少 し の 工 夫

 昨今の競争激化によって、私達はまさにお客様から選択される立場の真っ只中にあると言っても過言ではないでしょう。街中の店や郊外の大型店には物が溢れ、それこそどこも同じ様な品揃え、価格、サービスである今、お客様に自分達の店を選んでいただくにはどうしたらいいでしょうか?私はちょっとした工夫にポイントがあると思います。今、新しい業態と言われているヤマト運輸の宅急便にしても、セキュリティのセコムにしてもまったくのゼロからそういう業態を創り上げたわけではなく、既存の業態にちょっとした工夫をしたのです。昔なら、遠くに荷物を送ろうとする場合はきちんと梱包し、荷札を付けてわざわざ郵便局まで持っていき、荷物が届いた場合はこちらから郵便局や、国鉄の駅まで取りに行かなければなりませんでした。警察にしても何か事件が起これば動いてくれますが、何も起こらないのにガードや警備などはVIPならまだしも、一般人には到底無理な話です。そこで既存の仕組みにちょっとした工夫を取り入れます。例えば荷物を発送元に取りに行く、発送先の玄関まで届ける、傷みやすい生鮮品は冷蔵冷凍状態で送る、指定した時間に荷物を届ける等を組み入れていけば、それが新しいものとして世の中に受け入れられるのです。新しいことをするということは、全くのゼロから物事を始めることではありません。新しいという字はその形のとおり立っている木に斤(おの)を入れるという意味です。今あるものの形を変えれば、それは新しい物が出来るという事です。自分が物を買う立場や、サービスを受ける立場になって「こうしてもらえたらいい」と思うことがあった時、それを自分なりの工夫で実現できれば、たとえ小さな工夫であったとしても、お客様にとっては大変大きな喜びになると思うのです。

もらう喜び 与える喜び

 最近耳にした話と読んだ本の内容が偶然にも(?)一致し、また世の中の真実を衝いていると感じたので、今回はその話を書こうと思います。普通のメディアが流す「天気予報」ではとうてい満たせない、顧客その人の特殊ニーズに合わせた気象情報を提供し、今や世界一となったウェザーニュースの石橋博良社長の話です。母子家庭に育った石橋社長は、子供の頃から自立心が旺盛だったそうです。どうしても伝書鳩が欲しかった彼は母親にせがみますが、母親は買ってくれません。ならば自分で稼げばいいと考え、小学校6年生の石橋少年は早朝の新聞配達を始めます。もちろん元旦だって休めません。その日も白い息を弾ませていつもの家々を巡った彼はある家の郵便受けに思いがけないものを見つけ、足を止めます。それは「新聞配達さんへ」と書かれたお年玉袋であり、中には100円玉が1個入っていたそうです。人の温かい思いやりが石橋少年を励ましたのはもちろんですが、彼の人生にとってより重要だったのは、それを知った母親の一言です。「お金をもらったおまえより、おまえにお金をあげた人のほうが喜びが大きいはずよ。もらう人でなく、あげる人になりなさい。」40年前のその日を振り返りながら石橋社長は言いました。「金儲けだけが目的だったなら、会社など起こしてはいないでしょう。与えることで喜べるなら、相手が多ければ多いほど喜びも大きくなる。そんな思いが会社を大きくする力になっていると思います。」
 また、最近ベストセラーになったので読んだ人もいるかもしれませんが、ロバート・キヨサキ氏の「金持ち父さん 貧乏父さん」の中にこんな1節がありました。その部分を抜粋します。
<この本で読んだ他のことはみんな忘れたとしても、絶対に忘れないでほしいことが一つある。それは、何かが足りないとか何かが必要だと感じた時には、まず、それを人に与えることだ。そうすればあとになって、二倍、三倍にもなって返ってくる。このことはお金、ほほえみ、愛情、友情などいろいろなことにあてはまる。「足りないものを与える」というのは、たいていの人は一番やりたがらない。だが、私の経験から言わせてもらうと、このやり方はいつも効果がある。(中略)何かを売りたいと思ったら、誰かが何かを売るのを手伝ってあげる。そうすると私のも売れる。契約をとりたいと思ったら、誰かが契約をとるのを手伝う。そうするとまるで魔法のように、私のところにも契約が舞い込んでくるのだ。何年か前に聞いた言葉―「神は受け取る必要はないが、人間は与える必要がある」には真実が含まれていると思う。(中略)多くの場合、自分が何かを欲しいと考え、それを他人にあげるにはどうしたらいいか考えるだけでも、見返りがもたらされる。出会った人達が私にほほえみかけてこないと感じた時は、いつも私は自分からほほえみかけ「ハロー」と声をかける。するとまた魔法のように、ほほえみを浮かべた人が私のまわりに突然増える。世界はあなたを映す鏡にすぎないというのは本当だ。(中略)確かに、何かを与えたのに何も戻ってこなかった、あるいは戻ってきたものが自分の欲しいものとは違ったということは何度かあった。だが、そのような場合はあとでよく考えてみると、最初から何かが欲しくて、それが目的で与えていることが多かった。つまり、純粋に「与えるために与える」のではなく見返りを期待して与えるという下心があったのだ。>
どうですか?あなたは好きな人から贈物をもらった時と好きな人に贈物をあげて喜ばれた時とどちらが嬉しいですか?お客様に品物を売って儲かった時と、お客様から感謝された時とどちらが嬉しいですか?
―世の中で一番尊いことは人のために奉仕して決して恩にきせないことである― 福沢 諭吉

「責任」の意味

 先日、大阪の小学校で児童や教師が多数殺傷されるという大変痛ましい事件がありました。犯人はその場で取り押さえられ、逮捕されましたが、それ以来議論の的になっているのが「犯人に責任能力があるのか」ということです。また、頻発する少年犯罪でも、犯人が未成年ということだけで通常の起訴から裁判で裁かれるという流れではなく、少年院や家庭裁判所へ送られ、被害者は裁判の経過さえ知らせてもらえないという、まったくもって理解し難い仕組になっています。これも少年であるがゆえ、責任という意味において大人とは違うという考えに基づいているのでしょう。これらはいったいどういうことなのでしょう。被害者にしてみれば犯罪の被害者になったという事実はなんら変わりがないにもかかわらず、加害者が責任をとる能力がないというだけで「やられ損」というのはとてもじゃないが納得できないと思います。今回は日本における「責任」という観念について考えてみたいと思います。
 私たちは生きていく中で、決して一人では生きていくことができません。おぎゃーと生まれた瞬間でも、人は10万人の世話になっているという話を聞いたことがあります。自分を生んでくれた母親、医者、産湯が使えるのは水道を引いた人、肌着が着れるのは繊維を作った人、明るい光の下で生まれれたのは発電所の人、さらに発電の元になった石油を掘った人……。そう考えていくと、いったいどれほどの人のお世話になっているのでしょうか。だからこそ、一人一人が自分自身に対して責任を持ち、自分以外の人に対しても責任をもたなければならないのではないか、
最近そんな気がしてなりません。TVのニュースや新聞を観れば、幼い我子の虐待や、いじめ等のニュースが溢れています。人として、まして親という立場であれば最低限の責任があるはずです。自分が今、ここに存在しているのは遥か昔からそれこそ数え切れない人々の命の上に存在しているのであって、これから先の未来にも自分の子孫が存在していくはずです。永い永い時の流れの一部を担った責任を自覚することは、他の生き物とは違う人間としての能力だと考えるのですが…。そう考えれば、日々の生活や自分の仕事に対する姿勢も変わってくるはずです。
 「責任」とは、その意味自体は「結果において負うべきもの」です。日本の現状を考えると、今まであまりにも責任というものを曖昧にしてきた結果、「今さえよければいい」という考えのつけが廻ってきている気がしてなりません。会社においても収益を上げ続け、お客様に商品を提供し続け、会社として存在し続けることが責任です。そのために、今、何をしなければならないか。私達一人一人が真剣に考える時です。

常識と良識

 先日、『中国の瀋陽にある日本の総領事館に北朝鮮の一家五人が亡命を求め、中国当局に拘束される』という事件があり、TV・新聞等は連日この事件に関するニュースで溢れました。様々な評論家や政治家達が、この事件に対するコメント・意見を述べる中で、内容の多くは「総領事館の中は治外法権でその敷地は日本国である。そこへ中国の武装警官が無断で入ったのはけしからん」という意味のことであったように思います。また、国会での有事法審議の模様も連日報道されていましたが、この2つのニュースの中で共通して言われていたことの一つに「日本の常識は世界の非常識」ということがあったのではないかと思います。最近この「常識」について色々考えてみましたので、今回はこれについて書こうと思います。
 私たちの周りには様々な「常識」と呼ばれているものがあります。皆さんも小さい頃から「〜してはいけませんよ。常識ですよ。」とか、「そんなの常識だよ」ということはたくさん聞いてきたと思います。これは皆さんにいつも言ってきたことですからよく知っていることだと思いますが、私が初めて魚屋になって仰天したことが「売れ残った商品は巻きなおし(そのとき初めて'リパック'という言葉を知りました)して、巻きなおしした印を判らないようにつける」「単品で売れ残った刺身は盛り合わせに入れる」等々…。それらのことが常識としてまかり通っていることにびっくりしたことが未だに強烈なイメージとして残っています。今では笑い話になっていますが(まさか今でもそんなことをしている店は丸和の中にはないと信じています)、この話で怖いのは、「自分の周りで常識であると言われていることは、当たり前のことである」という意識を持ってしまう事です。おかしな事、悪い事であるという意識がなくなり、何の疑いも持たなくなることです。当然、ロスを出さないためにそのようなことを考え付いた(?)のだとは思いますが、我々の一番怖いロスは商品が売れ残り廃棄したロスではなく、「お客様を失うロス」です。私たちはたくさんある中から丸和の店を選び、毎日毎日店に足を運んでくださるお客様を相手にしているのですから、自分達の「常識」と言われていることを尺度に事を運ぶことは危険極まりありません。「常識より良識」、自分がしている事は、本当に買う立場になればよい事なのか?お客様に喜んでもらえる事なのか?自分の「良識」に照らし合わせて欲しいのです。この4月から産地表示、添加物表示、アレルゲン表示等、商品の表示に関する法律がいろいろ施行されました。魚に関していえば産地である富山県では、やはり地物信仰が強く、きちんと正しい産地等を表示することが、一時的であれ商品の売上を落としたことがあったかもしれません。また、県内の同業者・競合店もきちんと対応しているところ、逆にそうでないところが未だにみられるのも事実です。しかし、丸和は「良識」を物差しにする会社でありたいと思っています。良識が絶対基準であれば恐れる物はありません。「常識」は世の中の移り変わり、時代の変化とともに変わりますが、「良識」は変わることはありません。一時の繁栄はいらない、ずっと続く繁栄を手に入れたいのです。ちょっと大げさかもしれませんが「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)老子第七十三章「天網恢恢、疎而不失」。天の網は広々として目が粗いようだが、決して悪を逃さない。悪い事をすれば必ず天罰が下るのさ、というありがたいお教え。」ということでしょうか。
 始めにも書きましたが、世界の常識というものは確かにあると思います。ただ、世界の常識であるからといって全てが正しいことなのか?というとそうではないでしょう。当然、業界の常識が正しいかというと、むしろその反対のことの方が多い気がします。小さなこと一つ一つからしか出来ないかもしれませんが、丸和は良識ではどこにも負けない、一番の会社・店でありたいと思っています。