神様
神様じゃなくてもいいから 誰か
嘘でもいいから どうか
この世界は悲しいことばかりじゃないと言って




「どうか・・・どうか、もう」
叫んだのに願いは届かず
唐紅の巨大な門が開いてゆく
歪んでしまった思いと共に、その主をも喰らい尽くそうと
それは当然の報いだったのに
わたしはその人の背中を突き飛ばし、門の前に躍り出た
理由などありはしない
ただ世界はやさしいものだと信じていたくて


風が全身を絡め取り、息ができなくなる
最後に見たのはうっすら溶け出す夜明けの空

そして
瞳を開く時
+============【1】============+



その日、螺呪羅は珍しく早い時間に目が醒めた。
夜型生活が身に染みついている彼は、いつもなら午前中一杯は床から出てこないのだが、明け方になって突如、痛烈な感情に眠りを破られたのだ。「悲しみ」と名付けられるべきそれは、黙殺するには余りにも強く深く、涙が止めどなく頬を伝い落ちる。他人の思念を拾ってしまうことはあっても、引きずられたのは初めてだった。
螺呪羅は己の性癖に舌打ちしながら、念の出所を辿って馬を飛ばした。運河を何本か越え大路に出る。京と外を分かつ大門を目にした瞬間、言葉を失った。
門は突風に煽られたように傾いであちこちひび割れ、立っているのがやっとという惨状を晒していた。周辺の路地は人だかりで埋まっていたが、皆遠巻きに見ているだけで、直接門に触れようとする者はいない。
「あっ、幻魔将様!」
螺呪羅を見つけた住人の一人が転びそうな勢いで駆け寄ってきた。
「何事だ、一体?」
「は、それが・・・」
生成色の水干に身を包んだ男は、適当な表現を見繕うことができずに口ごもり、ただ青い顔を門と螺呪羅の間で往復させる。螺呪羅は仕方なく馬を下り、人垣の中へと踏み込んでいった。煩悩京を統べる将の一人のご来臨とあり、掻き分けるまでもなく道ができる。
唐紅の門の前。紅く朱く、門よりも赤く地面を染め、横たわる細い影。
力無く瞼を閉じた顔は見覚えのあるものだった。
「・・・!」
螺呪羅は衣が汚れるのも構わず、その人物の傍らに膝をついた。
抱き起こそうと背中に腕を廻した途端、ぬるりと生温い感触が指の間を滑った。慌てて袿を脱ぎ、傷口を押さえ付ける。薄紫の衣は見る見るうちに赤錆色に浸食された。
「誰ぞ、那唖挫を呼んでまいれ!!」
滅多に感情を昂ぶらせぬ隻眼の将の狼狽した声に、数人の男達が駆け出した。


血まみれの体を担架代わりの戸板に寝かせ、那唖挫の診療所に運び込む。
「どうだ、助かるか?」
「判らん」
「そんな・・・」
余りに素っ気ない答えに螺呪羅は怒鳴りそうになるが、那唖挫の張り詰めた表情を見てやめた。医術を司るこの男でさえ、救命を確約できぬ状態なのだ。
「迦遊羅を呼んでくれ」
「わかった。そちらはお前に任せる。朱天は・・・どうする?」
「隠したところでいずれバレる。いや、もう勘付いておるやもな」
那唖挫は小声で呟き、足早に部屋の奥へと消えた。
螺呪羅が踵を返そうとした時、城に面した潜り戸から朱天と迦遊羅が入ってくるのが見えた。最悪のタイミングに我知らずため息が漏れる。
朱天は螺呪羅の姿を認めるや、緊迫した様子で問いかけてきた。
「只ならぬ空気を感じて来てみれば、人界の者が紛れ込んだと言うではないか。一体どういうことだ?」
螺呪羅は答えをためらう。那唖挫はああ言ったものの、果たして知らせるべきか。
その心中を知ってか、迦遊羅が静かに言葉を継いだ。
「この庵に運び込まれたということは、その者、命が危ういのでしょう。常人が生身で妖邪門をくぐってただで済むはずがありませんもの」
「その件でおぬしを呼びに行こうとしていたところだ。とにかく中へ」
螺呪羅は迦遊羅の小さな背中を診療所の中に押しやった。
朱天も当然のように続こうとするが、目の前で戸を閉められ怪訝な面持ちになる。何か言おうと口を開きかけるのを制し、螺呪羅は意を決して告げた。
「紛れ込んだのはナスティだ。西門の前に倒れておった」
「なに・・・?」
朱天の顔がこわばる。
「辛うじて息はあるが、助かるかどうか危ういそうだ」
告げた内容は正しく理解されたのかどうか。朱天は身じろぎひとつしない。
螺呪羅は根気強く待った。
永遠のような沈黙の後、
「なぜ・・・だ・・・・・・」
朱天の喉から掠れた声が絞り出された。
「それが分かれば苦労はない」
螺呪羅は硬い口調で突き放す。夢幻を扱うからこそ、残酷な現実の前ではいかなる慰めも無力であることを知っている。そしてその状況において己がなすべきことも。
「とにかく今は那唖挫を信じて待て。そして祈ってやれ。あの女がお前のためにしたように、な」
それだけ言うと、不安におののく都人を収拾すべく政所へと去っていった。
朱天はなす術もなく、ただその場に立ち尽くした。



「那唖挫殿、魂魄が離れかけております。このままでは・・・!」
処置室に迦遊羅の緊迫した声が響く。
「わかっておる」
那唖挫は短く答え、拍動を停止したナスティの心臓に電気ショックを与えた。応急的に縫合しただけの身体が宙に跳ね上がる。迦遊羅は思わず声を上げた。
数度の衝撃で鼓動が戻ったことを確認し、那唖挫は執刀を再開した。
手術の経験は何度もあるが今回は勝手が違う。何しろ患者は生きたまま死んでいるのだ。

妖邪界は人の念が凝り固まって成った世界。そして、生者の世界である「この世」と死者の魂が赴く「あの世」との中間に位置する。それ故、今生に未練を残してきた者を迎え入れ、思いを遂げさせた後に来世へと送る、一種の浄化装置のような役割を担っているらしい。煩悩京の住人の大半が幽霊のように実体を持たないのはそのためだ。阿羅醐によって一時的に歪められてはいたものの、根本的な機能は現在も失われておらず、迦遊羅と魔将達は妖邪界を本来の姿に戻すことを己の使命と定め、ここに在り続けることを選んだ。
死者以外で妖邪界が受け容れるのは妖邪に魅入られし者だけ。それ以外の者が境界を侵せば、命で代価を支払わなければならない。
つまり招かれざる客が「生きた」状態で妖邪門を抜けた例など、前代未聞なのである。

迦遊羅は、はみ出した臓腑が元通りに納められ、裂けた肉が縫い合わされてゆく様を歯を食いしばって見ていたが、ついに堪えきれなくなって顔を背けた。
「つらいだろうが、もうしばし付き合うてくれ。おぬしの能力なくして、この女の命は繋ぎ止められぬ」
那唖挫が額に玉の汗を浮かべ、それでも手を休めずに言った。
「わかっております。わたしとて、この方を死なせる訳にはゆきませぬ」
迦遊羅は蒼い唇を引き締めて頬を上げた。
いくら那唖挫が現代医学を身につけていようと、医療機器の効用は妖邪界では多寡が知れている。鎧の力を使おうにも、強すぎる薬が毒になるのと同様、弱り切った肉体には逆効果となる可能性の方が大きい。頼れるのは医師の技量と患者の生に対する執着だけ。
だがナスティは完全に意識を失っており、「生きよう」という気力が感じられない。それを補うために、迦遊羅は祈り続けなくてはならないのだ。
那唖挫は損傷のひどい箇所だけを再生し、後はでき得る限りの外科処置を施した。
極度の緊張に凝固したような空間の中、時間だけが流れてゆく。
やがて最後の一針が終わった。那唖挫は大きく息をつき、初めて手を止めた。
「・・・終わったのですか?」
迦遊羅が袂で汗を拭ってやる。
「ああ」
那唖挫の表情は思わしくない。
「成功したのでしょう?」
「傷の手当はな。後はこの女次第だ」
その言葉に、迦遊羅ははっとした。
妖邪界において肉体は単なる附属品となる。鎧の主たる四魔将や迦雄須一族に連なる迦遊羅でさえ例外とはならず、肉体の変化はすべて精神に左右されてしまう。心で感じた時間の経過がそのまま身体に反映されるため、外見が実年齢と一致しなくなるし、死に至るほどの大怪我を負っても強く念ずれば瞬く間に完治する。いわば不死身に近い状態となるのだ。
死が訪れるとしたら、器ごと消滅するか、精神を使い果たすか、思いを満たして「昇天」するか。朱天が命を落としかけた時も肉体の損傷が原因ではなかった。
「では、ナスティ様はこのまま目覚められぬかもしれぬ、と?」
問いかける声が震える。
「この女にどういう事情があったのかは知らん。だが、結果がこうなることは分かっていたはずだ。それでも妖邪門をくぐったということは、それなりの覚悟があったのだろう。死を受け入れた者を引き戻すのは生半可なことではない」
朱天の時のようにな、と那唖挫は最後に付け加えた。


「命の勾玉を使えば簡単ではないか。人界にはまだあの小僧がおろう」
夕餉の席で飯をかき込みながら、悪奴弥守が言った。夜勤明けを叩き起こされ、食事を取る暇もなく日がな一日働き通しだったのだ。深刻な話し合いより食欲が優先する。
螺呪羅と悪奴弥守、そして動揺を責任感で抑えた朱天の働きで、京は落ち着きを取り戻しつつあった。たかが生きた人間が一人紛れ込んだだけで大仰と言えば大仰なのだが、小さな穴が原因で巨大な堤防が決壊に至ることもある。殊に煩悩京の住人は、阿羅醐の呪縛の脅威から未だ醒めきっていない。浮き足立つのも無理からぬことだった。
「命の勾玉は破邪の力であって、死者の復活に用いるものではありません」
迦遊羅が目を伏せて首を振った。
「烈火や朱天は生き返ったぞ?」
「彼らの死には阿羅醐や芭陀悶という巨大な怨念が関わっていたからです」
「それでも『命』と名が付くくらいだ。意識を取り戻すくらいできよう」
「できぬ。朱天の時を忘れたか」
螺呪羅が冷ややかに断言する。悪奴弥守は旗色が悪いのを見て取り、眉間にしわを寄せて話題を変えた。
「ところで当の朱天は?」
「ナスティのところだ」
「何だ。それならナスティもすぐに目を覚ますわ」
「おぬしは単純でよいな・・・」
螺呪羅と那唖挫が同時にため息をついた。
「どういう意味だ? 朱天はナスティが呼んだら目覚めたではないか。逆も然りだろう」
悪奴弥守が三杯目の飯に箸を突き立てる。
「まあな。だが、朱天が『呼ぶ』とはどういうことか、分かっておるか?」
「? 呼ぶは呼ぶだろう。声出して『お〜い』とか言う・・・」
屈託の欠片もない返答に、螺呪羅は畳に突っ伏した。
「おぬし、何年妖邪をやっておる?」
「忘れた。お前、飯を喰ってすぐ寝ると牛になるぞ」
「それは医学的根拠のない迷信だ」
那唖挫が即座に訂正する。
「そんなことはどうでもよい。我らはなぜ、人の身を保ったままここに居ると思う?」
ずれそうになる話を螺呪羅が引き戻した。
「阿羅醐の招きに応じたからだろう。それと鎧の力か」
悪奴弥守は何を今更、と言わんばかりに味噌汁をすする。
「その通り。それ故我らは妖邪界に属する存在となった。その呼び掛けに人が答えたらどうなるか考えてみろ」
螺呪羅は寝転がったまま背を向け、頬杖をついた。
「あ・・・」
妖邪に身を委ねた人間は妖邪となる。それは誰もが知る暗黙の了解。
「只人が妖邪となってしまっては取り返しがつかぬ。自力で目覚めてもらうしかないのだ」
「気の遠くなるような話だな。何ぞ別の方法はないのか?」
「我らの力の及ぶ範囲ではないな。あとは小童どもにでも頼るしか」
那唖挫が窓の外を仰いで呟いた。
「あ奴らに言うのか・・・」
悪奴弥守の声に名状しがたい色が混ざった。それはその場にいる者全員の心情でもあった。
ナスティはあの辛く苦しい戦いの中、影に日向に5人の少年達を支えてきた。彼らの中でどんな位置を占めているかは想像に難くない。その女性が命を落としかけていると知ったら、衝撃はいかばかりか。
無論、今回の件は一種の天災であり誰の責任でもない。それでも人を超えた力を持ちながらなす術を持たぬ自分達を思うと、罪悪感は拭えない。会わす顔がないとはこのような状況を言うのだろう。
「致し方あるまい。何よりまず、こうなった原因を突き止めねば次の手が打てぬ」
螺呪羅が前向きな意見を出したので、悪奴弥守は少し驚いた。
「おぬしにしてはやる気だな。どういう風の吹き回しだ?」
「やかましい。・・・あの女が門の前に現れた時、かつてない悲しみを感じた。それが何なのか気になるだけだ」
色素の薄い隻眼が遙か遠くに向けられる。
夢幻を操る男を捉えるほどの悲しみ。悪奴弥守は言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。



結界代わりの薄布に護られ、ナスティは静かに眠っている。耳を近づけてやっと感じ取れるだけの息をして。
朱天は白い包帯からのぞく彼女の指をそっと握った。
冷たくもなく温かくもない、ただそこにあるだけの肉の器。
たまらなかった。
なぜナスティがこんな目に遭わねばならぬのか。
門がこちら側からの操作なしに人界に繋がるなど普通ならあり得ぬことである。もし妖邪界が安定していれば、彼女が飛ばされてくることはなかっただろう。そう考えると慚愧に耐えなくなる。
人界では大騒ぎになっているに違いない。家族や輩(ともがら)の心情を思うと胸が痛む。しかし今の状態であちらに戻れば死が待っているだけだ。物質の比重が軽いこの世界だからこそ、彼女の身体は機能停止を免れているのだ。

「ナスティ」

名前を呼んでみる。
このままこちら側にとどめ置けたらどんなに楽だろう。人界への縁が失われて悲しいというなら、代わりに自分が側にいる。一生慈しむ。決して寂しい思いはさせない。
「ナスティ」
呼びかける一方で願う。どうか答えないでくれ、と。
これは身勝手な願いなのだ。個人の欲望で世の理が枉げられるなど、あってはならぬ。他者を踏みにじって成立する幸せなど・・・認めてはならぬ。
「ナスティ・・・」
返事はない。長い睫毛は彫像のように閉じられたまま。
朱天は安堵する。
「そうだな、君は答えまい。そういう人だ」
だからこそ愛している。
「必ず助ける」
朱天は中世の騎士がするように、彼女の細い指に口づけた。




ヒロイン、のっけから死んでます!!(爆)
え〜この先もこの調子で、いえ、さらにトンデモなく本編から外れていきますんで、「ダメだ、こりゃ」と思われたアナタ、速やかに引き返して忘れてやってください。




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