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月が七つ、静かに浮かんでいる。
見上げながら、二人はしばらく言葉もないまま社の入り口に並んで座っていた。
「不思議なものだな…」
低い声で呟くように朱天が言った。
「私は本来、ナスティ達と出会うはずもないほどに遠い過去の人間なのに、運命というものによって、共に同じ時間を生き、志を同じくしている」
ナスティは黙って朱天の横顔を見つめていた。月明かりが、その美しい輪郭を白く浮かび上がらせている。
「今ここに生きる私を見て、共に戦っていた者や肉親達は冥途で何と思っているだろうな」
そう言って、どこか自嘲気味にくすりと笑った。
「だがこれが、私にさだめられた人生だったのだ」
朱天は、矢を射る的を見据える時のように強い視線を二人の前に広がる闇の中にまっすぐに投げた。そのまま闇の彼方に何かを見定めるかのように、彼の視線は一点から動かない。
ふたたび黙り込んだ朱天に言葉をかけていいものかどうか、ナスティはためらった。
彼とは今までにも何度かこんな風に話をしたことがあった。
ナスティは、朱天と出会ってからの日々をぼんやりと回想した。
鬼魔将、朱天童子。
四魔将の中で第一の魔将と言われた彼は、本当に恐ろしかった。
その攻撃はどんな時も容赦がなく、真っ向から挑むが、時に卑劣な手段もあった。少年達や幼い純までもがことごとく傷つけられ、ナスティは朱天を憎んだ。
それらがすべて、妖邪に心を冒されてのこととは知る由もない。朱天が四百年もの昔に武士として抱いた大きな夢や、それが叶わぬことと知った時の深い絶望など、どうしてわかろう。
だが彼は迦雄須に出会い、阿羅醐が自分の鎧のみを欲していると知らされ、人の心を思い出したのだった。
妖邪に捕えられたナスティと純を助けに来た朱天を、彼女は信じられない気持ちで見ていた。
朱天は人間界のために闘おうとしたが、敢無く力尽き、阿羅醐の中へと吸収されていった。
遼達も阿羅醐の強大な力に次々と飲み込まれたが、心を合わせ白い鎧となって阿羅醐を倒した。
再び静かな日々が訪れた。
朱天はどうなったのだろう。最後の様子から生きているとも思えなかった。だがもしかしたら、どこかで生きているのかもしれない。
ナスティは心の隅で無意識に彼の消息を気にしていた。
やがて、妖邪が不穏な動きを見せ始め、遼達は阿羅醐が滅んでいないことを知る。
伸、征士、秀が妖邪界に連れ去られ、新たな妖邪、迦遊羅が出現した。彼女はまだほんの少女でありながら、その華奢な体からは想像も出来ないほどの底知れぬ力を見せつけた。
残された遼と当麻が妖邪界へ乗り込む手段を考えている時、朱天がナスティ達の前に現れた。
彼は雲水装束を身につけ、迦雄須の錫杖を手にしていた。
妖邪だった自分が遼達にしたことを思うと、彼らの前に姿を現すのはどんなにか勇気がいったことだろう。
だが彼は、今度こそ自分の罪を償うために、危機に瀕した人間界を救おうとしたのだ。
朱天は、自分が妖邪界で幽閉されている間に帰らぬ人となってしまった迦雄須の遺志を継いで生きていることを告げた。その穏やかな語り口からは、悟りを啓いた者の風格が感じられた。
彼はもう、かつてナスティ達を苦しめた鬼魔将ではなかった。
朱天は錫杖の力で遼達を妖邪界へと導いた。
人間界に残されたナスティと純。二人を守ることは自分の役目だと彼は思った。
朱天の生存が阿羅醐に知れたらしく、螺呪羅が彼らの前に現れた。
裏切り者への憎悪に満ちた矢継ぎ早の攻撃。朱天は錫杖を武器に応戦するが、それは防御の域を出なかった。
「鬼魔将の技、なぜ使わぬ!」
忌々しげに螺呪羅が叫ぶ。
だが、朱天はもう二度と闘わぬことを決意していた。武装も闘いも、すべて捨てたのだ。
「私は、あの白き鎧のゆく末を見たい。ただ、それだけだ」
螺呪羅の姿にかつての自分を重ね、その自分を諭すように、彼は悲痛な表情で鎧の心を語り、そう言って言葉を結んだ。
「もしよければ、私の家にいてもらえないかしら。不安で…」
螺呪羅が去った後、ナスティは少し恥じらいながら朱天に頼んでみた。
「かたじけない」
ナスティが気を遣ってそんな風に言ってくれたことを察し、朱天はかすかな苦笑いでそう応えた。
妖邪の奇襲を恐れつつ、柳生の家で過ごした日々。
心の焦りとは裏腹の、穏やかな、まるで普通の生活を思い出させるような時間もあった。一緒に食事をし、語らい、三人離れずに同じ場所で眠る。
朱天は、現代の生活に戸惑いながらも興味深げだった。ナスティや純にとって当たり前の電化製品なども、彼には驚異である。純はそんな朱天にあれこれと説明をしてやるのが楽しいようだった。
ある日、ナスティが掃除機をかけていると、朱天はその音に驚きながら不思議そうにそれを眺めた。
床をこすっていったい何をしているのかと訊かれて、ナスティはいたずらっぽく笑い、ノズルの先を彼の着物の裾へ向けた。突然何かに吸い寄せられる感覚に、朱天は驚いて短く叫んだ。
ナスティがおかしそうに笑いながらスイッチを切ると、朱天はほっとしてからまじまじとノズルを見た。
これは何かと訊く朱天に、ごみを吸い取って部屋をきれいにするものだとナスティが説明すると、彼は眉間にシワを寄せ、感心した様子でしばらく掃除機を眺めていた。
ナスティ達にとってもまた、朱天の時代の話を聞くのは興味深いことであった。
しかし、いろいろ尋ねることはためらわれた。
彼が昔の話をしたのは一度きりだった。なぜ自分が妖邪界に身を委ねることになってしまったかを語った以外、自分のことは何も話さなかった。
だが、純が無邪気に質問する他愛のないことには、ひとつひとつきちんと答えてくれた。
純も、ナスティに言われるまでもなく、訊いて良いこととそうでないことはわきまえていた。朱天の生きていた時代が自分達の想像も及ばないほど厳しい世界だったことは容易に推測できる。
それでも、朱天はそのような話は一切せず、童の遊びや育った地方に伝わるという舞などの話を聞かせてくれた。
彼はそんな話をしながら、無垢だった子供の頃に、苦しくとも武士としての誇りを忘れずまっすぐに生きていた頃に、もう一度返りたいと願っていたのだろう。
朱天の瞳に常に浮かぶかすかな翳りの色に彼のそんな心を読み、ナスティは為すすべもなく辛くなるのだった。
ナスティは、コンピューターで祖父の残したデータを手繰り、三つの神器のひとつである、命の勾玉の在り処が湖であることを突き止めた。
しかし、それ以上の手がかりが掴めず滅入る彼女に、朱天は、それだけでも大手柄だと言って労ってくれた。そんな一言にも彼の元来の優しさが感じられて、ナスティはなぜか嬉かった。
朱天とナスティは懸命に考えを廻らせ、勾玉の隠された場所を探していった。朱天が何かを言えば、ナスティがそれをヒントに入力する。そしてついにその場所を発見した。
勾玉を求めて美玉湖へ向かう車の中で、朱天は妖邪界に縛りつけられた日々を回顧した。
悪を悪とも思わず生きたこと。迦雄須に救われなければ、そのまま地獄に落ちていたと語る彼の口調は、阿羅醐に付け入られるような心のひずみを生み出してしまった昔の自分を憐れむかのようだった。
ナスティと純が妖邪に心を冒されることを恐れ、朱天は彼らが妖邪界へ行くことを懸念していた。
だが、勾玉を受け継ぐことは二人に運命づけられていたことであり、彼らもまたこの戦いになくてはならない存在なのだと朱天は悟った。純粋で優しい心を持つ二人は、必ず征士達を救う大きな力になる。
朱天は、ナスティと純と共に妖邪界へ行くことを決意したのだった。
しかし、その時はなかなか訪れず、気をもみながら過ごす日々が更に続いた。
夜、朱天とナスティは交代で眠った。
何度彼の眠る顔を眺めただろう。繊細な髪が、彼の寝顔に一層の憂いを添えていた。
彼は今ここにいるはずのない人なのに、妖邪界という時空(とき)を経てこの時代にいるのだと思うと、ナスティもまた不思議な気がした。
時折、聞き取れないくらいの小さな声で誰かの名を呼ぶこともあった。女性の名前、だったような気もする。
武士として生きていた時代には心に決めた人もいたに違いない。
そう思う度に、ナスティは落ち着かない気持ちを持て余した。
現代の洋服は着辛いと、遠慮がちに言う朱天のために買ってきた浴衣と寝間着は、彼によく似合った。和服を着慣れた身のこなしには、生まれた時代の香りが漂っていた。
心が落ち着かず眠れない夜は、二人で起きていることもあった。
純の安眠を妨げぬように、床に置いたライトのほのかな灯りのそばで、何でもないことをくすくすと語り合った。
朱天は酒はあまり呑めぬと言ったが、ナスティが甘口のワインを勧めると、二口三口味わい、ほどよく気分をほぐした。
たまに過ごすどことなく大人びた時間が、ナスティは気に入っていた。
ある日、緊張が極限に達したのか、朱天は高い熱を出した。ろくに食事も出来ず、起き上がるとめまいがした。
医者を呼び処置をしてもらい、夜になって熱は少し下がった。
何度となく深い眠りに落ち、昔の夢を見ているらしいうわごとをナスティは聞いた。
悔い。悲しみ。
そんな、彼の内に秘めて決して自分達には語らないだろう特別な思いが、彼の意志とは無関係に唇からこぼれていた。
熱のせいでというより、その情念ゆえに苦しげに眉を寄せ、掛け布団の上に出された手は力なく握られている。
どれほどの残した思いがあるというのだろう。失ったものはどれくらい大きいのだろう。
それは生まれた時代がそうさせたのか、彼自身の後悔なのか。ナスティにすべてを推し量ることはできなかった。
やがて、握られていた手がわずかに開かれ、何かを求めるように小さく動いた。
ナスティは、ためらいがちにその手を両手で包み込んだ。
こんな風に彼に触れるのは初めてだった。手首に届いた指先に感じ取れる少し速い脈拍。
朱天の熱が、ナスティの手の内に伝わってくる。
――悲しい夢も苦悩も、すべてこの手から取り除いてあげたい
ナスティは、床に膝をついてベッドに寄りかかると朱天の手に頬を寄せ、まるで祈るように目を閉じた。
どれくらいの間そうしていたか。
かすれた声がナスティの名を呼んだ。
顔を上げると、朱天がこちらに首を傾けて薄く微笑んでいた。
「心配をかけて…すまぬ…」
朱天はなおもかすれる声で、ナスティに寝ずの看病への礼を言った。
随分楽になったと言う朱天に、ナスティはほっと安堵の息をついた。そして次の瞬間、朱天の手を握っている自分に気付き、紅くなりながらあわててその手を離した。そんなナスティを見て、朱天はただ微笑んでいた。
――あの時、私はもう彼を…
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