●第一章  ==参


「寒くはないか?」
 訊かれてナスティは、はっと我に返り、声の方に顔を向けると朱天が自分を見ていた。
 痛みに似た感覚が胸に走り、ナスティは、はにかんだように微笑んで首を小さく横に振った。
「誘っておきながら黙ったままで悪かった」
 朱天も少し照れたように微笑みながら、腰の位置を軽く置き変えた。
 二人の間はまだ、人が一人座れるほどあいている。ナスティはそれが寂しかった。
「焼き上げてたパン、硬くなっちゃってるわね」
 そんな気持ちを紛らわそうと、どうでもいいことを言ってみる。
 何度か三人でパンを焼いた。
 半分おもちゃにしてしまう純を嗜めながら、いろんな形を作った。黒い木綿衣の上にナスティのパステル色のエプロンを着けて、ぎこちない手つきで生地をこねていた彼の姿が浮かぶ。
 ここへ来る前も、ちょうど焼き上げたところだった。
「残念だな…」
 朱天は本気でがっかりしている。
 ナスティは思わず吹き出しそうになった。その気配を感じ取った朱天も軽く笑ってナスティを見た。近い距離で二人の目が合う。
 また作りましょうね。
 そう言おうとした言葉を飲み込む。
 微笑を残したままナスティを見つめる朱天の少し遠い瞳。
 ナスティは、自分の顔が熱くなるのを感じて思わず下を向いた。そのナスティを朱天がどれほど愛しげに見ていたか、彼女は知らない。
 この戦いが終わったら、彼はどこへ行くのだろう。

 ――もう一度、あの家で一緒に暮らしたい

 ナスティは、視界の端に映る朱天の白い着物の袖を見るともなく見て思った。
「ナスティには世話になったな」
 朱天はやさしく言った。
 まるでもうここで別れるかのような一言に、ナスティは動揺した。
 何を言えばいいのか、言葉を探す。
 返答のない彼女に少し困った顔をして、朱天は前を向いた。
「妖邪界の月など見てどうしようというのだろうな」
 話題を変えるように可笑しそうに言いながら、彼はその月を見上げた。
「だが妖邪界とて月の美しさは人間界と何も変わらぬ。違うのは妖邪と人の心だけ…」
 ナスティは、月を見つめたまま言葉を続ける朱天がそのまま月の中に消えてしまいそうな不安に駆られて、思わず彼の名を叫んでいた。
 朱天は驚いてナスティを見た。
 しかし、自分でも驚いて困惑しているナスティは、その次の言葉が浮かばなかった。
 もとより、何かを言いたかったわけではない。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまって…」
 ――もう月は見ないで
 ナスティはそれを言えずに立ち上がった。
「純の所へ戻りましょう」
 慌ただしい様子で社に入ろうとするナスティに、朱天は、もう少しここにいると言った。
 またも不安が彼女に押し寄せ、振り向いて朱天を見た。
 彼は立ち上がって星空を仰いでいた。
 細い髪で隠れた背中。
 幾度となく自分達はこの背中に守られてきた。そしてきっと、かつての人生でも大切な人を…。
 ――あなたはいつも誰かを守っている
 だが時として疲れた彼を誰が守るのか。

「!」

 朱天は、突然自分を抱き締めた、か細い力に息を止めた。
 両肩をつかむ白い手は小さく震え、背中には人のぬくもりを感じる。
「朱天…!」
 ナスティはそれだけ言うのがやっとだった。
 何も言えない。言葉にならない。自分の気持ちなのに頭がついていけない。
 ぬぐい難い予感が彼女の心を締めつけた。この腕を放したら終わりのような、否定しようもないほどの悲しい予感。
 言ってどうなる?
 思いながらもナスティは、彼の背中に額を押し当てたまま呟いていた。
「…あなたが…好き…」
 消え入りそうな声だった。
 朱天は激しい動悸を覚えていた。
 静まり返った闇を乱すように強い風が通り過ぎ、二人の髪が絡み合って流れる。
「一緒に…帰りたい…」
 やっとのことで唇から紡がれた願い。
 泣いている。
 朱天の背中で、ナスティは泣いている。
 ――私には迦遊羅の、そして魔将達の救出という大きな使命が残されている
 迦遊羅が間違いなく迦雄須一族の最後の一人だと判れば、ナスティ達にもそれを告げて一刻も早くその使命を果たさなければならない。命の保障などない。
 ナスティに自分の気持ちを明かしたところでどうなろう。却って彼女を不幸にするだけではないのか。
 朱天は葛藤に目を閉じた。
 が、その刹那、抑えきれない想いが彼を動かし、その激しい気持ちとは裏腹に、そっとナスティの腕をほどいた。
 彼女の方へ向き直り、大きく頼もしい両掌で涙の残る頬を包む。ナスティの目を見つめる朱天の目は、いとおしさにあふれていた。
 やさしく前髪をかきあげ、そのまま長い髪を撫でてからしっかりと彼女を抱き締めた。
 やわらかな香りが彼の解き放たれた心に流れ込む。
 朱天は、ようやく自分が本当に求めていた場所にたどり着いた気がした。
 厳しい闘いの中でいつも気丈に振る舞いながらも、隠しきれない不安を抱えて頼りなげに震えるこの小さな肩を、ずっとこんな風に包み込んでやりたかったのだ。

 ナスティは答えを望んでいるわけではなかった。いや、まったく望んでいないと言えば嘘になる。
 しかし、今こうして朱天に抱き締められたことで、すべてが満たされたようだった。
 朱天のぬくもりと共に、少し速い鼓動が伝わってくる。その音を聴いていると、不思議なほど心が落ち着いてゆくのだった。
 ――強くなろう
 この人に現世を生きることが許されているのかは判らない。でも、たとえ悲しい結果があるのだとしても、前を向いて生きていこう。
 そんなナスティの決心は朱天に伝わっただろうか。
 彼は胸の内で、自分の人生に永い未来はないだろうと覚悟していた。
「そなたを忘れぬ…」
 抱き締めたまま独り言のように言った朱天の言葉に、ナスティの胸はまた切なく痛んだ。
 ――そんな悲しいこと言わないで
 自分の予感を打ち消して欲しいのに。強くなろうと決めたのに!
 再び溢れ出した涙に、ナスティは瞳を閉じて俯いた。震える唇を噛み締め、懸命に声を殺していた。次から次へと流れる涙は、向かい合う朱天とナスティのつま先の間に、ポツリポツリと落ちて行く。
「ナスティ」
 やさしく呼ばれて瞳を開けると朱天の白い着物がぼんやりと見えた。その問いかけに答えたかったが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られたくない。
 ナスティは朱天を見上げられずにいた。
 朱天はそっと、ナスティの華奢な顎に手を添えて上を向くように促した。彼女はそれに抗わず、なおも頬に涙が流れつたう顔を朱天へ向けた。
 目はけなげに朱天の目を見ようとしたが、すりガラスの向こうのように滲んで見えない。しゃくりあげてしまう口元を無意識に両手で隠し、自分を見ているであろう朱天の顔も見定めることができずに再び目を閉じた。そしてそのまま感情に身を任せていた。
 こんなにボロボロに泣いている自分が恥ずかしい。朱天は困っているかも知れない。
 頭の片隅でそう思ったが、後は何も考えられない。
 彼女にはもう、気持ちが鎮まるのを待つことしか出来なかった。
 その時、口元を押さえていた両手がやさしい力で取り除かれ、柔らかいぬくもりがナスティの唇をそっとふさいだ。
 瞬間、すべてのものが動きを止めた。

 予期せぬ出来事に、ナスティは呼吸さえ止まりそうだった。
 彼女は身じろぎもせず、朱天の想いを受けとめていた。
 やがて、指の先から氷がとけるように感覚を取り戻した腕は、朱天のかがめた背中へとまわされた。
 やわらかな髪が、ナスティの指にからむ。
 このまま永遠に時が止まればいい。夜明けなど来なくてもいい。
 ナスティはなおも消えない悲しい予感を否定することも出来ずに、ただ夢中で朱天のすべてを感じようとしていた。
 二人は唇を離して見つめ合うと、もう一度短いキスをした。
 ナスティは、広くて大きな彼の胸に頬を押し当て、両手にありったけの想いを込めて朱天を抱き締めた。朱天もまた、ナスティの細い背中を限りない愛しさで包み込み、その首筋に顔をうずめた。
 本当は、ナスティはずっと思い詰めていた。
 自分達は朱天の足手まといになるばかりで、いつか彼の命まで危険に晒すのではないか。
 そんな思いがよぎる度に背中が凍りついた。
 朱天に命の勾玉を預け、人間界へ引き返そうかと悩みながらも、言い出すことが出来ないでいたのだった。
 しかし、一緒にこの妖邪界へ行こうと言ってくれたのは他ならぬ朱天だった。そう決断してくれた彼を信じていればいい。ただ信じていれば。
 運命など誰にもわからない。
 だが悲しみを恐れたら、大切なものさえつかめない。
 お互いの想いを確かめ合えたことの喜びにひたりながら、二人は目に見えない大きな力に立ち向かう勇気を分け合った。
 もうすぐ苦しい戦いは終わるだろう。
 迦遊羅や三魔将が目覚め、遼達と力を合わせれば必ず人間界は救われる!
 そのために朱天もナスティも純も、それぞれの役目を果たさなくてはならない。
 きっとすべてはうまくいく。そう信じよう。
 わずかばかりの夜風が二人の髪をゆらした。
 月明かりに照らされ寄り添う二つの影は、過ぎゆく時間を止めようとしているかのように、いつまでもそこに佇んでいた。





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