●第一章  ==壱


 一千年もの時の中で繰り返されてきた、果てしない戦いが終わりを迎える予感がしていた。



 遼達が、最後の決戦にするべく阿羅醐打倒へ向かった後、高床式の古びた社の中で、ナスティと純に背を向けて座ったまま、朱天はじっと錫杖を見つめていた。
 妖邪界でありながら、はるか昔の人間界のような、朱天にとっては生まれ育った頃の望郷をいざなう静かな夜が訪れていた。
 ――迦遊羅…

 数時間前の戦いの折、迦遊羅を討とうと振り下ろした錫杖が、彼女の手前で止まった。また、輝煌帝が迦遊羅を倒そうとした時には、錫杖がそれを阻止した。
 朱天はそれらを幾度も思い返し、迦遊羅は迦雄須一族の縁の者なのではないかと思い始めていた。
 もしそうであれば、迦遊羅を目覚めさせるのは自分の使命だと、闘うことを胸の内で決意した彼の心には今、わずかな揺らぎがあった。
 亡き迦雄須に救われ、錫杖を受け継ぐ者となって人間界で遼達五人のトルーパーと再会した。
 彼らがこの妖邪界へ先にやって来た後、ナスティと純を守り、自分達もまた迦雄須の導きによって、こうして妖邪の世界へと入って来た。
 そしてまもなく最後の戦いが始まる。
 遼達も命がけで闘い、ナスティ達を守るのは自分しかいない。
 しかし、おそらく迦遊羅を救うのは困難を極めるだろう。果たして守りきれるのか。

「朱天…」
 後ろから聞こえた不安げな細い声に振り返ると、胸元で指を組んだナスティが佇んでいた。ひとときの安らぎも無駄にしないかのように、純は眠っている。
「ナスティ、眠れぬのか?」
 朱天はナスティの方へ体を向け、彼女を見上げた。その瞳はかすかな月明りを映してゆらめいていた。彼は胸に軽い痛みを覚えた。
 それきり何も言わず固まったように立ち尽くすナスティに何かを感じ取り、朱天は彼女と向き合う形で立ち上がった。二、三歩離れた距離にいるその朱天の目を彼女は見ない。やや前方の床に落としていた視線はゆっくりと、朱天の後方にある錫杖へと移って行った。
 朱天はちらりとその視線を追い、再びナスティを見た。その時彼女は彼の合わせ襟のあたりを見つめていたが、それはどこか遠い瞳だった。
 やがて気付いたように朱天の目を見上げ、一息おいてやさしく笑った。つられて朱天も微笑んだ。
「ありがとう」
 ナスティは、今度は小声ながらも強い調子で言った。唐突な言葉に、朱天はすぐに返事ができなかった。が、その意味を察すると、静かに微笑んで頷いた。
「ありがとう。ずっと守ってきてくれたこと…でも…」
 少しかたい表情で継いだ言葉を言い淀むナスティに、朱天はもう一度微笑んで答えた。
「心配はいらぬ。君達のことはこれからも守り続ける」
 それはナスティの望んだ言葉。朱天の口から聞くことで計り知れないほどの不安もかき消される。
 だがここまで来て、現実にはそれがどれだけ難しいことか、わからない筈はない。
 虚しい表情を隠しきれないナスティは、それを悟られないように無意識に俯いた。ずっと組んだままの手はわずかに震えている。
 何か言い出せないでいることがわかりながらも、朱天は訊かなかった。
「少しでも眠った方がいい」
 そう言いながら自然に右手がナスティの左肩へ触れた。その肩がほんの小さくぴくりと動き、朱天が反射的に彼女の顔を見るのとほぼ同時に、ナスティはどこか空々しい素振りで明るく言った。
「おやすみなさい」




 なにひとつ音のない、静かすぎる夜が続いていた。聞こえるのはただ、純の小さな寝息だけ。ナスティも純の横にぴたりと寄り添って眠っている。
 ――このような時がずっと続けばよいのだが…
 朱天は、そんな弱気なことを考える自分に不甲斐無さを感じた。
 夢ではなく、これは現実。阿羅醐を倒さぬ限り、誰のもとにも安らぎなど来ない。
 朱天はそっと立ち上がり、眠る二人の方へ足を忍ばせながら近づいた。
 ナスティは純を抱くようにして眠っている。その姿に遠い記憶の母を想い、朱天の顔はついほころんだ。こちらに向いている純の寝顔が見える。
 人が眠っている時の表情というものは、こんなに無垢なものなのだ。おそらく三魔将であっても…。
 朱天は、背を向ける形で寝ているナスティの傍らに膝をついて座り、首を伸ばして寝顔をのぞきこんだ。
 彼女もまた、神秘的な表情を浮かべて眠りに落ちている。長いまつげが少し動いているようにも見える。
 こんなに儚げな娘なのに、皆と一緒に闘っている時のあの強さはどこから来るのだろうか。
 ――私がこの時代に生まれ、このような形でなく、そなたと出会えていたら…
 そう思った瞬間、朱天の胸がまた痛んだ。
 どうしたのか自分は。こんな、考えてみても仕方のないことをなぜ今思う?
 その不本意な気持ちを振り払おうとすると、朱天は妙な焦燥感に襲われた。
 たしかに、今自分に起こっていることは夢ではない。しかしまた違う見方をすれば、今の自分にかかわることはすべて「夢」なのだ。四百年前、本来の人生があったはずなのだから。
 朱天は黒い木綿衣を脱いで二人の上にゆっくりと掛けた。そしてナスティの頬に数本落ちている明るい栗色の髪を指でそっとはらいながら、もう一度彼女の寝顔を見つめた。ほんのわずかなその感触に、彼女は唇を動かして意識は現実に戻りかけたかに見え、朱天は反射的に息を止めた。が、目覚める気配はない。緊張を解いてまたしばらくナスティを見ていた。

 ――愛しい…

そう心の中で声にしたその瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出した。どうしようもなく抑え難い。
 自分は彼女を…、ナスティを愛している!
 ――そうだ。もう随分前から…
 そう思った時、朱天は、はっとした。
 自分にナスティを愛する資格などあるのか。
 彼女と出会った頃の自分は、宿敵であったトルーパー達のみならず、ナスティや純にまでも手酷い攻撃をしていた。
 その後迦雄須に救われ、人間としてやり直すことを決意したものの、かつての愚行を忘れてくれようはずもないと後悔に苛まれる彼を仲間だと言い、二人は許してくれた。
 ナスティは、五人の少年達や純のことを本当の弟のように大切に思っている。戦いに行く彼らを心底心配し、無事で帰って来てくれることを祈った。彼らと同じように闘うことは無理でも、気持ちはいつも一緒に闘っている。
 そんな彼女に、自分はいつの間にか特別な気持ちを懐いていた。
 朱天は、考えているとどんどん大きくなっていきそうな気持ちに狼狽した。
 ――月でも眺めるか
 苦し紛れにそう思い、静かにその場を離れようとゆっくりと立ちかけた時、袖を引くわずかな力にやや驚いて振り向いた。
 眠っていたはずのナスティが起き上がり、ためらいがちに朱天を見ていた。それはすがるような瞳だった。
 朱天は言葉が出てこなかった。ありえないが、今さっきまでの自分の心を読まれたのではないかという焦りが彼を固まらせた。
「すまぬ。起こしてしまったか?」
 朱天はナスティの方に向き直り、苦笑いをしながら言った。
あなたのせいじゃないのよ、と言うように少しおどけた風な表情で、彼女は首を横に振った。
「やっぱり眠れなくて…。私が起きているから朱天が眠って」
 小声でそう言いながら、ナスティは自分達の上に掛けてある朱天の着物を純に掛け直した。心の中で朱天のそんな心遣いに感謝し、嬉しく思いながら、安らぎに似た心地良い気持ちに包まれた。
「私も眠れまい」
 朱天は静かに笑って言ってから、やさしい目をして言葉を継いだ。
「一緒に月を見ぬか?」





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