櫻花狂想曲 〜あるいはただの馬鹿騒ぎ〜

「ナスティ!?」
光輪が女の肩を掴んで揺さぶる。
「……あ…、わたし…?」
ぼんやりと辺りを見回すが、完全に状況が解っていない。
「どうしたのだ、急に泣き出したりして?」
光輪の問いに、ナスティはきょとんと首を傾げた。
「泣く? 泣いてなんかないわよ、わたし」
「しかし、涙が…」
指で自分の頬を確かめるナスティ。指先が濡れたことに愕然とする。
「いやだ、どうして…」
「大丈夫かね、柳生君? この絵、何かまずかっただろうか?」
教授は訳が解らないながらも掛け軸を仕舞う。
「いえ。わたしが…わたしが悪いんです。泣かないって約束したのに…」
「約束?」
光輪が聞きとがめる。
「ええ、そうよ。だから泣かなかったのに…どうして今更…」
精一杯平静を装っているのが分かったが、声が震え涙が次々と溢れてくる。
「柳生君、落ち着いて。その約束はいつ、誰としたんだね?」
教授は何とか場を収めようと、医者らしい冷静な質問をした。
「違う、わたしが勝手に決めたの。だって、あの人、わたしが泣くととても困るから…ごめんなさい、ごめんなさい!」
顔を覆ってひたすら謝り続ける様子は明らかに尋常ではない。
どう対処したものか困惑した時、
「もういい、わかった!」
周囲の詮索をすべて遮るかのように、那唖挫が鋭く言った。
「解ったから、我慢しなくていい」
両手を頬に添え、やさしく言い聞かせる。
それでもナスティは、焦点の定まらぬ目で「ごめんなさい」を繰り返した。
いかん、この状態はまずい。
俺はとっさにナスティの額に手を当て、眠りの暗闇を送り込んだ。
瞼が落ち、四肢から力が抜ける。崩れ落ちる身体を那唖挫が抱き止めた。
「すまん、悪奴弥守」
「いや。それより一体どうしたというのだ? これではまるで…」
気の病のようではないか、と言いかけるのをすんでのところで呑み込む。
「…こんなに取り乱したナスティ、初めてだ」
烈火が呆然と呟いた。

「あれから二年…。やはり柳生博士のことが堪えているんだろうな…」
教授が悲痛な表情でため息をついた。
「? どういうことですか?」
「彼女、柳生博士の葬儀の時、一度も泣かなかったんだよ。やけに落ち着いていたかと思えば気丈に笑ってみせたりして、見ている方が空恐ろしくなるくらいだった」
「そのツケが今になって来てるってことか…」
「ナスティ、両親と離れて研究を手伝うほど、おじい様のこと尊敬してたからね」
天空は唇を噛みしめ、水滸は俯く。
烈火と金剛は拳を握って立ち尽くし、光輪は無言で中空を見据えた。

「とにかくしばらく様子を見ます」
那唖挫がナスティを抱えて立ち上がる。
「ああ頼むよ、山之内君。私は用があるから行くけど、また寄るからしっかり見てあげててくれ」
教授は考えなしに資料を持ち込んだことを再三詫びて、名残惜しそうに去っていった。
誕生会は中途半端な形でお開きになったが、文句を言う者は誰もいなかった。


片付けが済んでも帰る気になれず、全員が食堂に集まる。
「あんなに思い詰めてたなんて、どうしておれ達に相談してくれなかったんだろう」
烈火が卓に肘をついて頭を抱えた。
「無理してるような感じはしたんだ。だからなるべく様子を見に来るようにしてたのに…」
「遼も?」
「え、じゃあ…」
「僕もだよ。もちろん、みんなに会いたかったってのはあるけどね」
「俺もだ」
「オレも」
「私もそうだ」
全員が顔を見合わせる。どうやら五人とも同じ心境だったらしい。
「じゃあ、何で誰も言わなかったんだよ?」
金剛が頭を掻いてぼやく。
「言ってどうなるというのだ? 柳生博士が亡くなった責任の一端は我々にもあるんだぞ。却って気を遣わせるだけだ」
光輪の言葉は残酷なまでに真実で、誰も反論できない。
本当はこうやって集まったりせず、忘れてしまうのが一番いいのかも知れない。だが、そうすることもできないほど、奴らの絆は繋がってしまっているのだろう。
俺達も人のことは言えないが。
「口止めされてたんだけどな、実はフランスの両親が帰国しろと言ってきてるって話だ。それでなおさら必死だったんだと思う」
同じ研究者として多少は事情を知る天空が、申し訳なさそうに打ち明けた。
「そうだったのか。辛かっただろうな、ナスティ…」
「遼じゃないけど、一言くらい相談してほしかったぜ」
「僕達に心配かけたくなかったんじゃないかな。彼女、そういうとこすごく強がるから」
水滸が悔しそうに唇を歪める。
「だからと言って、泣くことまで我慢しなくていいだろう。そんな無茶を続けていたら、精神が崩壊してしまう」
光輪が憤慨すると、今まで黙っていた純が突然口を開いた。

「我慢じゃない。お姉ちゃん、約束を守りたいだけなんだよ」

思わぬ伏兵に一同の視線が集中する。
「約束とは何なのだ、純? 先程も言っていたな。知っているのか?」
純は少しためらった後、意を決したように話し始めた。

「お兄ちゃん達が妖邪界に行ってる間、朱天がぼくたちを守ってくれてたことは知ってるよね。その時のことなんだけど」
柳生博士のことが原因だと思っていただけに、意表をつかれた。
純が言うには、朱天は己の罪を清算するために迦雄須の遺志を継ぎ、命に代えても人界を守ると誓ったそうだ。そして実際、身命を惜しまず戦ったことは俺も知っている。烈火達が全員妖邪界に旅立っていた不安もあり、端で見ているには耐え難かったのだろう。ナスティは心配して随分泣いたらしい。
「朱天、もうすっごく困っちゃってね。あんなに強くてすごいのにオロオロするから可笑しくて、つい笑っちゃったんだ。そしたら、朱天、笑ってくれたほうが嬉しいって。だからなるべく笑うようにしたら、朱天も優しい顔で笑うようになって、お姉ちゃん、喜んでた。朱天が死んだ時、ぼくはわんわん泣いちゃったけど、お姉ちゃんは最後まで泣かなかったんだよ」

ばかばかしいほどの他愛の無さに胸が痛くなった。
何ということだろう。
あの娘の菩薩のような笑みの理由はこれだったのだ。朱天を困らせないために、ただそのためだけに笑っていたのだ。
「だけど、そんなことしたって朱天はもう…!」
烈火が叫ぶが、最後まで言い切ることができず、卓を叩く。
「お姉ちゃん、今でも待ってるんだと思う。だって、イミダスとカタカナ辞典が置いたままだもん」

食堂の片隅、物置代わりの椅子。
戦い以外では物静かだった朱天は、その席に座り四百年の間に様変わりした言葉を辞書で引きながら、書や新聞を読んでいたのだ。時折顔を上げて、大切な者達が笑っているのを確かめては、また書に目を落とす。そうやって束の間の安息を噛み締めていたのだろう。
その光景が目に浮かび、俺は不覚にも泣きそうになった。

沈黙を破って、那唖挫の血を吐くような嘆息が流れた。
「こうなる前に何とかしようと思ったのだが…結局俺では救ってやれなんだか」
「お前は知っていたのか?」
光輪が目にきつい光を宿して問い詰める。
那唖挫は悪びれもせず頷いた。
「夜中にうなされて起きてくることが多かったからな。ここ二月ほどは、睡眠薬を調合してやっていた」
「どうして黙っていた!?」
「言ってどうなる? お前達に朱天の代わりができるとでも?」
光輪が傷ついた顔をする。
言葉の刃というのがあるなら、今のがそうだろう。言われた相手も言った本人も、双方が血を流していた。
「だが、このままじゃ何の解決にもならん。放っておけばナスティは壊れるぞ」
天空が硬い口調で現実をつきつける。
「とりあえず薬で落ち着かせて様子を見る。だが、最悪の場合、螺呪羅に記憶を操作してもらうことになるであろうな」
那唖挫は底の読めぬ表情で淡々と言った。
「てめえっ!!」
金剛が掴みかかろうとするのを、天空が手で制した。
「秀、くやしいが他に方法はない」
「だからってそんな操り人形みたいな真似、できるかよ!」
「私も反対だ。それではごまかしと同じだ」
「じゃあナスティが壊れてもいいのか? 呪縛を解ける人間はもういないんだぞ」
「現実から逃げるのは感心できん」
「逃げることだってたまには必要だ!」
「やめてくれ!!」
言い争う四人に、烈火が青い炎のような一瞥を向けた。皆が口を閉ざしたのを確認し、那唖挫に向き直る。

「記憶を消したら、ナスティは元に戻るのか?」
「おそらく」
「大事な人を忘れて生きて…それでナスティは幸せなのか? 今まで通り笑えるのか?」
痛いところをつかれ、那唖挫は返答できなくなる。
俺はたまらず口を挟んだ。
「方法はまだある」
那唖挫は蛇のように無言の牽制を送ってきたが、俺は敢えて続けた。
「朱天が目覚めればよいのだ。そのために医術を学んでいるのだろう、那唖挫?」
「目覚めるだと!? どういうことだ、それは?」
光輪が弾かれたように立ち上がる。
「朱天は完全に死んだ訳ではない。城の地下で眠り続けている」
「本当か!?」
「どうして今まで言わなかったんだ?」
五人の矛先が俺に変わった瞬間、
「覚めぬ眠りだからだ」
那唖挫が冷たく言い放った。
「那唖挫」
俺の咎める声に那唖挫は苦しそうに目を閉じた。

「迦遊羅も俺も手を尽くした。だが朱天は起きぬ。あれは……脳死だ」

聞き慣れぬ単語だったが、強張った五人の表情で、それが絶望を意味することが分かった。
「朱天の命は恐らく烈火同様、命の勾玉によって繋ぎ止められたのであろう。だが奴は心を使い果たし、目覚めるだけの力が残っていなかった。あそこに眠っているのは抜け殻にすぎん」
「しかし、お主、希望はあると!」
「確かに甦る可能性はある。だがそれは、数十年後、数百年後の話だ!」
今度こそ、空気が固まった。
妖邪界に身を置く我らなら待てる時間を、人間は越えられない。それは紛れもなく死の宣告だった。
「ひどいよ、そんなの…」
純がしゃくりあげた。




次の日、俺は事の次第を知らせるために妖邪界へ戻った。
いきさつを話すと、螺呪羅は
「待ち合わせの時間を間違えた恋人達だな」
と謎かけのようなことを言って苦笑した。
「できる限りのことはやってみる。だが俺の術は所詮まやかしだ。もしも夢が破れることがあれば、今度こそ取り返しがつかぬぞ」
言われなくても判っている。吉と出るか凶と出るか、これは賭なのだ。
「わたしの…わたしのせいです…」
迦遊羅が顔を覆って泣き崩れた。
「わたしが芭陀悶などに支配されなければ、朱天殿が命を落とすことはなかった」
細い肩を震わせて自分を責める。
俺は隣に座って頭を撫でてやった。
「お前のせいではない。朱天は己の信念に殉じたのだ。誰も恨んでおらぬわ」
「だから一層つらいのです。あの方を奪ったわたしに、ナスティ様はそれはお優しくしてくださる。いっそ罵ってくだされば楽なのに…」
負の感情は必ずしも悪ではない。心を健やかに保って生きるためには、正負両方を併せ持っていなければならぬ。度の過ぎた悪人が自滅するのと同様、優しすぎる人間もまた、生きるに向いていないのだ。
だから迦遊羅の言うことは正しい。だが、
「あの娘にお前を憎むことはできぬよ」
その気質ゆえに、命の勾玉に選ばれたのだから。
「朱天も厄介なことをしてくれたものだ」
螺呪羅が肩をすくめる。
「全くだ。事が済んだらさっさと寝てしまうなぞ、無責任もいいところだぞ。師匠が師匠なら、弟子も弟子だ」
さすがに暴言かと思ったが、迦遊羅は気分を害した風はなかった。
「迦雄須様は朱天殿の資質を見込んで錫杖を託されたのだと思います。一族以外であれ程の使い手は見たことがありませぬゆえ。本来ならば、わたしではなく朱天殿が錫杖を受け継ぐべきなのです」
と言うことは、あの凄まじい法力は自前だったのか? 道理で武装した俺達と生身で戦える訳だ。
「ならば尚更、朱天には目を醒ましてもらわぬといかんな。一人より二人の方が、務めもはかどろう」
螺呪羅が励ますように迦遊羅の肩を叩いた。
迦遊羅は少し考えた後、ふと顔を上げて切り出した。

「ナスティ様を…朱天殿に会わせてみてはいかがでしょう? もしかしたら応えてくれるやも」

思いもよらぬ発想だった。
「それは…ちと危険すぎぬか? うまくいくとはとても思えん」
螺呪羅も首を捻る。
「命の勾玉を使いこなせるなら万が一ということもあろうが、あの娘自身には何の力もない。傷を広げるだけだと思うが…」
同感だ。恋しい男の死体を目の当たりにして、本当に正気を失ったらどうする。
しかし迦遊羅は主張を曲げなかった。
「危険は承知の上です。正直、わたしもうまくいくとは思っておりません。けれども力ずくで想いを取り上げてしまうのは、あまりにお気の毒。ナスティ様ばかりでなく、朱天殿にとっても…。それに以前、ナスティ様はわたしにおっしゃいました。どんなに辛くとも、過去を受け入れなければ前に進めないと。あの方もきっと心のどこかでは解っておいでなのでしょう。わたしは…そう信じております」
失敗したらしたで、逆に諦めがつくということか。
残酷だが一番理にかなった方法なのかもしれない。朱天の幻から抜け出さぬ限り、あの娘も那唖挫も光輪も、いや、俺達全員の時間が止まったままなのだから。
「やってみる価値はあるな。失敗した時には、それこそ記憶を消さねばならぬが…」
螺呪羅は気乗りのせぬ様子ながら賛成した。
かくして俺は再び人界に下った。




ナスティを妖邪界に連れていきたいと告げると、烈火達は意外にもあっさりと承諾した。
「少しでも可能性があるなら、それにかけたい」
「結果がどうであれ、今より悪くはならんだろう」
「うまくいけば一石二鳥だしな」
「何があっても、私は彼女を支えるつもりだ」
「ナスティならきっと乗り越えてくれると思う」
五者五様に思案の末を告げる。
那唖挫がナスティを抱きかかえて部屋から出てきた。
ナスティはあれからずっと眠ったままだと言う。恐らく現実に耐えられなくなった精神が自衛しているのだろう。極めて危険な兆候だ。
場合が場合なので、手っ取り早く妖邪門を喚び出した。

「お姉ちゃん、大丈夫だよね?」
純が心配そうに見上げてきた。
「最善は尽くす」
那唖挫が慎重に言葉を返した。
純は一瞬泣きそうになったが、すぐに表情を引き締めて「がんばって」と言った。
いじらしいものだ。これが朱天なら、気の利いた言葉の一つもかけて安心させてやれるのだろうか。
様々な思いを胸に、俺達は妖邪門をくぐった。




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