富山県青年議会教育警務常任委員会中間報告
(青年議会における一報告)

はじめに


 組織議会当日から,約9週間,2ヵ月にわたり調査し,かつ,議論したことを,ここに中間報告としてまとめます。
 
 理想と現実
 まず,私たちが考え,みんなが納得する理想の社会を描いてみる必要があります。できるできないや,こうすれば可能とかの条件を付けずに、鮮やかに描ききります。
 次に,私たちの今,現在がどのようになっているかを,具体的に,かつ,精密に,資料と証言に基づいて現実の姿を調べあげます。
 この両者,理想と現実の差が,私たちに与えられた課題であり,解決すべき責務です。
 理想をどのように現実化させていくか。現実に近づけていくか。
あるいは,いっかの時点で現実化させるかが,青年団運動の中心課題です。そのうち,県の認識を問うことと,解決の実現を迫ることの方策のひとつとして,青年議会を利用できます。
 この中間報告の大きな組み立ては,私たちの理想とする教育,私たちの事実認識と私たちの進むべき方向.私たちの理想とする教育の周辺の環境,私たちの進むべき方向に向かうべく実践する方法,私たちが富山県に求めることの五部にわかれます。

 教育とは何か
 教育は人類の歴史とともにはじまりました。
 極少人数の集団ができた時点,さらにいえば,二人の人間が出会った時点で.どのようにコミュニュケーションをとろうかと考え,行動するとき,思考と学習がはじまりました。
 例えば,道一つ,建物一つ立てるにしても,どのようにすれば安全か,機能的か,あるいは,全体が意思を統一して作業を行えるのかを調べ,検討をおこないます。その上で施工し,あるいは施工しながら調査していきました。それらの実績を積み重ね,長老がその方法を教え,先人の知恵に学びました。
 地域のなかでどのように生きていくべきかを学ぶことが教育のはじまりです。
 このような,地域のなかで行われた教育を,もっと能率よく,また,単なる実践の積み重ねではなく,体系だった理論に基づき教えていこうと,組織化されて誕生した機関が学校です。さらに,理論の体系だった一部をより専門的に調査,研究する学校もそのなかからあらわれてきました。
 また,子女に,地域の構成員として,その秘めた能力を地域のために発揮させる最低限の教育を,同じく,能率的に,理論体系だって教えようという学校もでてきました。
 現在,前二者の学校は,後者に前者の基礎学養成の位置づけも加味したうえで,両者の学校を一本に関連付け,後者を初等,中等前期(義務)教育とし,前者を中等後期,高等(高等学校,大学など)教育として,地域のなかで行われた教育から独立させ,学校教育としました。学校教育は本来の教育から派生したものであり,あくま でも本来の教育の一都ですが,能率的に,理論体系だって教える優位牲ゆえに,本来の教育から独立しておこなわれています。
 しかし,学校教育も地域のなかで行われた教育の一部ですから,学校教育に支障のない限り,学校教育の人的,物的資源を本来の教育に使用させなければなりません。具体的には,社会人向けの聴講講座の開設,体育館,運動場の休日や夜間の開放をおこなってきています。
 また,最近,職能的技能を身に付けたり,高めたり,あるいは,趣味を楽しんだりするための講座が増えてきました。職業学校内でその生徒に対して行われる部分を除いて.これらは,学校教育の枠外にあります。しかし,学校教育の成立段階においておこなわれたごとく,専門分野を能率よく,体系的に習得するための教育と言え,本来の教育から派生し,ひとつの教育分野を形成しつつあるといえます。
 これらの,教育の歴史的変遷と現状を見たとき,教育の特欲を三点あげることができます。
 第一は,さまざまな状況において.その状況に柔軟な対応をもって対応していく能力を身に付けることです。
 第二は,社会の一員としてに生きていくための基礎知識,技能及び知恵を身に付けることです。
 第三は,社会のなかにおいて,個人の能力を遺憾なく発揮し,伸ばすことです。
 わたしたちは,三つの特徴を支え,基礎付け,かつ,三つの特徴から導き出される教育の目的を,地域社会をよりよいものに進めるい手を作りあげることとしました。この目的のために,すべての教育はおこなわれるべきです。
 この目的によって,政治教育の推進をおこなうことと,教育制度そのものを守ることも必要となってきます。なぜなら,地域変革はそのものずばり,政治であり,政治意識を基礎付ける基礎教育も教育として存在してくるからです。
 そして,私たちは本来の教育,地域のなかで行われた教育を社会教育と呼びます。ただし,一般には,学校教育の特殊性を考慮して,社会教育を学校教育と別々の分野の教育としてとらえ,学校教育を除いた教育を社会教育といっています。

 教育の現状
 しかし,本来の教育は社会教育であるとの視点を忘れると,現実にある教育各分野の問題の解決には役立ちません。現実の社会教育と学校教育の役割分担の間違いが,教育各分野の問題を複雑化させています。
 特に,学校教育の面からのみの教育制度の矯正をとなえたり,あたかも児童,生徒は学校教育のなかにしか存在しないととらえたり,学校教育の拡張で地域社会を教育に巻き込もうとしたりすることは,すペて,前提と派生の関係を逆にしてとらえ,問題解決に行き詰まりを見せています。
 今期の常任委員会は,いじめ,私立学校の評価,国際教育,ボランティア,県立大学付属図書館,県立図書館及び市町村立図書館の資料を得,調査しました。これらを教育の目的にあてはめながら議論をすすめ.私たちが,理想に進むべき道筋を明らかにしていきます。

 国際理解教育の推進
 富山県の国際活動は,アメリカ,ヨーロッパ及びロシアの文化交流が中心であって,中華人民共和国との交流はあるものの,アジアやアフリカの社会現状を理解したうえでのアジア,アフリカ地域に向けた活動を比較した場合,少ないといえます。
 まず,富山県企画部計画課発行の新富山県民総合計画後期事業計画33ページにある国際理解コーナーを例にとり,文化交流の話を紹介します。新富山県民総合計画後期事業計画における国際理解コーナーの位置付けですが,大項目明日を拓く人づくり,中項目生涯学習の推進,小項目学校教育の充実のうち,計画項目義務教育の充実,主な事業内容教育内容の充実,国際理解教育の推進,国際理解コーナーの設置のなかにあります。
 現在,富山県内には,富山市立西田地方小学枚,立山町立立山中央小学校が,空き教室を利用して国際理解コーナーを置いています。富山市立西田地方小学校の場合,児童数減少にともなって使用されなくなった教室のひとつを二階に配置して,そこを国際理解コーナーにしています。この学校の場合,中華人民共和国遼寧省の実験小学 との交流の模様を写した写真や,実験小学の子どもたちが書いた書画,その子らが使用しているであろう書籍などが,ボード.パネル,に貼って,あるいは,ガラスケースに入れて展示されていました。教室の後ろにあたる壁には,世界地図内に主要都市名を書き表し,地図の周りに主要国の国旗を描いていました。
 また,その学枚の子どもたちは地球なかよし委員会という独自組織をもって,中華人民共和国に限らず,世界のさまざまなことを調べています。その資料もありました。
 この学校と実験小学とは,一定の人に限られたり,単発的なものの組合せだったりとの面は否定できませんが,代表の相互派遣,手紙の交換などの方法をもって10年以上の長い間,交流を続けています。長い間だけに,子どもたちが国際理解コーナーによってどのように変化したかは,わかりにくいところですが,すくなくとも地球なかよし委員会に見られるような独自の動きは,積極的に評価すべき点であると思われます。
 授業参観の折りには,国際理解コーナーを地域の人々にも,開放しています。
 この国際理解コーナー設置による教職員の負担については,何年かに一度ある資料交換や展示教室替えで多少の労働強化も考えられますが,はぼ常設展示物であるので,それ以外の負担は感じられていないようです。
 なお,この学校の職員によれば,実験小学とは,付属小学校の意味でなかろうかとのことでした。
 ところで,日本国やアメリカ合衆国の国際的経済力は他の国を抜いています。一方で,アジア,アフリカ地域の経済的困窮,貧困,それとともに栄養失調,餓死,環境破壊,政治不安,内乱内紛,治安悪化などが続いています。
 経済的恩恵にあずかる日本が,このような団々や地域に援助,支援の手を差し伸べるのもしかるべきであるとの考えから,国際理解教育,開発教育が提唱されてきています。地球生活の実態をもっと身近に覚け入れられるような国際的視野を入れた教育をおこない,国際感覚を身に付けた児童,生徒を育成していくこととなっています。
 市民の自発的意思に基づき活動する非政府組繊,いわゆるエヌジィオウ(NGO)の多く団体が,世界における社会的弱者の立場にたって,援助,支援活動をおこなっています。戦争,武力を国家に当然認められて譲れない固有の権利とする主権国家の世界秩序内では,市民,弱者の立場に立った社会建築には限度があります。地球環境国際会議を,前後して,日本国内でも注目されはじめたエヌジィオウは,海外のエヌジィオウの活動例を紹介しながら,日本人の国際的視野を,アジア,アフリカ,南アメリカ地域を含めたものに,拡大させています。
 当常任委員会では.統一見解にまとまらなかったので,少数派意見を併記したうえで,多数派意見をもって中間報告とします。
 多数派意見は,学校教育のなかにおいて,団際教育を推進する立場です。ただし,どのような方法で学校教育によって行うかで意見はわかれました。
 ひとつは,国際的視野を入れた授業を,学校教育内の各種教科で,おこなうことに反対の立場です。学校教育の三者の,教科,特別活動,道徳のうち特別活動をもっておこなうべきであって,教科でおこなうべきではないという考えです。教科を学びたいという生徒,児童の気持ちを,全く別の意味をなす国際理解教育でその気持ちを配慮しない教科にすることに難色を示すものです。
 また,教科のなかで行えば,教える者も教えられる者も国際理解教育の位置付けがあいまいになってしまいます。教科で習ったことを基堪にして,別の分野で取り上げるべきです。
 教科で教えるのであれば,新たに,国際教育の科目を役直しておこなうべきです。昨今,エルエル(LL)教室やインターネットを利用した国際的視野に立った試みがいくつかの学校で,有志の教師によって,おこなわれています。
 もうひとつは,学絞教育内の各種教科で,国際的視野を入れた授業をおこなうことに賛成し,堆進する立場です。異体的な方法として,学枚教育の枠内である数学,理科,国語,技術家庭科などの各種教科日のすべてにおいて,世界の今日的課題を少しずつ取り上げながら,日常生活と教科を結びつけて,実生活に見合った深みのある教育をおこないます。
 教育の目的が地域社会のなかで生きていくことにあるのならば,当然に,国際社会で仲よく生きていこうとすることも教育の求めるところです。教育は,理念でのみ存在しているのではなく,具現化してはじめて目的を達します。具現化は教科においてもっとも現れます。教科において具体的に現れていなければ,教育の目的が達成されません。だからこそ,教科の中に,国際教育の視点を盛り込まなければなりません。
 既に,教科においてどのように開発教育を教えていくべきであるかのマニュアルもできており,有志の教師によって実践されています。既存の授業に開発教育の視点をわずかに加味するだけのものですから,だれでも新たに国際教育をおこなうことができます。
 多数派意見は,どちらの理由をとるにしても,今まで個人の力量に依存していた国際教育を.個人的力量に左右されることのないように,より多くの人々に国際教育を受けてもらえる制度の確立を求めています。
 少数派意見は,学枚教育の枠内でおこなうことそのものに否定的な考えです。国際理解教育は,実用と実践,その評価後のさらなる積み重ねを求める教育であり,教科日で教えようとしても,この点で限界があります。学校教育の特別活動,道徳の存在と,現状の必要性を否定しませんが,そもそもこれらは,本来の目的とする学校教育の枠外です。
 また,国際教育,開発教育の視点が,援助,恩恵を前提としない国際的に対等で相互扶助の考えにたつ国際関係を築く立場であるといっても.いわゆる先進国の生活が発展途上団に比較して,進んでいるという考えに立っていることを是認できないことも理由として挙げます。

 英語教育の位置づけ
 英文法と英会話の授業の目的についても意見を交わしました。
 英文法中心の英語教育を否定し,英会話中心の授業になっていることに対して,耗念を抱いています。国際的に通用する英語をめざして,英会話を重視するといわれていますが,英語を学ぶことによって,日本語を知るという視点を忘れているといわざるを得ません。
何よりも.世界で実際に使われている英語の実情は,いわゆる,一種の方言性に富み,能の幅が大きいといえます。そのようななかで,北アメリカ口話中心の英会話では,微妙な発音,表現の差のある東南アジアでは通用しません。しかし,英文法さえ正しく使うことができれば、意思の疎通は可能となります。

 国内教育
 国際教育を理解する議論を進めていくうちに,国際教育は国内教育であるとの認識で全員が一致しました。
 国際上.国内上の差別にも気づき,目を向けて,これらを解消すべき方策を考える場をもつべきです。
 そのためにも,現在の教育をよりくわしく正確に認識する必要があります。

 社会教育と学校教育の役割分担
 学校教育に対する過度の期待が進んでいます。
 学校には,能率よく教育を行うため,また,少数の教育者でもって,多数の者を学ばせられるようにするため,多数の子女が集まります。その結果,学校内には集団という視点の教育も可能となり,その視点を学校教育の一部として取り入れるようになってきました。
 ところで,学校では,大量の子どもたちを一度に教えられ,あるいは,彼らの意見を聞けるとの利便さから,学校教育以外のことや教育以外の要請を受けるようになってきました。
 例えば,地区対抗の運動会,地域清緒,ボランティア,自然環境実態調査.つばめのおやど調査などの要請です。
 学校が,単なる教育の現場という意味を越えて,社会内の小地域を形成するようになってくると,学校への期待が学校教育外の地域全般に及んできます。学校に対する期待増とともに,教師に対する期待も増えてきます。それは,学校教育の専門家として受け止められる期待をはるかに超すものです。教師に対する過度の信頼の高ま りと一種の信仰は,学校教育の専門家が教育全般の専門家のごとく見る風潮を生みだし,学校教育しか知らない者を社会教育機関の長や施設の良にする悪習をつくりあげ,それにともなう教育全般の質の低下を招いています。
 社会教育の場で働きたい人も,社会教育的なことを学絞に求めるため.学校に勤めて不遇な人生をおくり続けています。
 学校教育外の社会教育から,学校教育畑の人間を排除する荒治療 も必要となっています。

 学校の格の話
 また,学校の機構の肥大化とともに,学校の存在と価値基準に,間違いはなく,絶対のものとする考えもでてきました。そのために,学校に行かない者を異端視したうえで,登校させようとするのを当然のごとく見る価値観の押付けがはじまり,また.学校の名前で卒業者の人格を評価してしまう差別風土をつくりあげてしまいました。
 教育の目的を,地域社会をよりよいものに進める担い手を作りあげることとするとき,就職にあたり,会社にとって必要な能力を,個人のなかに見出さず,出身学校の名前にのみよること,また,社会がそのような風習を認めているばかりか,家庭内において,その評価を前提とする就職活動として,学枚逮びをしていることは,教育の目的に反しています。
 学校教育の一都で取り上げている科目を学びたくて,あるいは就職のために職能学枚へ行った者を,その科目 その講義でもって評価することは当然です。
 しかし,その評価に限られるわけであって,それ以外で,例え話として.歴史が非常に得意だからと音楽大学に行ける能力があると言い切れないのと同じように,学枚教育の教科の内容で,社会のすべてを評価する価値判断にしていることが問題視すべきことなのです。
 すなわち,社会教育の一分野にしか過ぎない学枚教育の教科の善し悪しによって,社会の能力すべてを判断していまおう,あるいは判断できるとするのを常識とする社会を私たちはつくりあげてしまったのです。

 学校教育の必要性
 社会教育を強調するあまり,学校教育を不要とする考えに反対します。
 複雑高度に産業化された現代においては,本来足りれば生きていけた衣食住のみでは暮らしていけません。また,産業社会は,自給自足の暮らしを認めません。産業が高度に発達し,分業化しているため,一人として自立自活できない現代人は,生き続ける方策を学ばなければなりません。ただし,産業社会で生きていく術を地域社会のみで教え学ぶことは,わずか10年足らずの児童期間のうちの能率性においても,教師となるべき人の知識においても,不可能と言えます。学校教育で産業社会に対処しうる基礎学力を身に付けなければ,産業社会は,産業社会を支持し,分業化された社会の担い手としての構成員となる人材を大量に,産業社会を切り盛りする人材を一定量以上輩出できず,自己崩壊の道を進んでしまいます。

 農村社会と学校教育
 高度に職能別に分化した産業社会に対し,自己完結の自給自足型の社会として農村をあげられます。全国の大部分が農村であった時代に,学校教育の必要性は,それほど大きくありませんでした。
 しかし,産業社会に取り囲まれてしまった農村社会は,狡猾な産業社会と対等に渡り合い,付き合うため,すなわち,自衛のために,学校教育を必要としています。ただ,学校教育の利点は,時として,農村社会を崩壊の危横にさらします。

 学枚と登枚拒否
 産業社会が学校を必要不可欠の存在とする取りにおいて,学校に行かない者を社会がどう受けとめるかが課題となります。学校に行かないことを認容する人々もでてきていますが,卒業,または,退学後の彼らを一人前の人格者として受け入れる社会にはなっていませんし,彼らの親の最大の悩みもここにあります。
 しかし,この問題も社会の能力を学校でのみ評価しようという間違いに原因するのであって,そのような社会を変革していくところに解決策を見出します。

 社会教育と産業社会
 産業社会を支えるために学校教育が発達したことは,学校教育をを除く社会教育が,産業社会と対立するものであることを歴史の上でも示してきました。そして,産業社会は教育を,すなわち,社会教育を学校教育化することを画策していました。

 生涯学習と社会教育
 生涯学習といって,これを,社会教育のすべてであり,というごとく誤用するあやまちをすみやかに改めなければなりません。生涯習の実態は,各種講座に代表される蒋定科目を社会人が生涯全般,あるいは一定期間おこなうことをいいます。そこには,個人の能力を伸ばすという視点のみであり,地域として,その能力を生かそうとか,社会をよりよくしていこうという視点,社会教育の理念,すなわち,教育全般に共通する理念がありません。より能率的に,理論体系だった場を作ろうとする点に着目ずれば,本来の学校教育に近いともいえます。
 しかし.生涯学習は,学校教育と根本的に異なり,教育と呼ぶに値しません。学校教育は,いかに能率的,専門的になろうとも,社会に生きる人間を育てるという教育の目的を,常に掲げることを本分にしていたからです。学校教育の教育者である教師の信念と倫理によって支えられていました。人間を育てる観点を学校教育がもっている限り,学校教育を社会教育の一分野と認められます。
 社会を常によりよくしていこうとする社会教育は,これが結果であるという明らかな結論はありません。そのうえ,生活のなかの出来事そのものですから,できるできないにかかわらず,見えない結論に向かって実行し続けなければなりません。一方,生涯学習は,講座単位のため常に終着駅が見えています。見える範囲のことのみしか行動に移そうとしない生涯学習中心の教育では,見えない結論を自ら創造し,信じ,社会をよりよくしていこうとする人間は生まれません。学校の教科目に類する生涯学習は,もともと,そのような視点をもちえにくく,さらに,教育理念を除いた学校教育教科目教授法の論法の術を取り入れれば,社会変革の論理は基本的になくなってしまいます。
 学校教育に対し,社会に出たら間に合わない微積分,ピタゴラスの定理などという人もいますが,このような表現をする人は,まさに,見えない課題に取り組むことを考えられず,短賂的であり,結論をすぐに求めることしかできない発想の人ともいえます。
 昨今,兵庸県南部地震を引き金の原因とする震災で,ボランティアが注目され,特に,青年層の参加をとらえ,青年の社会意識を再評価する見解を目にしますが,これに疑問を感じます。確かに,自発的に,ほぼ無報酬の精神でおこない,何をするかの短期的な目的と実行したことによる個々の満足感,感謝,連帯感などの無形の報償をえているあいだは,ボランティアとして参加していました。しかし,これから神戸市を復興していこう,日々変わらぬ苦しい生活を変えていこうとする被災民の生活を改善していこうという段階になると,ボランティアの姿は最大時の40分の1の参加者数にまで落ち込んでいます。政治的無関心に代表されるように,すぐには変わらないような分野,これという結論が見えない分野に積極的に参加しようとしていません。
 ところで,十数年前まで,生涯教育が提唱され,昨今,生涯学習が奨励されています。生涯教育とは,個人が生涯にわたって学んでいく場,すなわち,教育の環境を整えることをいいます。ただし,生涯学習同様,地域の視点を必要としない個人の教育環境の整備を指します。教育,社会教育の狭い一部分を構成するにすぎないといえます。

 教育による社会変革
 学校教育の善し悪しによって,社会の能力すべてを判断できるとすることを常識とする社会をやめ,個人の能力を正しく地域で評価し,地域で用いるようにするのもやはり教育の力に頼るしかありません。
 なぜなら,価値観を変更しようという分野は,教育の分野だからです。
 ではどうすれば,一人ひとりの個性を大切にする社会をつくっていけるのでしょうか。
 当委員会では,統一見解にまとまらなかったので,少数派意見を併記したうえで,多数派意見をもって中間総括とします。
 多数派意見は,まず,組織化された学校教育の利点を忘れてはならないと主張します。
 社会の矛盾,問題,課題などを教師が生徒に喚起していく分野を,組織する教育として,学校教育に組み込んでいきます。家庭,特に,父母に子どもの意識改革をおこなう能力はなく,それ以前に,父母自身の意識変革をおこなうことは不可能に近いと見ます。利己主義化した社会において,大人が,自ら社会のためになる教育をおこな おうとか.まして,社会を改善しようとかは思いません。ゆえに,そもそも直接大人を教育するごとき無用なことはやめ,子どもを教育して,学校教育の見方を更正し,将釆において個人を大切にする社会にさせます。
 また,子どもが,学校で学んできた個人を大切にするということを,家庭内において,親に教えることができるとする視点も期待できます。
 少数派意見は,意識変革をおこなうべさ対象者からも,学校教育の性質上からも,教育の原点である社会教育をもって,おこなうべきだとします。
 学校教育は,教科目による専門教育が中心とならなければなりません。多数派意見が主張する社会の矛盾,問題,課題などを教師が生徒に喚起していく分野を,ひとつの教科目として組織し,学校教育に組み込んでいくことも可能であり,そのためには専任教師を養成することも検討に値しないとはいいません。
 しかし,父母を中心とする大人が意識改革できないとし,まして,意識改革を働さかけることを否定し,子どもによる親への教育の主張をのぞき,今後30年以上にわたって現状を是認するしかないとの考えには同調できません。
 多数派意見のなかにある,利己主義化した社会の発想と,これを是認し変化させる必要なしとする前提は,社会構造が高度に複雑化した現在,他者に依存しないという意味での自立や自助というものが,既に幻想となっている事実を意識的に無視し,あくまで,個人の能力だけで生きていけるとするものです。また,自立や自助をいう利己主義はその底に他者に対する不信をもつものであって,ある状態が必ずしも究極の状態にあるのではなく,絶えざる不安におののき,安住の場を求める格闘の毎日を送らざるを得ない状態を生ぜしめています。このような利己主義化した社会を認めるならばなおさら,各産業間の連携を常に保つように調査,研究を努めなければなりません。この調査,研究をおこなうのははかならぬ大人,成人です。
 社会教育は,学校教育,生涯学習.スポーツなどの一部をのぞき,社会を改善していこうとする本来的目的と機能をもっています。
 学校教育は,特定の分野を専門的狭義に深く見るのに適するのであって,総合的な人間教育をおこなおうとするには,もとより限界があります。
 なお,高等学校に総合学科ができ富山県でも小杉高等学校に導入 されましたが,その実は選択学科であって,多彩な人材を育て上げ ても,それのみで総合的な人間を育てることはできません。
 教育は運動体です。運動は生の教育です。理論学習,情熱分析, 実験の繰り返しを観み重ねるなかで,連動を組み上げつつ社会の現 実を学びとり,地域の姿を少しずっ変革させながら,理想社会をめ ざしてきています。
 具体的に社会教育がどのように,一人ひとりの個性を大切にする 社会をつくっていくのかを示さなければなりません。
 その役割を担うものとして,社会教育各種団体並びに企民館,図書館及び博物館の社会教育機関をあげることができます。
 今回の調査,議論はそのうち図書飴について絞っておこないまし たので,中間総括であるここでも,最初は図書飽に限って話を進め ます。
 図書館には大きく企共図書館,私立図書楷にわけられます。そし てその他図書賠に類するものも数えることができます。今回は,私 立図書館と私人が設立した図書館に類するものを調査の対象外にし たので,この部分は除きます。

 図書館の役割とあるべき姿
 地域住民すべてに対し,その本人の知的要求を満たし厚くす対応 をおこなうとともに,本人の本人でさえ知らない知的要求を喚起さ せて知的要求を満たし早くす対応をおこなうことが,図書館のもっ とも大切な図書館奉仕の中心です。
 図書館奉仕のためには,専門職としての司書による総合的な図書 館運営の企画の作成や実施と,住民の直接の代表でない専門職によ る運営ゆえに住民の声を常に十分反映できる図書館協義会の設置が, 必要となり求められます。また,総合的運営のためには建物による 制限も極力避けるべきです。
 図書館の役割自体が,全地域民を対象にした教育活動であり,住 民の知的要求に応えようとすることにあり,常に住民の知的要求に 応えようとするのであれば,一人ひとりの個性を大切にせざるを得 ず,当然に,一人ひとりの個性を大切にする社会をつくっていくことと同じことをおこなわざるを得ず,また,既におこなわれてきて います。
 そして,知的要求を満足させていくなかで,社会を改善しようと 気づいたとき,図書館は,改善していこうとするきっかけとなり, また,改善の実践の際の再調査の重要な場所となるのです。
 時に.図書館は,戦前の思想善導教育を自己批判して,国民,地 域住民の知る自由を保障することに責任をもつ機関にしようと行政 の一部門でありながら自己規律し,資料収集にあたっては,権力の 介入や社会的な圧力に屈せず,多様な,対立する意見を幅広く紹介 することを目的に実践を積み重ね,民主主義を体現する場としての 役割を担ってきてます。
 ここに図書館に教育の機能をみます。
 図書飴の現状
 さらに図書館に代表される行政の社会教育機関と社会教育団体と の関係につき,調査,討論をした結果の報告に進むべきところです が,少数意見を基にしますが,当常任委員会として,富山県の図書 館の現状を調べましたので.この件につき,中間総括をおこないま す。
 富山県の図書館は本館分館あわせ58頼あるとされていますが, 図書館機能を持ち合わせたうえで,独立館であることと司書資格の ある専任の正規の館長がいることの図書館擦能を発揮できる望まし いとされている基準をみたした館は,高岡市中央図書館と黒部市立図書館のみで,うち,図書館協議会をもつのは黒部市立図書館だけ という,つまり,富山県内には,県市町村立図書館は1館のみとい うことがでさます。
 蔵書数も極端に少なく,それでいて,今後図書を購入しても置く 棚の余裕がありません。富山県立図書館ですら,昨年度資料によれ ば,蔵書数は575,219冊で,年間購入数は12,990冊で, 購入数を含めて年間受入数は35,027冊です。ちなみに,富山 市立図書館の蔵書数は,本館分館を含めて,533,340冊です。 富山県内のすペての公共図書館をあわせても,3,433,353 冊です。
 閉館時刻もほとんどが,午後5時から6時の間で,勤め帰りの人 は立ち寄れません。駐車場の台数の確保もそれほど多くありません。 すべての図書館ではありませんが,無愛想な職員もいて,図書館を 利用したくなくすような雰囲気をつくりだしています。図書館員は, 図書館奉仕の仕事の一部として,愛想よくなければなりません。
 図書館に,一人ひとりの個性を大切にする社会をつくっていくこ とを担わせるには,あまりにも,物的人的資瀕が窮乏しているとい わざるを得ません。一人ひとりの個性を大切にする社会をつくって いくこと自体が図書頼の本来の役割と表裏一体であることを見て取 るならば,図書飴の役割を担う機能さえ満足にそろっていないこと になります。
 そこで,現状の図書館をどんな姿に変えていくべきかと譲論をおこないました。
 しかし,当委員会では,少数派意見を前提とする議論のため,統 一見解にまとまらないものですが,多数派も交えた委員会としての 議論のうち,少数派意見を併記したうえで,多数派意見をもって. 図書館の役割とあるべき姿を実現する方策としての中間総括としま す。
_多数派意見は,絶対的多数を占める利用対象者であるべき,労働 者が利用しやすくするために,図書館の開館時間帯の延長や土日開 館を主張するものです。また,車社会の反映と,車がなければ移動 できない富山県の現状から,図書館における駐車場の確保を主張し ます。特に,図書館の開館時間については閉館時刻を延長し,住民 の要望に応えた大島町立図書館の例にならい,午後9時にすべきで す。業務に必要な人員の確保にも努めなければなりません。司書資 格を持ちながら,生かしていない専業主婦や定年退職者の礁極利用 によっておこなうべきです。また,アルバイトやパートを虐用し, 不足の人員をすみやかに補完すべきです。現実の社余に図書館を時 間的理由によってのみ利用できない人の存在を考えたならば,まず, 延長によってそのような人の解消に少しでも努めるべきです。
 同一館内に複数の同一図書をおくべきです。図書館は本が一冊あ ればよいのではなく,常により多くの人が利用できやすくするため です。利用頻度の高い図書はどこのようにすべきです。紛失を懸念 することを理由とする貸し出し禁止の措置は,原則,あってはならないのであって,保存を必要とする希少資料は複写をおこなう方法 をもって,写本を貸し出すべきであり,通常市場に流通する図書は, 貝い足せばよいのです。雑誌類も,貸出を禁止するくらいならば, 複数部ずつ購入しておくべきです。
 利用者を疑うごとき,防犯システムは取りつけるべきではありま せん。
 紛失は図書館奉仕を続ける上で必ずあることであって,紛失防止 よりも,紛失した図書を補充する考えを基本とすべきです。
 公共図書館同士の連境を,所有資料,書籍,情報の有効活用の点 からも方針をもって行うことが望まれます。ただし,図書館自体の 独立性が侵されることがあってはなりません。
 富山県内で発行する書籍のすべてを,58図書館に寄贈させるべ きです。
 少数派意見は,多数派意見のうち,図書館の閉館時間を延長する ことと不足人員の補充の方法に反対するものです。
 絶対的多数を占める利用対象者であるべき,労働者が利用しやす くするための措置を講じる必要を主張するのは,多数派意見と同じ ですが,図書飴の利用時間を延長することをもって,対応するので はなく,労働を必要とする時間を短縮し,だれでも,教育に参加で きる社会をつくりあげることによって解決をはかるべきです。
 不足する人員は.司書資格を有する専任の正規の職員を雇用して まかなうべきです。正規の専門職によってこそ,図書館の専門性を確保し,その能力を発揮しうるのです。
 暫定的に,多数派意見のいう方法を取ることも賛同しかねます。 なぜならば,一時的にでも,司書の個人としての市民である権利を 奪うことを許すことになるからです。社会の歴史と情勢を分析して みると,さまざまな人々の権利を各々が関係ないかのごとく,ばら ばらに剥奪され続けて,やがて,権利を行使しないのが常識とする 社会を既成事実として存在させ,それを根拠に,全国民の市民権の 剥奪を加速させ,理想をとおのぞかせています。今ここで,司書の 不規則時間や夜間労働を認めるならば,教育のための時間を確保し ようという私たちの理想が実現不可能となる可能性が将来にわたっ て懸念されます。
 多数派意見のいう時間的理由によって図書館を利用できない人は, そもそも,図書館を遅くまで開いても,貸出の本を読む時間さえな いと言えます。この理由によっても,図書館の時間延長よりも,利 用者の利用時間,すなわち,労働以外の時間の拡大に努めなければ なりません。貸出の本を読む時間はあるから時間延長を希望すると いう人に対しては,移動図書の方策で望むべきです。商店街に,企 業の近くに,職場に自動車図書頼を走らせるべきです。

 富山県立大学付属図書館
 富山県内には,富山県立大学,喜山医科薬科大学,富山大学,富 山工業高等専門学校などの高等教育機関があり,そこには付属図書 館が設置されています。学校の運営方針にもよりますが,書籍,資料などの図書の有効活用の意味では,これらの付属図書館と公共図 書館の両方が方針をもった連携も望まれます。
 しかし,大学の所管は,教育委員会ではなく,知事部局に属し, 当常任委員会の審議の対象外とするところです。図書館に関連する 部分に限って討議を重ね見解をまとめました。
 富山県立大学付属図書館の一般開放を今以上にもっと積極的にす すめるべきです。
 そもそも,大学は真理.学問の探究の場です。
 公立大学にあっては.対象は,学生のみならず,地域全住民に及 びます。大学の管理運営,研究の主体となる構成員は教授陣とされ ており,学生は除外されています。前者を積極的理由として,後者 を消極的理由として,学生と地域民を区別する理由は見つかりませ ん。また,公立大学の特殊専門性は,直接間接のなんらかの形で地 域に還元されなければならない義務を負っています。
 県立大学の佐格は,学生のみならず,広く住民に対し,真理,学 問の探求の場を提供する機関といえ,同大学の役立にあたっても同 趣旨がうたわれています。
 県立大学の教育を支援するため付属図書館が設置されています。  県立大学の利用対象者を全地域民,県民と見るならば,一大学の 付属図書館の性格とともに,公共図書館の役割をももっているとい えます。
 しかしながら,現在の富山県立大学付属図書館をいきなり.今以上の役割を担わせることは,人的にも物的にも対応しきれません。
そのためには,公共図書館的部分を根拠に県立図書館による支援が あってしかるべきです。また,富山県立大学付属図書館からも,そ の専門性や特殊牲を利用した書籍,資料,情報提供を公共図書館に 送ることを,方針をもっておこなわなければなりません。
 そして,現実に既に一般開放されているにもかかわらず,県民の 利用が年間100名前後という現実は,県民に一般開放の事実が知 らされわたっていない証拠であり,さらには,図書館は利用者に対 する図書館奉仕とともに育ってきている図書館界の歴史を重ね合わ せてみるならば,富山県立大学付属図書館の不幸,ひいては県民全 体の悪夢です。県立大学に責任をもつ富山県は,大学の自治,独自 性を尊重しつつ県民に対する広報に努めるべきです。

 社会教育担当者の絶対的不足
 個人の能力を正しく地域で評価し,地域で用いるよう意識改革を おこなうために,学校教育の利点を主張する立場に立つとしても, 社会教育の教育の原点佐に求める立場に立っとしても,社会教育担 当者が絶対的に不足しているということが,今までの義論を通じて 明らかにされました。
 社会教育が教育の中心でありながら,社会教育担当者が不足して いたために,図書館,博物館,公民館などの社会教育機関は施設が あっても利用価値なしという状況が続いています。すみやかに,専 門家を育成.あるいは非専門職の担当者の研修をおこない,不足を解消すべきです。例えば,図書館の人員と司書の数も絶対的に不足 しています。富山県内に,司書を養成する大学はありません。県立 大の学部を新設してでも社会教育の専門職を育成すべきです。現実 に富山県の学生が近くの大学で司書講習を受けられなくて沖縄県に までいっています。
 また,社会教育を知らない人が社会教育の担当者になるため,社 会教育の精神を忘れ,派生した形だけを追うので,教育が死滅して います。

 予算措置
 教育予算は経常費とみなし,政策経糞に優先させるべさです。教 育を支えるためにも自治体の独自財政を確立することが必要となっ てきます。まず.自治体全予算の経常経章と政策経費が正しくわけ られているかを見てみる必要があります。

 ボランティアと結社の由由
 担当者の絶対的不足をボランティアでもって解消しようとし,ま た,ボランティア育成をもって地域づくりにあたるとする考えに, 反対です。
 何よりも,行政の責任を放棄し,教育の専門牲と役割を無視する 考えです。行政はボランティアの無償の奉仕牲を,安上がり行政に 利用しようとしています。教育の専門牲と役割を保障する研修制度 すら確立されていません。
 そもそもボランティアとは何かということから義論をはじめました。ボランティアは民間の独自性が基本です。その独自性とは,自 主性,創造性,批判性に現れています。
 有償ボランティアは,ボランティアに対し交通費,弁当代,日当 などの一都または全部を支払っておこなうことをいいます。また, 労働奉仕はおこなわないが寄付をボランティアといっておこなうと いう人もいます。これら善し悪しは別にして,ボランティアをとら える幅が広がっていることを示していることだけは事実として受け 止めます。
 それでも,ボランティアでわすれてはならないのは,先に示した 独自性です。ここで行政とボランティアの関係を調べてみると文部 省や厚生省はボランティア団体に補助をおこなっています。また, 高校生を対象とした養成事業をおこなっています。ほかの多くの団 では,このようなことは,おこなわれていません。
 そもそも,ボランティアは,創造牲,批判性ゆえに,社会の進歩 を方向づけましたが,常に行政と対立する運命にあります。その行 政がボランティアの育成とボランティア同体に補助を行いうことは, どのように考えたらよいのでしょうか。行政がボランティアのある べき姿を行政に都合よく方向づけ,活動状況を監視することをさし ます。行政がボランティアを不足人員の解決にあてることは,行政 の下請け機関として,単なる安上がり行政を目指すだけです。その ようなボランティアは理念なきボランティアであって,ボランティ アではありません。
 ボランティア団体に法人格を認める動きに疑念を感じます。行政 批判を内在させるべき,団体を行政が把握しようとしていると言え ます。現実に,第二次世界大戦直後,当時の市民同体を行政に届出 でる制度がありました。しばらくしてのレットパージにおいて,当 時の団体のいくつかが実質的な思想調査を受けた事実があります。 独自性のボランティアに行政が乗り出すことは結社の自由を侵すも のです。
 公安調査庁と警察の協力が破壊活動防止法にうたわれています。 富山県内での協力実態はどのようになっているのでしょうか。
 公安調査庁は,ボランティア団体も,調査の対象としているとさ れていますが,行政が把握する団体の資料を,警察が請求すること はあるのでしょうか。また,富山県は,そのような請求があった場 合,応じるのでしょうか。
 富山県警察史警備警察をみれば,富山県警察は特定の価値観のみ を正しいと見て,多様な意見の存在そのものを嫌っています。政権 党以外の考えに否定的な警察に民主主義社会を守る役割を担わせる ことができるのでしょうか。
 引き続き,調査が必要です。

 社会教育団体と行政
 社会教育団体は,社会教育の性質上,政治牲が生命です。当然に, 政権党と対立する意見を表明する可能性を内在しています。
 行政は同体のり一ダーを育成してはなりません。リーダー育成はその団体がおこなうべきことです。行政がかかわっては生命のない 社会教育団体,すなわち,偽団体だけが誕生します。
 それでは,行政は社会教育に関与すべきではないのでしょうか。 いいえ.積極的に関わるべきです。ただし,関与すべき部分は,社 会教育の基底部分です。社会教育の基幹は,理論学習,情勢分析, 実演の各繰り返しです。このうち,理論学習,情勢分析の材料を, 社会教育の実践者の求めるままに応じて,提供することが行政の役 割です。また,社会教育の実践をおこなえる環境をつくることも大 切です。まさに,この部分が行政の社会教育各機関に与えられた役 目です。

 社会教育団体と結社の自由
 公権力が社会教育団体や社会教育各機関に及んだとき,私たちは 精神活動の自由を奪われます。それゆえ,公権力が及ばないことを 保障しなければなりません。
 社会教育団体や社会教育各機関は,公権力,特に,警察の動向を 監視しなければなりません。警察がその内奇にもつ情報を非公開扱 いにすることは許されません。

 青年団がおこなうべき実践
 行政は社会教育の基礎資源を供給し,社会教育の実行は社会教育 団体が主体となっておこなうことが明らかになりました。
 社会教育団体と行政の関わりがわかったところで,私たちの理想 とする社会をつくるために,社会教育団体の進むべき方向に向かうベく実践する方法を,社会教育団体の中核を占める青年団を例にと り述べます。
 まず,社会教育団体の進むべき方向とは,社会教育団体による教 育の推進です。
 青年団は.官制教育たる青年学級振興法に反対し,仲間の実践と 相互批評によって支えられた共同学習を編み出し,社会教育団体に よる教育の推進をおこなってきました。地域における共同学習は, いっでも地域の課題を拾い出せる状況にすることからはじまります。 そのためには.みずから地域を踏査し,また,地域の構成員が語り 合える場をもつことによって,さまざまな意見を出しあえる環境を 整備し,保障していきます。そこでの語り合いのなかから,地域の 課題を組織化しました。全体の意思統一の下,課題解決に向けて異 体的行動を起こす実践に移ります。さらに,課題解決の途中ででて きた新たな課題をどのようにするか検討し,次の行動に移り,行動, すなわち,実践の繰り返しによる積み重ねをおこなっていくなかで, 地域やその周りのことをより深く理解していきます。
 課題を組織化するまでの節々や,新たな課題に出会ったとき,青 年団の組織内の過去の実践例や社会教育検閲の施設の情報,資料な どを利用していくことになります。
 一方,先に行政の社会教育各機関のおこなう役目を明らかにした わけですが,その行政を監視するのも社会教育団体の重要な役目で す。また.社会教育団体は,行政の社会教育各枚閑がおこなうべき役目も,自己の団体組織の責任において,おこなうべきです。行政 の社会教育各機関は,理念的には,公権力から遠い独立した存在で すが,行政の末端を構成する一部局にすぎない二面性を持ち合わせ ています。
 対行政との関係で明らかになった社会教育団体の役割を具体的に おこなう方法は,あらたな方策を必要とせず,先に述べた社会教育 団体による教育の推進を,行政の監視を受けずに,行い続けること です。ただし,この方策は,もっとも積極的な方法でありながら対 行政へ働きかけの視点が不足しています。
 そのためにも.どんどん行政の社会教育各機関を利用することに よって,住民の課題を,行政の社会教育各機関側に明らかにしてい きます。行政の社会教育各機関に対し,改善の要請をおこなうこと も必要となります。
 また,社会教育団体は,社会教育委員会をはじめとする行政の審 議会や諮問機関に代表を送り出しています。
 行政施策にわずかなりとも関わっている点を積極的に活用すべき です。行政施策が,社会教育に干渉をおこなうおそれがあるときは, その場で,それをただしていくべきです。
 さらに,地域住民に対しては,行政の方針の公表を,機関紙その 他の情報宣伝方法を利用しおこなうべきです。
 なお,これらのことをおこなう上では,社会教育団体が地域の代 表性をもちいることの確保も必要となってきます。やはり,このことも地域全体を対象にした社会教育団体による教育の推進が行われ ているかどうかに関わっています。直接民主制と間接民主制の双方 の補完をおこなう存在になるべきとさえいえます。

 富山県に求めること
 社会教育団体の役割を実施していく上で,明らかになった富山県 に求めるべきことを示します。
 教育を推進していくまわりの環境があまりにも貧弱であるからこ れを改善すべきです。

 労働の時間の短縮
 宮山県は,長時間労働に代表される勤勉性を誇りとして,生活を 二の次にする施策をつき進むのでしょうか。産業中心消費中心の社 会を,県民のため,地域中心の社会に変えるべきです。人間らしい 社会をつくるための労働であるからこそ,人間らしい労働環境を求 めます。
 今の状態では,県民は仕事に振り回され,地域活動や教育をおこ なう時間的な余裕が全くありません。
 仕事に振り回される時間の生活よりも,自分の生活や地域社会を 大切にする時間配分の社会を築き上げるべきです。第三次産業従事 者が全体の三割をとっくの昔にすぎ,過半数に迫る現代において, 子どもと両親が一緒に会話するため時間の一致すらなくなってきて います。
 雇用において,完全土日週休二日制の確立,夜間(日の出前,日の入り後)労働の禁止,一日最高労働10時間制の実施,有給休暇 年80日の保障,全国一律保障真金制度を法制化し,環境面におけ る整備をおこなうべきです。
 学童保育
 夜勤や土日就労を禁止しえたといっても,高度に発達した現代産 業社会において,核家族の夫婦共稼ぎを否定することは,すくなく とも現時点では,難しいといえます。しかし,そのため子どもの日 常的な世話を学校に押しつけることは,学校教育を歪曲させるもの です。いわゆる鍵っ子に対応する方法は学童保育でもっておこなう べきです。

 登校拒否児の受入れ
 中学校卒業者や登校拒否児が,社会に出ても受け入れられる環境 をつくる必要があります。本来は逆で,高校,大学や卒業者でも社 会に受け入れられる環境をつくってきた結果です。高校,大学や卒 業者を,産業社会の労働力としか見ないところに問題の点があって, そんなに働かなくても生きて行ける社会をつくるべさです。

 県立大学
 県立大学を住民のための教育機関とするために,その付属図書館 の開放を今以上に進めるべきであり,広報活動を活発におこなわな ければなりません。また,社会教育の専門家が少ない我が県の実情 に照らし.新たな学部を設けてでも,その育成に努めなければなり ません。

 教育関連予算を含む財政
 教育関連予算を大幅に増額すべきです。
 自治体財政そのものを見直し,独自財政を確立すべきです。

 教育委員会に求めること
 社会教育団体の役割を実施していく上で,明らかになった富山県 教育委員会に求めるべきことを示します。

 行政の社会教育機関の充実
 社会教育施設の名をもつ機関を社会教育の専門家のみで構成させ ます。そのため,社会教育の専門家を育成すべきです。採用におい て配慮するのみでなく,現在勤務する専門家以外の人々が専門家と なれる職場環境を確保しなければなりません。そして,専門家は専 門とする部署以外に配置してはなりません。
 現在の建物は,あまりにも手狭です。本来の機能を果たせる最低 限の建物を求めるのは当然として,今後の社会教育の進展をにらん だ余裕をもった整備が必要となります。
 時間的制限を受けない社会教育施設にすべきです。
 住民を監視の対家とする方策は排除すべきです。
 すべての社会教育施設を無料にすべきです。当然に,博物館は, 博物館法の原則に従い,無料にすべきです。

 権限外行為の禁止
 ただちに,行政による生涯学習の推進を取りやめるべきです。  行政による社会教育団体のリーダー育成を,おこなってはなりま せん。

 学習指導要領の策定
 国が定める学習指導要項とは別に,宮山県にあった学習指導要項 を定めるべきです。それが国のそれと抵触し,実行できないとして も,それを基に,国に対し,国が定める学習指導要項の廃止,また は,富山県の適用除外の要請のはたらきかけるべさです。県民に対 し,富山県教育委員会の考え方を示すことができます。

 国際理解教育の推進
 国鞍理解教育は,国内教育です。国際協調をおこなううえでも, 国内のことをよりよく知るためにも,国際理解教育をおこなうべき です。

 方言郷土教育
 国語と同等の位置づけで.母国語としての方言を教育に取り入れ るべきです。
 郷土教育をおこなうべきです。

 民族教育の保障
 民族教育を保障すべきです。

 公安委員会に求めること
 社会教育団体の役割を実施していく上で,明らかになった富山県 会安教育委員会に求めるべきことを示します。

 社会教育各機関の活動の保障
 公権力が社会教育各機関の活動に干渉をおこなわないという保障を,県民の前に明らかにすべきです。
 いかなる理由があろうとも,社会教育各機関や社会教育各機関が 得た情報を警察をはじめとする公権力は入手してはなりません。

 警察の情報公開
 県民が警察を監視できるように情報公開条例の適用除外をやめる べきです。

 警察官の接遇
 警察官が県民に応対するときは,傲慢にならず,不快感を与えず, 礼儀正しくなければなりません。

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