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夢を見た。
ここはどこなのか。ナスティは憶えのある風景の中にいた。
それは美玉湖からの帰り道、休憩がてら立ち寄り、心の休まるひとときを過ごした草原。
純は一心不乱に四つ葉のクローバーを探した。朱天も一緒に探した。その肩に、小さな白い蝶がとまっていた。やわらかな風が三人をやさしく撫でて通り過ぎていった。
無邪気な二人を見つめながら、妖邪との戦いがすべて悪い夢ならばと、どんなに思ったことだろう。
ようやく四つ葉のクローバーを見つけた純が、喜びの声を上げて立ち上がった。いつの間にか純に負けないくらい必死になって探していた朱天は、自分のことのように嬉しそうな顔をしてそれを喜んだ。
まばゆいほどの彼の笑顔が、ナスティの心に深く染み込んだ。
その朱天がいた。
遠くで佇み微笑んでいる。呼ぼうとしても声が出ない。
彼はもう、鎧姿でも雲水姿でもなかった。淡い藤色の着物に身を包み、素足で歩いてくる。
ナスティは高鳴る胸を両手で押さえ、震える足で一歩二歩と朱天の方へ歩き出した。水の中をゆくようにもどかしい。
だが朱天は、まるで風に運ばれるように滑らかな動きでナスティへと近づいた。
紛れもなく彼だった。
悲しい想いはなく、ただ懐かしさがあった。
彼が消えてしまうかもしれないという不安を抱きながら、ナスティは恐る恐る腕を伸ばした。
しかし朱天はそこにいた。
愛しい眼差しでナスティを見つめ、差し出した彼女の手をやさしく受けとめた。
彼がその手を軽く引くと、ナスティの体はふわりと浮いて朱天の腕に包まれた。
やさしい瞳、細く長い髪、逞しい腕…。ずっと恋しかった。
広い胸に頬を寄せ、大きな背中を抱き締めて、ナスティはうっとりと目を閉じた。
逢いたかった…。
ナスティはこれが現実でないことがわかっていた。
けれど、彼が今自分の目の前にいるということだけは本当のような気がした。
ナスティが朱天を求め、彼がそれに応えてくれた。あるいは、彼が何かを伝えるためにナスティに会いに来たのかもしれない。
朱天は、ただ無言でナスティを抱き締めていた。ナスティは何か話をしたかったが、今度こそ彼が消えてしまいそうで何も言えなかった。
――元気でいるのだな
ふいに、ナスティの心の中に朱天の声が響いてきた。驚いて見上げると、彼は微笑んでいるだけだった。そのまま不思議な思いで見つめていると、また声が聞こえた。
――だがいつも悲しい顔をしている
朱天は瞳を曇らせた。
――あなたがいないから…!
ナスティは彼の着物の袖を強く握り、心の中で悲痛な声を上げた。
その瞬間、彼女は朱天の腕に子供のように軽々と抱き上げられた。
朱天は暫くナスティの瞳をいとおしそうに見上げていた。ナスティも何も言葉がないまま、座らされた朱天の腕の上で肌触りのよい麻の着物に包まれた肩に手を置いて彼を見ていた。
ふと涙が滲んだ。
朱天はその涙の理由(わけ)を知っていた。
――ナスティ、泣かないでほしい。そなたが泣くと私は皆のところへ逝けぬ
ナスティは、少女が父親に甘えるように朱天の首に腕をまわし、頭を横に振った。
「幻でもいいからそばにいて…」
朱天の首筋に顔をうずめて、ナスティは哀願した。
朱天はそのナスティの髪を、幼子をあやすようにやさしく撫でた。
――私とてそうしたい。だがここは私のいるべき所ではないのだ
懐かしい気持ちが次第に悲しみに変わり、ナスティは顔をうずめたまま涙声で言った。
「ひとりで逝ってしまわないで。私も連れて行って」
朱天は、しがみつくナスティの背中をいたわるようにゆっくり叩きながら苦笑いをした。
――無理を言うてくれるな。ナスティならわかってくれると思うていたが?
やさしくそう言われるとナスティはますます気持ちが昂ぶり、枯れたはずの涙が溢れてくるのだった。
朱天と共に同じ屋根の下で暮らした、不安ながらも穏やかだった日々が昨日のように鮮やかに蘇り、忘れようと努めてきた思い出の数々がナスティの脳裏を駆けめぐる。
辛かった妖邪との戦い。だがみんなで力を合わせて立ち向かい、平和を勝ち取った。
遼、秀、伸、征士、当麻。誰一人欠けることなく、また元の穏やかな生活を取り戻せた。三魔将も邪悪から解き放たれ、迦遊羅と共に、再建を誓った都へと帰って行った。
なのになぜ、朱天だけが命を落としたのか。
わかっている。彼の犠牲がなければ今のこの安息もなかった。それを手に入れるために、みんなそれぞれ大事な何かを失ったのだ。
そう思っても、ナスティの中で今も晴れない呵責の念があった。
「ごめんなさい、朱天。私、あなたに何もしてあげられなかった…」
何度彼に命を救われたことだろう。どんな時でも、朱天はナスティと純を妖邪から庇い守ってくれた。
だがその彼に、自分はどれほどのことをしてあげられたのか。
――ナスティ…、ナスティ
やさしく呼ばれて彼女はやっと顔を上げ、朱天を見た。
彼はナスティの瞳をのぞき込むように見つめていた。ナスティは、朱天の迷いのない瞳を黙って見つめ返した。
短い沈黙の後、朱天が穏やかに訊いた。
――私は不幸せな顔をしているか?
ナスティは首を横に振った。朱天は静かに頷いた。
――私はとても満たされているのだ。私にはもうゆくべき所が見えている
そして朱天はナスティを抱き直し、強い瞳で言った。
――そなたを愛することができて、私は幸せだったのだ。―――わかるであろう?
朱天の言葉はナスティの心の奥まで深く深く染み透り、彼女はゆっくりと頷いた。
そんなナスティを見て、朱天は安心したように微笑むと静かに彼女を下ろし、一瞬だけ唇を重ねてからそっと手を離した。
心細げに朱天を見るナスティに、一段と響く朱天の声が聞こえた。
――そなたの幸せを祈っている。息災で暮らせ
まばゆい光が彼を包み、あたりの景色も白く輝いていく。
「朱天!」
――いや! まだ逝かないで!
ナスティはもどかしく重い足で懸命に駆け、朱天を求めて力の限り腕を伸ばした。
だがその手に掴めるものは、形をなさない小さな粒子ばかりだった。
やがて白い光は消え、元の静かな草原が現れた。
そこにもう朱天の姿はなかった。
かすかな霧に湿った草の中、彼女はぽつんと佇んでいた。
ナスティは、頬に冷たい感触を覚えてふと目をあけた。
遼達もそれぞれが暮らす街へと帰り、静けさの戻った家の自室だった。窓の外はほんの少し青みがかり、夜明けが近いことを知らせている。
ナスティは部屋を見わたした後、頬に感じたものを確かめるように枕へと視線を移した。
一本の細い草の葉があった。
夢を見ていたはず。今、自分を包んでいるこの切ない気持ちは夢の余韻のはず。
そう思いながらナスティは草の葉を手に取り、じっと見つめた。
露に濡れたようにしっとりとしている。
朱天はここに来ていた? 夢ではなかった?
―――そうだ
彼は逝ったのだ。あの人の魂のゆくべき所へ。あんなに満ち足りた顔をして。
彼女はベッドから起き上がり窓を開けた。冷やりとした空気が流れ込み、もうすぐ訪れる朝の匂いをほのかに漂わせた。
不思議なほど心が落ちついている。
ナスティは草の葉を持ったまま窓辺に寄りかかり、薄明るい空を見つめながら思った。
夜が明けたらあの草原へと出掛けよう。きっとそこから朱天は旅立っていったのだ。
その同じ場所に立ち、彼のために祈ろう。そしてまた自分も強く生きていくことを約束しよう。
ナスティの中で、再び時が流れはじめようとしていた。
毅然とした思いで見上げる藍色の空に、白い月が遠く浮かんでいた。
==========【終わり】==========
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