『鎧伝サムライトルーパー』 における禅的武士道観念


 最近、『鎧伝サムライトルーパー』というアニメを見た。
 ネット上で知り合ったその筋(どの筋だ…笑)に詳しい諸兄によると、これは所謂「同人界」の少年愛ブームの火付け役となった作品で、野郎共の間では誰も触れたがらないという曰く付きの代物らしい。実は私も、この前評価を聞いた時点で絶対お近づきになりたくないものだと思っていた(笑)
 が、かみさんが見ていたビデオに何気なく目をやると、洗練されたフォルムの派手な鎧がバラエティー豊かな武器(筆者はこういうのにてんで弱い)を持ってチャンチャンバラバラ…
おお、何やらかっこよいではないか!!

 という訳で、ついうっかり全話観てしまったのだった。
 これは変化か退化か体の好い洗脳か……悩むところだが、面白かったからどうでもいい。

 以下、思いつくままに感想を列挙する。
 あくまで、四捨五入すると(しなくても)おっさんの視点から分析したものなので、女性諸姉妹は心トキメくカップリング談義など、一切期待なさらぬように(笑)
 筆者個人としては、できれば男性に読んでいただきたいのだが。




 物語の鍵となる九体の「鎧」は、「仁義礼智信忠孝悌忍」の九つの心からできており、戦闘時以外は半透明の玉(中にそれぞれを象徴する文字が浮かび上がる)になっている。どうやら元ネタは『里見八犬伝』らしい。
 このうち、主人公の少年五人が身にまとうのは「仁義礼智信」=五常の心である。五常と来れば当然、昨今流行の風水だの陰陽道だのの五行思想が浮かんできそうだが、五常を唱えたのは儒学、風水・陰陽道のルーツは道教(老荘思想)、両者の根本は似て非なる志向である。
 では全く相容れないかと言うと、そうでもない。
 儒教と老荘思想、両方を取り入れて融合させ、高度に精神的な境地を完成させた思想がある。
 仏教の一派、「禅」である。
 お気づきの方もおられるかと思うが、実は『サムライトルーパー』という作品はこの禅の思想を下敷きにして発想されている。主人公達の導き手として登場するカオスは雲水、つまり禅宗の僧侶である。


 禅宗の発祥は中国、開祖は達磨大師(?〜534以前 インド人。座禅と荒修行で知られる嵩山・少林寺の開祖)である。以降、五人の弟子を経て、六祖・慧能(618〜713)に至る間に教理が整えられ、一つの宗派として認められるようになるのだが、「仏教の完全なる中国化」と言われる禅思想は、宋代(北宋・960〜1127/南宋・1127〜1279)において大成を見る。
 日本にも、かなり早い時代から禅宗なるものは伝来していたが、それは宗門の内部でのみ開陳される一種奥伝であったようだ。(かの比叡山には、禅を専門に学ぶセクションがあったそうな)前述の「中国化」禅思想が浸透したのは早くても1100年以降と言われている。臨済禅を日本にもたらした栄西が生まれたのが1141年(ちなみに臨済宗の開祖は臨済義玄(?〜866)、中国人である)、道元が曹洞宗を開いたのが1227年であるから、一般に流布するようになったのは1200年以降ということになろう。
 従って、一千年前の日本で禅宗の僧侶が大手を振って闊歩しているということは考証学的にあり得ないのだが、この辺りはフィクションということで大目に見ておく。実は仙人くずれの渡来人だったりなんぞしたら嫌だなあ、カオス(笑)

 道元の記した『正法眼蔵』(1253年・建長五年)によると、仏法は
・持戒(戒律を守り、行いを正しくすること)
・禅定(無念無想を保つ営み)
・智慧(学問、知識)
の「三学」に、
・布施(他者に与えること、余計な物欲を捨てること)
・忍辱(屈辱に耐えること、己の力をひけらかさぬこと)
・精進(たゆまぬ努力・克己)
を加えた「六度」より成る。
 「仁義礼智信忠孝悌」に付け加えるに「忍」を選んだ制作スタッフは、相当な碩学と言えるだろう。惜しむらくは、「忍」のお兄さんがあまり活躍しなかったことか(苦笑)

 また、禅問答(正式には「公案」という)で知られる臨済宗(「只管打坐」=ひたすら坐す、を旨とする「黙照禅」の曹洞宗に対し、「看話(かんな)禅」と称される)の教えには「仏に遇(お)うては仏を殺し、祖に遇うては祖を殺し、親に遇うては親を殺せ」という言葉がある。まず、全ての先入観やこだわりを排するところから始めよ、という「空」(=無限否定)の概念である。これはハイデガーやウィトゲンシュタイン、ヘーゲルなどといった錚々たる哲学者達にも多大なる影響を与えた。興味のある方は【こちら】をご参照あれ。オススメ入門サイト(笑)
 つまり、我々がこの世に「ある」と思っているものは、実は何一つ「無い」のだ。物質や肉体はもちろん、価値観や思想や法則、自分自身の意識さえ一過性の現象にすぎず、確かなものは何もない。だが、現象そのものはかけがえのないものであり、従って生きることは決して無駄ではない。(…こんな安っぽい言葉に置き換えるのは不味いのだが、筆者の表現力ではこの辺りが限界である。申し訳ない)
 金剛のシュウが鎧の本質を教えられた結果、己の正義に疑いを持って武装できなくなるシークエンスがあるが、あれなどは禅的な真理を解りやすく描いていて、秀逸である。
 さらに、カオスがアラゴの遺した鎧にまとわりつく怨念を封じるために結跏趺坐を組んでいる回想シーンがある。その背後に、墨で丸を描いた掛軸があるのだが、あれは『禅宗四部録』(禅の教えを続き絵で説いた古典戯画のようなもの)の一つ、『十牛図』の中の一枚「人牛倶忘」である。これは様々な解釈があるが、どうやら「色即是空、空即是色」(絶対空)を象徴的に図案化したものらしい。
 う〜ん…、深い。



 『サムライトルーパー』を語る上で、もう一つ忘れてならないのがサムライの美学、つまり「武士道」である。
 武士道と言えばまず、『葉隠』にある「死ぬことと見つけたり」が想起され、何かとネガティヴなイメージがつきまとう。実際、赤穂浪士や白虎隊など、江戸時代以降「サムライ=花と散る」の美学が定着しており、そのように受け取られても仕方がない。
 しかし武士道の本質とは、無意味な死を強要するものではなく、人としての生き方・在り方を示した前向きかつ普遍的な精神論である。
 「礼に始まり礼に終わる」稽古場の教えは、互いの誇りを重んじ敬意を払い合うこと、即ち、相手と刺し違えて死ぬのでも、相手を倒すのでもなく、自他ともに活かすことを説いているのだ。
 武士道を修めるにはまず、自己研鑽に励んで迷いや恐れを断ち切り、自由な境地を得るに至らなくてはならない。その上で初めて、与えられた業(勤め)を成し遂げ、武士(人間)としての本分を全うすることができるというのである。一見小乗仏教的スタンスであるが、最終目標が「社会の役に立つこと」であると明確に掲げている点に、儒教、特に朱子学の影響が見て取れる。
 新渡戸稲造が世界に紹介した「武士道」(1900年、英文にて刊行。本邦では矢内原 忠雄の翻訳にて岩波文庫から発売中 )は、合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に感銘を与えた。武士道は決して日本人にしか受け入れられぬ概念ではないのだ。
 参考までに新渡戸博士の記した主な項目を列挙する。

(1) 誠実(裏表なく尽くす真心)
(2) 慈愛(いつくしみ大切にすること)
(3) 勇気(困難に立ち向かい、克服する闘志)
(4) 責任(引き受けたこと、なすべき務めをやり通すこと)
(5) 正義(人がふみ行うべき正しい道)
(6) 忍耐(辛いことや苦しみ、怒りを我慢すること)
(7) 惻隠(あわれみ、いたわり、温情)
(8) 礼節(人としてとるべき作法、敬意と節制)

 これを大雑把に『サムライトルーパー』(仁義礼智信忠孝悌忍)にあてはめると、誠実は信・忠(※「忠」は本来、真心の意)、慈愛は仁、責任・正義・礼節は義・礼(※この辺りの概念は厳密な区別が難しい)、忍耐は忍、惻隠は孝・悌となる。智に相当するものがないが、武士道はそもそも「文武両道」の大前提の上に、実践(武)の手引きとして設定されたものなので、「文」に当たる智は別格とみなす。平たく言ってしまえば、「武士道語るにバカはいらん」ということ(笑)
 「勇気」が入っていないのは、儒教や禅の思想が争いごとに繋がる要素を嫌った結果であろうか。




 この物語はまた、少年達の成長の記録でもある。
 リョウの、仲間を手に掛けることができぬ優しさ=自分の目の届くところが無事ならそれでよいと思う了見の狭さは、最終回で、己をなげうって全体を生かす思慮深さに昇華した。ここで注意しなければならないのは、彼が取った戦法は決して自己犠牲ではないということである。彼は純に「一人ではとても抜け出せなかった」と言っていた。つまり、低いながらも生還する目算があったと考えられる。仲間の犠牲を何より厭うた彼は、仲間に同じ苦しみを強いるつもりはなかったのだろう。だからこそ、他の四人は涙を流しながらも斬ることができたのだと思う。

 シュウは前述したように、鎧の本質に最も早く気付いた少年である。
 戦いが破壊しか生み出さぬことを承知した上で、にっこり笑って力を振るう姿は、道化に徹し泥を被ってでも、という姿勢がうかがえて非常に好ましい。荒削りながらも懐が深い人物だと思う。

 セイジ君…筆者は彼が一番成長したのではないかと思う。
 最初は己の使命に気負いすぎている感が否めず、ナスティや純を露骨に邪魔者扱いしていたが、それを過ちと悟ってからはごく自然に「礼」の戦士たるにふさわしい言動を取るようになった。良い傾向だ。

 虫も殺さぬ優顔で強烈な毒を吐くシン君…まるで『ポケモン』のピカチュウ(笑)独特な割舌が病みつきになりそうでコワイ。
 いつの間にか場を仕切っているトウマ君は、参謀だけあってさすがに冷静。喋り方に感情の起伏が乏しいのはわざとだろうか?
 この二人に関しては、作者の観察力不足でさほど成長の跡を見出すことができなかったが、他の三人に比べて、当初から比較的完成された人格を持っていたように思う。戦いに対する姿勢や仲間への気遣いが何かとスマートなのだ。恐らく精神年齢が高いのだろう。


 戦士達以外にも、純とナスティの位置付けが絶妙であった。
 守るべき具体的な目標として、ともすれば武力至上主義に陥りがちな思春期の少年達を日常に繋ぎ止め、戦う意義を再確認させる存在。のみならず、いざという時には勇ましく行動を起こして、逆に主人公達を助ける。

 特にナスティの控えめな母性(筆者は母性とか慈愛を声高に売り物にされると退いてしまう)と縁の下の力持ち的な聡明さ、気丈さはツボにはまった(笑)。清楚でストイックなきれい所にありがちな没個性にも陥っていない。こういうタイプのヒロインは初めて見たような気がする。
 純も、脊髄反射的児童愛好家(笑)から見て立派に及第点。己の無力を自覚しつつも、倒れた仲間をかばって敵の前に飛び出す健気さは実に泣かせる。足手まといだろうが何だろうが、こういう損得勘定なしの情動は時として最強の力となり得る。お嬢さんとお子様が勾玉持って泣いて祈りゃあ、ガメラだって復活するのだ。(※「意味分かんねえよ…」という方、平成版ガメラ三部作の二作目・『レギオン襲来』をご覧あれ)
 この二人がいたからこそ、主人公達は最後まで諦めず戦い抜けたと断言しよう! 反論は受け付けんので悪しからず(笑)
 シュテンがカオスの遺志を果たすためだけでなく、人間のために自主的に戦おうと思ったのも、この二人のおかげだと思う。勾玉を発掘しにいく(?)シークエンスで見せた笑顔が忘れられん。ああいう面倒見のいい枯れた兄ちゃんに弱いんだよ、俺は(笑)…できれば生き残ってナスティとくっついて欲しかった(自爆)
※などと言っていたら、かみさんが本当にそういう話を捏造してくれた。
何でも言ってみるものだ(爆笑)




 以上、考えたことを書き連ねてみた。
 全体のストーリー構成についてはツッコミ所が満載であったが、根幹を為すテーマは非常にしっかりしていたように思う。
 (一部の)巷で取り沙汰されているような、誰々と誰々が××…という印象を全く受けなかった(←嘘こけ!)のは、私の情緒が貧しいせいであろう。切にご寛恕願いたい(笑)
 ともあれ、この作品は男性諸兄の鑑賞にも充分耐えうるものであると思う。冒頭に触れたような結果に終わったのは、視聴者の質と言うよりバブル期という一種の熱病に浮かされていた時代のせいであろうか。
 今、再放送するなりリメイクするなりすれば、また違った反応が得られるのではないかという私見を述べて結びとする。


文責:泉 鏡一

【了】



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