|
夢を見た。
近頃ずっと見る同じ夢。
見憶えのある風景の中にいるナスティ。
それは美玉湖からの帰り道、休憩がてら立ち寄り、心の休まるひとときを過ごした草原。
純は一心不乱に四つ葉のクローバーを探した。朱天も一緒に探した。その肩に、小さな白い蝶がとまっていた。やわらかな風が、三人をやさしく撫でて通り過ぎていった。
無邪気な二人を見つめながら、妖邪との戦いがすべて悪い夢ならばと、どんなに思ったことだろう。
ようやく四つ葉のクローバーを見つけた純が、喜びの声を上げて立ち上がった。いつの間にか純に負けないくらい必死になって探していた朱天は、自分のことのように嬉しそうな顔をしてそれを喜んだ。
まばゆいほどの彼の笑顔が、ナスティの心に深く染み込んだ。
その朱天がいた。
彼はもう、鎧姿でも雲水姿でもなかった。淡い藤色の着物に身を包み、遠くで佇んでいる。呼ぼうとしても声が出ない。
高鳴る胸を両手で押さえ、もどかしい足で駆け出そうとすると、なぜかいつも朱天は遠ざかる。微笑んでいるのか、悲しい顔をしているのかさえわからない。
ひとことの言葉もなく消えてしまう彼を呼び止めることも出来ずに、ナスティは霧のたちこめる草原にぽつんと残されるのだった。
眠る度にそんな夢を見せられ、ナスティはいつまでも悲しみから抜け出せずにいた。
こめかみに流れた涙の冷たさに、彼女はふと目をあけた。
遼達もそれぞれが暮らす街へと帰り、静けさの戻った家の自室だった。夜明けまではまだ数時間ある。
ゆっくりと起き上がって指で涙を拭くと、ナスティは薄いピンク色のガウンをはおり、部屋を出た。
暗い家に明かりを灯して、部屋をひとつひとつ歩いて回る。
リビング、キッチン、書斎、その窓から見えるテラス…。
いたる所に朱天の幻影が見える。そのどれもがやさしい表情をしていた。
彼がいつも眠った場所に座り込むと、ナスティは手のひらを床に当てた。
――私が眠っているあの人を見つめたように、あの人も私の寝顔を眺めたのだろうか…
そう思いながらナスティは、はっとして一点を見た。
細く長い髪。自分の髪よりも明るいそれは、確かに朱天のものだ。
ナスティは、宝物を見つけたようにそれを大切そうに拾い上げると両手の上に乗せ、いとおしそうに見つめた。
彼の魂はどこに逝ったのだろう。ここには来たのだろうか。
――朱天…
風にたなびいていた長い髪。抱き締めた時、自分の指に絡んでいた絹糸のような感触。
心の封印が破れた。
朱天と共に同じ屋根の下で暮らした、不安ながらも穏やかだった日々が昨日のように鮮やかに蘇り、忘れようと努めてきた思い出の数々がナスティの脳裏を駆けめぐる。
辛かった妖邪との戦い。
だがみんなで力を合わせて立ち向かい、平和を勝ち取った。
遼、秀、伸、征士、当麻。誰一人欠けることなく、また元の穏やかな生活を取り戻せた。三魔将も邪悪から解き放たれ、迦遊羅と共に、再建を誓った都へと帰って行った。
なのになぜ、朱天だけが命を落としたのか。
わかっている。彼の犠牲がなければ今のこの安息もなかった。それを手に入れるために、みんなそれぞれ大事な何かを失ったのだ。
そう思っても、ナスティの中で今も晴れない呵責の念があった。
――私は朱天に何もしてあげられなかった…
何度彼に命を救われたことだろう。どんな時でも、朱天はナスティと純を妖邪から庇い守ってくれた。
だがその彼に、自分はどれほどのことをしてあげられたのか。
――ごめんなさい、朱天
彼が守ってくれたから、自分はこうして今も生きている。一日も早く元の自分を取り戻し、彼の分まで一生懸命生きたいのに。
こんな弱い心、きっとあの人は叱るに違いない。
自嘲してくすりと笑ったその時、遠くで錫杖の音が聞こえた気がした。まさかと思って全身をこわばらせ、床を見つめたまま微動だにせずに耳を澄ませた。
――気のせいだったのだろうか…
そう思って立ち上がろうとした時、再び錫杖が鳴った。
さっきより近い。
ナスティは弾かれたように立ち上がり、テラスへと出た。やや強い風が髪を乱した。
どこから聞こえてくるのか。彼女は藍色の空に瞳を凝らした。
しかし、薄暗い夜明け前の風景は普段と何も変わらない。頭の中がまとまらないまま、ナスティは手すりを握り締め、必死で闇の中に何かを見つけようとした。
――ナスティ…
ふいにナスティの心の中に響く声があった。
やさしく自分の名を呼ぶ声。忘れもしないその声。
朱天の声。
錯乱に似た心境で立ち尽くすナスティの目に、薄闇の彼方で光るものが映った。芭陀悶に捕えられた時、ナスティの元に朱天を運んで来たあの光の球体だった。
それはぼう然と見つめる彼女の方へと近づき、数メートル手前で弾けるように八方に光を放った。そのあまりの眩しさに、ナスティは目を閉じた。
これは夢だ。強くなれない自分が生み出した悲しい夢なのだ。
「ナスティ」
両手で顔を覆い、俯いて立ったままの彼女の名を再び呼ぶ朱天の声。今度ははっきりと耳に届いた。
ナスティは恐る恐る目をあけた。
素足ののぞく着物の裾が見える。夢で見た淡い藤色の着物。
まさか本当にこんなことが…。
ゆっくりと視線を上げてゆく。しなやかな指が見える。襟元まで来た時、垂れかかる絹の髪が見えた。
そしてナスティは、息をつめて顔を見上げた。
「息災で安心した」
そう囁くやさしい瞳を見つめたまま、ナスティはひとことの言葉も出てこない。
それは紛れもなく朱天だった。
何か言おうとしても声が出ない。唇がかすかに動くだけだった。
「言うたであろう? 必ず戻ると」
ナスティは震える手を伸ばし、朱天の頬に触れた。
温かかった。その手の上に朱天の手が重ねられる。その手も温かい。
夢などではない。
生きていた、彼が…。朱天が、生きていた!
ようやく気持ちが現実に追いつき、ナスティの瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ナスティ…」
そんなナスティを見て、朱天はこらえきれずに彼女を強く抱き締めた。
ナスティは朱天の広い胸に頬を寄せ、大きな背中を抱き締めて目を閉じた。枯れたはずの涙は、あとからあとから溢れてくる。
こんな涙を流せる日が来るなんて思いもしなかった。こんな奇蹟が起こることなど誰が予想しただろう。
「寂しい思いをさせて、すまなかった…」
切なげに瞳を伏せて呟く朱天の背中を力いっぱい抱き締めて、ナスティは泣いた。抑えきれない声をあげて、彼の名を呼びながら子供のように泣いた。
ナスティの気持ちが落ち着くまで、朱天はずっと彼女を抱き締めていた。
どこかで小鳥のさえずる声がして、夜明けが訪れたことを知らせている。
ナスティはようやく落ち着きを取り戻した。
「信じられない…。あなたが目の前にいるなんて」
朱天の手を片方ずつそれぞれの手で握りながら、ナスティは彼の目を見てそう言った。
朱天は静かに微笑み頷くと、懐から和紙の書簡を取り出し、ナスティに差し出した。
「迦遊羅が私をこちらへ送る際、そなたにと預かった」
ナスティは少し驚いてそれを受け取ると、くるくると解きながら読み始めた。
丁寧な挨拶で始まるその手紙には、朱天がなぜ生き返ることが出来たのかが書かれていた。
『…輝煌帝と阿羅醐の闘いの終わりに勾玉の光が烈火を救った際、その光が妖邪界へも届き、朱天の命を甦らせたのです。ただ朱天の体は衰弱が激しく、果たしてそのまま生き続けることが出来るのかどうかは予断を許さない状態でした。』
長いまつげを動かして一心に手紙を読み進めるナスティを、朱天は傍らでやさしく見守っていた。
『朱天は人間界で生きたいと申します。わたくし達も朱天と共に暮らしたいと思うておりましたが、彼の心はもう決まっておりました。ナスティ殿、朱天をどうかよろしくお願い致します。』
ナスティは、読み終えた後もそこに書かれた一文字一文字を噛み締めるようにしばらく手紙を見つめていたが、やがて目を上げて朱天を見た。
「生と死の狭間でさまよう私に、迦雄須が諭して下さったのだ。生きよ、と」
ナスティは真摯な眼差しで聞いていた。
朱天はつと、左手でナスティの右頬に触れるとそのまま髪をかき分け、耳元に手を滑り込ませた。
前ぶれのない動作に、ナスティは少し戸惑いながら顔を紅くして、ぎこちなく俯こうとした。
「動かないで」
小声で短く言うと、朱天はその左手に右手を添えた。耳に響いた弱い痛みに、ナスティははっとした。
指先でそこに触れる。小さな硬い宝石(いし)の感触。
「これは…」
それは朱天が死んだ時、襟元に忍ばせたイヤリングだった。
「ナスティの気持ちが、私に生へと向かう力をくれた」
朱天は、耳に当てたままのナスティの手をそっと包んだ。
「都の再建に力を尽くすことも、私には重要な仕事だと思うた。だがそれは迦遊羅と魔将達が立派に果たしてくれるであろう。私の願いは、この人間界で生きることだ」
そして朱天は強い瞳でナスティの瞳を見た。
「そなたと共に、生きたいのだ」
こんな時、言葉は何の役にも立たない。今のナスティの気持ちを伝えられる言葉などありはしない。
「ナスティ、愛している…」
瞳を潤ませるナスティの手を引き寄せ、朱天はやさしく口づけた。
いつかのような悲しみを抱いたままのキスではなく、一縷の迷いもない。
ゆっくりと伏せたナスティのまつげの間から温かい涙が一筋、頬を伝う。
彼女は、朱天の背中にまわした指で柔らかな髪の感触を確かめた。
朝陽が射し、一日が始まる。生まれ変わったように何もかもが輝いて見える。
そう、生まれ変わったのだ。朱天もナスティも。
この朝が、ふたりの人生の始まりになる。
急ぐことはない。これからゆっくりと、ふたりだけの時を重ねていこう。
見つめ合う二人の上に広がる青い空に、白い月が遠く浮かんでいた。
==========【終わり】==========
|