●第二章 


 緑が萌えていた。
 あれからどのくらいの月日が流れたのか…。
 征士が葉書で知らせたとおり、連休を利用して遼達五人や純が久しぶりに柳生邸に集まって来ていた。
 戦いの話など誰もしない。集まれば必然的にそんな過去を思い出すが、口にする者はなかった。
 ナスティにとってもこの家は思い出が多く、いっそ日本を離れフランスへ帰ろうかと思ったりもした。
 しかし、自分達が死ぬ思いまでして守りぬいた今のこの平穏な日々は、この先も永遠に続くはずだと信じることで、辛い戦いの記憶も徐々にその色を和らげていくのだった。
「だいたいお前は鈍すぎる。そんなことだからオンナに誤解されるんだよ」
 当麻が遼をつかまえてエラそうに女の子の口説き方を語り始めたらしく、それにとやかく言う伸や秀の声も聞こえる。
 ナスティはそんな様子を笑いながらあとにし、書斎の窓を開けに行った。
 カーテンを揺らして流れ込んでくる初夏の風と新緑の匂いに誘われて、彼女はテラスへと出た。
 静かだ。
 邪悪なものはどこにもない。明日もそれからもずっと、みんな幸せに生きていけるのだ。
 だが…。
 やはり今日もだめだ。
 幾度夜を過ぎればこの気持ちが消えるのか。
 眠る度に、自分の中のこの想いは薄れていくはずなのに。そうあってほしいのに。
 まるで拷問のようだった。涙などとうに枯れているのに、未だ幻がナスティを泣かせようとする。
 彼女の心は、あの時から深い悲しみの呪縛の中にある。

 ――――思い出すのは、彼の背中ばかり。




 想いを通じ合えた夜が明けた。
 ナスティは、再び錫杖を見つめて考え込む朱天を、純が何か話しかけていることにも気づかずにぼんやりと見ていた。
 ナスティには彼の考えていることがなんとなくわかり、ざわつく心を落ち着かせようとした。
 その時、錫杖が激しく鳴り、朱天は迦遊羅が迦雄須一族の最後の一人だと確信した。
「ならば誓おう。かつて迦雄須が私を救ったように、今度は私が迦遊羅を目覚めさせる」
 闘うことは、もはや自分の運命(さだめ)だと朱天は心を決めた。
 きっと彼なら迦遊羅を救える!
 ナスティは自分に言い聞かせるように、そう堅く信じた。
 直後、三魔将が不意打ちを掛け、朱天はナスティと純を抱きかかえて社を飛び出した。
 静かな時が破られ、戦いが再開されたことへの不安にいたたまれず、ナスティは朱天にしがみついていた。

 ――阿羅醐の腹の内が、なぜわからぬ!
 ここまで追い詰められながら、なおも武装しない朱天を軽蔑し、口々になじり、揃って攻撃をかけようとする魔将達に、ナスティと純を背後に庇いながら、朱天はやはり防御の姿勢だった。
 阿羅醐を主君と信じ、正しき鎧の心に未だ目覚められない哀れな彼らと闘う理由など、今はもうないのだ。どれほど罵倒されようとも、自分はもう二度と鎧は纏わない。
 朱天は錫杖を突き立て、迦雄須の驚異なる力で地を割って三魔将を退けた。そして一刻も早く彼らを邪悪の呪いから救わねばならないと強く心に誓った。
 遼達の援護に行くと告げて走り去る朱天の後ろ姿を、ナスティは祈る思いで見送った。
 必ず戻る。
 しっかりと自分の目を見てそう言った朱天の言葉を胸の中で抱き締めながら、乾いた土の上に立ち尽くした。
 たとえ果たせぬ約束になろうとも、朱天は言わずにはいられなかった。
 それが彼の、ナスティへの想いのすべてを篭めた告白だった。
 遼達のもとに駆けつけた朱天は、迦遊羅のただならぬ妖気から彼女に芭陀悶が乗り移っていることを知った。
 怒りが彼を奮い立たせた。
 後ろから追いついてきた三魔将と目の前の芭陀悶に挟まれ、追い詰められた朱天は八方塞がりに歯ぎしりをした。
 その時、朱天の手から錫杖がするりと浮かび、空へ高く昇っていった。
 光に溶けて見えなくなった次の瞬間、きらりときらめいて彼の手に落ちてきたのは、いつか割れたはずの鬼の兜だった。
「迦雄須よ、この私に闘えと…」
 朱天は呟いて兜を見つめ、思いをめぐらせた。
「それがあなたの意思ならば、喜んで鬼となりましょう!」
 闘う決意を迦雄須に告げるようにそう叫ぶと、朱天は鬼魔将の鎧を身に纏った。
 あれほど頑なに戦いを拒んできた朱天が、ついに武装した。
 ナスティはその意味の重さに覚悟を決め、また同時に大きな希望も生まれてくるのだった。
 芭陀悶の卑劣な策略の前に遼達は無力だった。阿羅醐の裏切りを知った三魔将も為すすべがないまま、朱天の必死の阻止も空しく、お堂に幽閉されてしまった。
 朱天は新たな怒りに駆られ、芭陀悶に決死の闘いを挑んだ。
 だが、迦雄須一族の血を引く迦遊羅の力を利用した芭陀悶の攻撃力は強大だった。どんなに攻めても攻めても、圧倒的な力で跳ね返される。それでも朱天は立ち向かって行った。
 彼にとって、自分を悪から救い出してくれた迦雄須との約束は何よりも大きな存在であり、それが不屈の闘志になっていた。朱天の中ではまだ、彼自身が許されていなかったのだ。
 この使命を終えてこそ、すべての過ちへの戒めは解かれる。朱天はそう思っていたのだろう。
 ナスティは一度たりとも朱天から目を逸らさなかった。
 太刀打ち出来ない悪の力に彼が傷つき倒れる光景など、胸がはり裂けそうで顔を背けたかったが、見ていなければならないと思った。信念を貫く朱天の姿を、瞬きさえ耐えてその目に焼きつけておかなければと。
 だが、ついに彼は芭陀悶に敗れた。
 遼達や三魔将と同じように体を拘束され、お堂に幽閉されてしまった。
 芭陀悶の前には、ナスティと純だけが取り残された。
 ナスティは途方に暮れそうになった。
 どうすればいい? 自分達は何をすればいいのか。
 命の勾玉を奪おうと、じりじりと近寄ってくる芭陀悶から逃げるしかないのか。いや、自分達にも闘うことができるはずだ。
 だが、力の差はわかり切っている。芭陀悶はナスティを捕えた。

 ――朱天!

 ナスティは無意識に心の中で彼にすがった。
 朱天はもはや精根尽き果て、余力さえなかった。開けることが出来ない目を強く閉じ、鬼魔将としての最後の意思を三魔将に託した。朱天の心が最後に戻る場所は、やはり長い月日を共に闘った彼らなのだ。
 執念という名の力で地霊衆の呪縛を破り、身に着いている鎧を錫杖に変えた朱天は、その錫杖の放つ光が作る球体に包まれてお堂を抜け出し、再び芭陀悶の前に立ちはだかったのだった。
 その顔は蒼ざめ、額には汗がにじみ、肩で息をしている。そんな彼に芭陀悶を倒せる力が残っていよう筈もなかった。
 ナスティは知った。
 彼はここで何もかもを懸けるつもりなのだ。
 純に勾玉を放棄させようとする芭陀悶に強い力で捕えられ、喉元に星麗剣を突きつけられてナスティは怯えていた。
 しかし、光と共にかつての雲水姿で朱天が現れた時、そんな恐怖はどこかへ消え、ただ彼を見つめていた。
 その姿はどこか神秘的でさえあり、もう二度と触れることはできないような気がした。
 朱天はナスティの目を見た。
 そこに留まることなくすぐに芭陀悶へと移ったその一瞬の眼差しに、ナスティは数え切れないほどの言葉を聞いた気がした。
 朱天は錫杖を投げて芭陀悶の手の剣を空中へ飛ばし、ナスティの前に飛び込んで盾となった。
 何も言えなかった。
 ナスティは、朱天の背中に無言の別れを悟った。
 そして――――。

 再び武装した朱天の、それが最後の手段だった。
 芭陀悶の放った嵐星斬のエネルギーをその身に集め、炎に包まれた朱天。
 紅く燃えながら、持てる力のすべてを集結させるように、彼は地の底から響くような声を上げた。
 ナスティはただ、朱天の名を叫ぶことしか出来なかった。
 奇蹟を願い、全霊を込めて強く祈った。それより他に、彼女に何が出来よう。
 朱天は紅雷閃を放ち、自らもその中へ飛び込むと迦遊羅を固く抱き締めた。
 芭陀悶と迦遊羅の凄まじい悲鳴が交差し、ぶつかり合う力に朱天と迦遊羅は相反する方向へ吹き飛ばされた。その時朱天は、我が身の鎧を彼女に託した。芭陀悶はそれ以上耐えられずに、迦遊羅の体から離脱した。
 迦遊羅が鬼魔将の鎧を纏い、悪しき呪いから解放されたことを見届けると、朱天は息絶えた。
 死の間際に見せた微笑には、使命を果たせたことの安堵と、迦遊羅への希望が篭められていた。

 ナスティは、モノクロームのフィルムを見ているようだった。
 橋の欄干から池の水面(みなも)に落ちてゆく朱天が、スローモーションのように映っていた。
 そこへ駆けて行く純のうしろ姿も、泣きじゃくる声も、どこか遠くの風景のように虚ろだった。
 凍てついたように座り込むナスティの傍らで、悲しい瞳をした白炎が、動かぬ朱天をじっと見ていた。




 もうどれくらいの時間、朱天の濡れた亡骸を抱いていただろう。
 純や迦遊羅がいることも忘れて、ナスティは泣き叫んだ。呼び続ければ目を開けてくれそうで、夢中で彼の名を繰り返した。
 気も狂わんばかりの悲しみがにわかに諦めに変わり、ナスティは乱れた髪のかかる顔を起こして朱天を見た。
 死顔は、彼の魂の逝く先を教えているかのように安らかだった。
 ナスティは、朱天の頬に張り付いた髪をそっと傍らへ寄せた。
 いつもやさしい眼差しをくれた切れ長の目は、永い戦いから解放されて眠っているように無防備に閉じられている。そのまつげに触れ、頬をなぞって唇に触れた。
 ――もう一度私を見て。もう一度私の名前を呼んで。もう一度…!
 止まらない涙が、朱天の蒼ざめた唇に落ちていく。
 ナスティはそれを目で追いながらゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
 目を閉じていると温もりさえ感じられて、あたかもゆうべの口づけのようだった。
 ――このまま目を開けたくない。このまま一緒に…!
 ナスティはまた朱天を抱き締め、声を殺して泣いた。

「辛いでしょうけど…」
 自らも悲しみの涙を浮かべる迦遊羅に促されて、ナスティはようやく立ち上がった。
 もうこれ以上留まってはいられない。朱天を埋葬している猶予はなく、遺体はそこに置いて行くしかなかった。
 忍びない思いで橋の袂まで運んで寝かせ、両手の指を組ませて胸の上に置き、脱がせた黒い木綿衣を胸元まで掛けた。
 朱天の頬にそっと触れながらやさしく見つめると、ナスティはイヤリングを片方外して彼の襟の内に忍ばせた。

 ――さようなら、朱天

 そう心で呟くと、気丈さを取り戻したナスティは、朱天の死は自分のせいだと自責の念に沈む迦遊羅の言葉を否定し、力づけた。そして亡き迦雄須と朱天の後を継いでゆく彼女とそこで別れた。
 今は人間界を救うことだけを考えよう。それは朱天の遺志でもあるのだから。
 ナスティは、振り返りそうになる自分を叱るように目を閉じ唇を噛んで、遼達の元へと向かった





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