|
その人は、ベッドで上半身を起こし、朱天を迎えた。病床の身はやつれを感じさせるが、穏やかな気は損なわれることなく、訪問者に笑顔を向けた。
「初めまして、朱天くん。ラエルの父、柳生甲一郎だ」
彼は朱天をあきひろと呼び、ナスティのことをラエル、と呼んだ。アン・ラファエル・ナスティ=柳生。それが彼女の正式名なのだと先日知った。彼女の母の実家が古い貴族の血を引く実業家なのだという事も。
朱天は勧められるままベッドサイドの椅子に腰をおろした。不覚にも緊張している。それを感じ取ったのか、甲一郎は笑って言った。
「そんなに硬くならないでくれないか。楽にしてほしい」
そう言われてみても自分の意思では難しい。とりあえず息を吐き肩の力を抜いた。その様子を見てますます甲一郎は目を細める。
「お加減はいかがですか」
朱天は初めて甲一郎に声をかけた。この家を訪れて一週間。体調を崩していた甲一郎はやっと朱天と面会ができるまで快方に向かっていた。
「こちらから呼んでおいて心配をかけてしまったね。もう大丈夫。熱も下がり、医者からも安定したと告げられたからね」
笑顔で答えるその顔が、一転厳しい顔になる。彼はつかの間くちごもったが、朱天に尋ねた。
「一週間前、君とラエルがフランスに着いた夜、何があった?」
問われて、朱天は返答に困った。どう言えばよいのだろう。何よりナスティ本人からは口止めされているのだ。病人に心配をかけたくない、と。
黙りこんだ彼の様子に甲一郎は確信を持った。
「ラエルは本宅で襲われたのだろう?相手はギョームだね」
正確に言い当てられてごまかせない。それよりもその時のことを思い出してこみ上げる怒りを押さえることはできなかった。
ナスティは両親の見舞いのため、朱天とともに故郷フランスへと向かった。一通の便りが彼女を動かしたのだ。病床の父からの手紙には、先ごろ見つかった血縁に逢いたいとあった。それは朱天の作られた戸籍のことなのだが、父親は知らない。こればかりはどうすることもできず、誘われるまま渡仏したのだった。直接静養先へと向かうはずが、甲一郎の体調悪化でリヨンの本宅へと案内された。
そこは広大な敷地を持つ大きな屋敷。日本での生活からでも、彼女のお嬢様育ちはわかってはいたが、ここまでとは思わなかった。何より、そんなそぶりは一切見せることはなかったのだ。玄関では使用人達が並んで帰宅の挨拶をしてくる。それを返しては奥に進む彼女が、不意に足を止めた。一瞬身をすくませる様子に、朱天は何事かと周囲に気をくばる。彼女の正面に年配の夫婦が立っていた。金髪碧眼。若い頃はさぞ美しい一対であったに違いない。しかしその二人の視線は冷たくナスティを見据えている。
「やっと戻ったか。すぐにでも婚約発表をしたいところだが、今夜は外出せねばならぬ。おまえの父も昔はよい働き手ではあったが今は頭の痛い問題だ。体調管理もできないとは。それに母親も役立たず。我が娘ながら情けないことだ」
黙ったままのナスティに冷たい言葉が浴びせかけられる。婦人の声も冷ややかなものだった。
「日本にいる間に挨拶もできなくなったのですか?あちらでどのような生活をしてきたのか知れること」
「ただいま戻りました、お祖父さま、お祖母さま」
フレアスカートのすそをつまみ、腰をかがめ深く頭を下げる。それは祖父母と孫の挨拶とは到底思えるものではなかった。彼女の肩がわずかに震えている。その横を二人は通りすぎ、朱天には目もくれなかった。フランス語は皆目わからないが、今のやり取りに余りよい印象は抱けない。ナスティは所在無くうろたえる執事と言葉を交わし、何事もなかったかのように足を進めた。周りを見ると東洋人が珍しいのか遠巻きに視線を感じた。
「行きましょう、朱天」
彼女はいつもの笑顔で朱天を見ていた。先ほどの姿が嘘のような笑顔。部屋へと向かいながら彼は先ほどの視線の疑問を彼女にしてみた。彼女は目を丸くして、くすくすと笑って答えてくれた。
「あなたが着物を着ているからよ。日本の伝統衣装とはいえ目にするのは女性用が多いわ。あなたみたいに男性で着物を着る人はめったにいないもの」
飛行機でも和服だったものね、と続けられた。
「洋装は慣れていないから窮屈なのだ。こちらのほうがどれほど楽か」
彼女にだけ聞こえるように小声でつぶやく。笑顔で応える彼女はいつもの彼女だった。
案内された部屋に荷物を置き、バルコニーへ向かう窓から外を見る。二階からは中庭が良く見え、手入れのよさがうかがえた。正面に彼女を見つけた。同じようにバルコニーに出た彼女と目が合い、手を上げた。中庭を挟んだ向かい側が彼女の部屋だった。
その日、朱天はなかなか寝つけなかった。機内食から三日間分の洋食で胃が受け付けず胸焼けがする。それにもましてナスティの祖父母のことを考えてしまう。孫である彼女があのように緊張しなければならないとは。彼女が傷ついていることはわかった。
どうしても寝つけなくて、窓へと向かう。今夜は月明かりがまぶしい。向かいの部屋にナスティがいると思うとなぜか胸が疼いた。迦遊羅の言葉が頭の片隅を掠める。
危険、監視。彼女のどこにそんな力があるというのだろう。普通の女性だ。たおやかなその姿と、笑顔で、いつも家の中を居心地よくしてくれる。彼女を護るのは自分でありたい。日本の家では手を伸ばせば届くところにいるのに、この家は勝手が違い広すぎて見失ってしまうのではないかと不安がよぎる。自分は無力なのだと思い知らされるようだった。
月明かりの中、彼女の部屋のバルコニーで人影が動いた。鍵をかけているはずなのに易々と部屋へ入っていく。朱天は窓を開けるのももどかしく、バルコニーを飛び降りた。
中庭を駆け抜け、木の枝に駆け登って彼女の部屋へと降り立つ。武人である彼にとっては造作もない。部屋に入ったとき、ナスティは男の喉元に抜き身の短刀を突きつけていた。
「ナスティ!」
男の意図に気づき、頭に血が上った。襟首をつかみ殴りつける。みぞおちに一発入れると、声もなく崩れ落ちた。とりあえず明かりをつけると、彼女は短刀を握り締めたまま震えていた。手を伸ばしかけて止める。怖がらせるだけではないかと思ったのだ。
「朱天?」
小さな声が名前を呼ぶ。彼は手を伸ばして今だ持ったままの短刀をゆっくりとはずしてやった。思ったとおり指が固まって自分では開けられなかった。朱天はナスティの手をつかんだまま思う。無骨な自分の手とは違い、白く細い手。この手であのような狼藉者に立ち向かっていたのか。
気がついたとき、朱天は震えたままの彼女を抱きしめていた。いけないと頭は警告するが、身体が止まらない。彼女の存在を確かめるように腕に掻き抱いた。彼女は一瞬もがくように身じろいだが、やがておとなしくなる。朱天は抱きしめたまま、動かなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。朱天はやっと腕を解いて彼女を解放する。
「すまない、これではあの男と同じだ」
そのまま彼女から目をそらした。すがるような視線に、理性がぐらつく。彼女は自分がどんな顔をしているのかわかっていないのだ。顔が見られず窓に向かい鍵を確認する。それは不自然に壊されていた。そのまま床に倒れる男を見やる。
「祖母の実家の跡取りよ。またいとこのギョーム。祖父母が決めた婚約者。短刀を枕の下に入れておいて正解だったわ」
震えてはいるが、力のこもった声だった。落ち着きを取り戻したようで内心安堵する。それにしてもこの騒ぎに誰も出てこないことに不自然さをぬぐえない。
「当主の命令よ。わかっているの。気をつけなければと思っていたのに」
彼女は小さくありがとう、と礼を言った。
夜の明けぬ前に、彼らは本宅を出て、両親のいるアルルの別宅へと向かったのだった。
|