんとうの自分 を感じることである。いつも、そこで感じたそれを感じているように、自分をキープし、自分のそれで、あいてのそれを感じてみるのである。自分と、あいては「分離されたもの」ではなく、「ひとつのもの」であることが、感じられるであろう。

  ほんとうの自分

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2000.05.05