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「あっ!」
悲鳴のような短い叫び、続いて陶器の割れる音が朝のダイニングに響く。
「あ・・・あ〜あ・・・・・・」
少年は粉々になって床に散らばったマグカップの破片と、東陽に照り返る薄い琥珀色の水たまりを見下ろし、呆然と立ち尽くした。
「純!? どうしたの?」
壁一枚を隔てたキッチンから、女性の驚いた声が投げられる。
「お姉ちゃん、ゴメン! カップ割っちゃった。すぐ片付けるから」
少年は弾かれたように我に還る。
幼いけれども他人への配慮を知っている子供だ。手を煩わせてはいけないと思ったのだろう。慌ててその場にしゃがんで陶器の残骸に手を伸ばす。
彼はとっさに傍に寄り、少年を押しとどめた。
「手を切ってしまうぞ。私がやろう」
「い、いいよ。ぼくが割っちゃったんだし」
少年は頭を横に振る。
「では私が拾うから、純は何か床を拭くものを取ってきてくれぬか?」
彼は少年の意思を尊重し、妥協案を示した。
「わかった。ゾーキンと、あとゴミ袋持ってくる!」
小さな背中がくるりと回り、壁の向こうに消える。彼は頬を緩めてそれを見送ってから、足元の破片を拾い集めた。
半透明の液にまみれているため、小さなものになるとどこに落ちているのか判りづらい。肉厚の器だったことが幸いし、それほど細かく割れなかったようだが、念のため床に顔を近づけて指先で調べる。
程なく、少年が先程の声の主である女を伴って戻ってきた。
「ゾーキンと袋、持ってきたよっ」
元気よく宣言して紙袋を渡す。それからせっせと床を拭き始めた。
「純ったら、そんなことわたしがするのに・・・」
女はエプロンの裾を握り、困ったような嬉しいような表情を浮かべている。
「ダメだよ。お姉ちゃんいろいろ忙しいんだからさ」
少年はぎこちないながらも手順を心得ているようで、床の水たまりがあらかたなくなったところで雑巾を裏返し、残った水分を吸い取らせた。
少年の手際に感心しつつ、彼は集めた破片を紙袋に入れる。が、その先の処置が分からない。
ふと思った。自分は今まで、こうして壊れ物の後片付けなどしたことがあっただろうか。いや、片付けに限らず、およそ身の回りの雑事について深く気に掛けたことがあっただろうか。
戦いに明け暮れてきた彼にとって、その疑問は降って湧いたものに等しかった。
食事をし、片付けをし、掃除をする。考えてみれば、どれも人間にとって当たり前の営みだ。その当たり前に全く目を向けることのなかった自分に気づき、少なからず狼狽えた。
それを見抜いてか、女がさりげなく手を差し出して後を引き受ける。
情けない心境で
「すまぬ」
と頭を下げると、女は可笑しくてたまらないという風に言った。
「その着物は洗濯機じゃ洗えないわね」
何のことか分からず返答に詰まってしまう。女は黙って彼の腕を指差した。
白い着物の袖には、淡褐色の染みが見事なまだらを作っていた。
「・・・・・・!」
不覚としか言いようがない。破片を拾うのに夢中で全く気が回らなかった。
「あ〜あ、しょうがないなぁ、朱天は」
少年が妙に大人びた仕草で苦笑する。女も声を立てて笑った。
不思議と腹は立たなかった。
自分は武人だ。戦場で遅れを取ったことはないし、それなりの知識や教養も身につけている。鎧の力に頼る戦いを捨て迦雄須の遺志を継ぐ決意をしたのも、その自負があればこそだ。自惚れるつもりは毛頭ないが、己の力量を見極めていなければ結果に繋がらない。「護る」という行為が感傷や思い込みだけで果たせないことは、身に沁みて承知している。
しかし今この場における限り、彼の能力は何一つ役に立っていない。むしろ一番面倒をかけているような気さえする。
その事実は恥ずかしいというよりむしろ、知らぬ間に張り詰めていた肩の力を抜いてくれるようで、心が軽くなった。こういうのも悪くないと思った。
「本当に仕様がないな。まるで穀潰しだ」
つられて破顔しながら呟く。
「『ゴクツブシ』ってなに?」
少年が怪訝そうに首を傾げた。
「お仕事もしないのにご飯だけは一人前に食べる人のことよ」
女が吹き出すのを堪えて説明した。彼女はいつも平易で分かりやすい言葉で少年との会話を橋渡ししてくれるので、彼は随分助かっている。
「朱天は違うよ、ねぇ?」
少年はさも心外と言わんばかりに否定した。
「そうね、ちゃんとお仕事してるものね」
女は頷いて、テーブルの上に残っていた食器を下げ始めた。
朝食の片付けが終わると、彼は着替えと一緒にバスルームに追いやられた。
「脱いだものはそこに置いといてちょうだい」
ドア越しに女が言う。
袖を通す段になって、はたと気づいた。
これは一体どうやって着るものなのだろう?
町を歩けばどこででも見かけるような筒袖の上着と細身の袴。烈火や天空も似たようなものを着用していた。この時代ではごく普通の装束なのだろうが、自分は前で掛け合わせて帯で止める和装しか知らない。大体こんな細い穴に、どうやったら人間の頭やら腕やらが通るというのか。
たっぷり数分悩んだ挙げ句、結局降参することにした。
「ナスティ」
我ながら情けない声だと思いつつ、ドアの外で待つ人を呼ぶ。
「その・・・、これはどうやって着たらよいのだろう?」
返事がない。顔は見えなくても困惑しているのがありありと解る。
しばらく妙に気まずい雰囲気が流れた後、
「・・・純、教えてあげて」
少年が肩をすくめて入ってきた。
風に洗濯物がはためいている。
シーツやタオルや洋服に混じり、白い着物と墨染めの衣が水気を含んで重そうに揺れている。女が風呂場で手洗いし、しわになるといけないからと手で絞ったのだ。
巧機を扱うことに慣れ切ったあの細腕には結構な重労働だったであろうと思う。それを嫌な素振り一つ見せずにこなし、その上
「ごめんなさい。落ち着かないかもしれないけど、乾くまでその格好でいてくれる?」
と、気を遣ってくれる。
あの五人の少年達が苛酷な戦いの中、逃げ出すことも妖邪に心奪われることもなかった理由が、何となく解った気がした。彼らは常に「人」として生きていたのだ。
極限の状況で「人」で在り続けるのは難しいことである。一度「人」であることをやめた経験があるからこそ、一層強く実感する。
妖邪とは念の塊、精神の比重が物質のそれに勝る存在。飢えも渇きも老いもしない代わりに、感動も反省も成長もない。ただ心の裡にくすぶる憎悪と怨嗟のままに、殺し破壊し侵略する。
目が醒めて最初に感じたのは虚しさだった。
だが今は、己の犯した過ちの恐ろしさにおののく。
その恐ろしい罪を知りながらなお、「仲間だよ」と笑って信じてくれる者達を愛おしく思う。
自分は命を懸けて迦雄須の遺志を遂げるだろう。彼の恩に報いるためだけでなく、このかけがえのない者達を護るために。
そんなことを考えながら文献をひもといていると、少年の忍び笑いが聞こえた。
「どうした、純?」
「うん、ちょっと・・・」
歯切れの悪い答えが返ってくる。
「そうか」
特に追求する必要もないと思って書物に意識を戻すが、少年はその後も時々こちらを見ながら笑っている。
「何がおかしいのだ?」
さすがに気になるので思い切って尋ねてみた。
少年は少し迷った末、きまり悪そうにもじもじと告げた。
「あ、あのねっ、その服・・・、似合わないなぁって思って」
怒られるとでも思ったのか、言ってしまってからばっと目を閉じる。
彼は少年の頭に手を載せ、ぽんぽんとやさしく叩いた。
「何だそんなことか。構わない、私もそう思っていた」
「・・・ホント?」
少年の瞼がおずおずと開かれる。
「うむ。正直、先程鏡を見て困った。同じ装束なのにどうして、烈火や天空達のようにならぬのだろうかと。それにこの姿で錫杖を持つというのはどうも・・・奇怪だ」
違和感を誇張するように、脇に立てかけて置いた錫杖を構えてみせる。
少年はしばらく眺めた後、とうとう腹を抱えて笑い出した。
自分でやったこととは言え、そこまで面白いだろうかと複雑な胸中になる。
「純、失礼よ!」
デスクでキーボードを叩いていた女が、見かねて注意した。
「構わぬ。しかしそんなにおかしいのでは、外を歩くのはやめた方が良さそうだな」
答える顔に自然に微苦笑が浮かぶ。
「ごめんなさいね。浴衣でもあればよかったんだけど、おじい様、洋装がお好きだったから」
女が申し訳なさそうに俯いた。
「いや、ナスティのせいではない。私が注意力散漫だったのだ。次から掃除をする時には、たすきをかけることにする」
彼はいささかピントのずれた思案を口にする。
女は少し笑って遠回しに断った。
「朱天は掃除なんてしなくていいのよ。わたしの仕事がなくなっちゃうじゃない」
戦うことのできない彼女は、衣食住を整えて戦士達を支えることが自分の本分だと決めているようだ。もしかしたら、家事の煩雑さなど取るに足らないことなのかもしれない。
「しかし君は鎧のことも調べなくてはならぬだろう」
負担を心配し、彼の表情がわずかに曇る。
「あら、それはこうしてあなた達にも手伝ってもらってるもの。大丈夫よ」
女は心遣いを感謝しながら事も無げに言った。
強い人だと、彼は思った。彼女は彼女なりのやり方で充分戦っている。
「それにお掃除とかだったら、ぼくが手伝うもんね」
いつの間にか笑い止んだ少年が、得意気に腰に手を当て彼を見上げた。
―― かなわない
日常生活のすべてが修行、とは禅の教えである。
彼らがこんなにも無邪気に真理を掴んでしなやかなのは、ひたむきに日常を生きてきたからなのだろうか。
迦雄須は禅宗の僧侶ではなかったが、好んで雲水の姿を採っていた。それは実際に人の世を護ってきたがゆえに至った境地の現れだったのかもしれない。
根拠などまるでないが、なぜかそう確信できる。
「着物、早く乾くといいね。朱天はやっぱりあっちの方がかっこいいよ」
少年が頬杖をついて窓の外を見た。
「そうね」
女が屈託なく肯定した。
彼は何となく嬉しくなった。
【終わり】
■泉 静流
・・・またもやヤマなしオチなし意味なしですみませんm(_ _)m;
今回のネタはゆりかちゃんの妄想と鏡一さんの呟きから頂きました。(着替えと「悪くない」の辺り)ネタが出た時点では萌え萌えだったのに、わたしが書くとどうしてこんなにしょーもなくなるんだろう・・・(−_−;)
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