2001年 9月 創作絵本に驚いて 5月 月忌参りはいつまで?
8月 精進 4月 花祭り1
6月 生前にお墓を建てると 死人が出る?! 3月 どうして 般若心経は 使わないの?

 

創作絵本に驚いて

 射水郡大島町に「大島町絵本館」があります。館長の高井 進先生から原画展の招待状をいただき、夫婦で初めて訪れました。
 庭も含めた建物の素晴らしさ、館内の1万冊の蔵書、設備に驚き、さらに活動内容たるや絵本作り・講演会・コンサート、CGワークショップなどがあり、大変驚かされました。
 ブライアン・ワイルドスミスの『ノアの箱舟』の原画展と同時に、3D絵本展(飛び出す絵本)もあり、最初は医学書・科学書から始まったのだそうです。初めて知りました。

 子供達に交じって絵本を読んでみて、自分の絵本に対する知識が誤っていたことに愕然としました。
 ももたろう・白雪姫・一寸法師など私の知っているものもありますが、我が家に幼い子供がいないせいでしょうか、現代の創作絵本の内容には驚かされるものばかりです。

 「絵本館おすすめ絵本50」の中には……
 例えばバスカーリア著『葉っぱのフレディ』では、

秋になり紅葉も終わり北風が吹き始めるころ、葉っぱが1枚、また1枚と落ちて行く。最後の葉っぱのフレディは
「私は生まれてきてよかったのだろうか」
と疑問を持つ。すると答えが返ってきた。
「暑い夏、葉っぱが寄り集まり日陰をつくっただろう。だから沢山の人が日陰を求めて集まっただろう。紅葉の時期には沢山の人を喜ばせたろう。太陽や風と楽しく遊んだだろう。それが幸せなんだ」

……こんな絵本があろうとは思いもしませんでした。

 ロングセラー人気絵本として、佐野洋子著『百万回生きた猫』もありました。小さな子供は皆読んでいると聞かされて、57歳になって初めて読むことが照れさくも思いましたが、読んでみました。
嫌いな王様に飼われ、嫌いな泥棒に飼われ、嫌いな海賊に飼われ、嫌いな女の子に飼われ、沢山の人に飼われるごとに死に、皆泣きながら、庭に埋めてもらった猫。百万回目は立派なトラの野良猫として生まれました。今度は自由です。
初めて白い猫を好きになり、そのうち沢山の子供ができました。大変幸せな日々をおくっておりましたが、愛する白い猫が死んで動かなくなってしまいました。トラ猫はずっと傍についておりましたが、トラ猫もやがては動かなくなり、死んでしまいました。
トラ猫はそれから生まれ変わりませんでした。

……こんな内容でした。命に限りがあり、一番大切なのは愛するという事である、ということでしょう。
 作者が子供達に教える人生観・生死観ではないでしょうか。

 現代の創作絵本をたった2冊だけ読んでみましたが、子供だけでなく大人も読んでみなくてはいけないと感じました。勿論、優しくて力持ちのヒーローが出てくる絵本もあります。

 小さな子供が初めて読む(読んでもらう)絵本。その頭の中の空想の世界で主人公と共にワクワクし、喜び、悲しむ気持を育てて行きたいものです。
 「三つ子の魂百まで」と言われるように、それが大きくなって優しく強い人を創るもとにもなるのだと思います。

 柳田邦男氏は絵本館で講演され、
「私は小説や詩を読むのと同じように絵本を読んでいます。絵本を作っている人は、凄く考えている人が多い。絵本はただおもしろいだけでなく、文学的レベルで凄く深いことを考えています」
と、話されたそうです。
 子供達の為だけではなく、大人の私達も考えて読みたいものです。

 日本の御伽噺を3つ始めから終わりまで言えますか?

住  職

影現寺だより2001年9月号より

 

精 進

 お盆です。県外にいらっしゃるご家族もご親戚も帰省なさって、賑やかになる季節ですね。
 そうなると、ご馳走を用意して、お酒を呑んで……となるのではないでしょうか?

 精進という言葉があります。この言葉を聞いて最初に思い出すのは、お料理ではないでしょうか。煮物や野菜の天婦羅、胡麻豆腐など、肉魚を使わない料理です。
 今では肉や魚が無いというのが毛嫌いされがちだったり、業者さんさえ
「今時、精進料理なんか法事で食べませんよ」
なんてことを言って営業なさるそうで、なかなかお目にかかる機会が少なくなっています。初七日や四十九日の法要くらいでしょうか。
 精進料理というのはとても手の込んだもので、料理人さん…というよりは職人さんが丹精こめて作ってくださったそれは、とても美味しいのですが。

 この精進という言葉はサンスクリット語で「勇者の心」とか「勇気」等を意味する言語が転じたものです。
 勇者が敵に突進するがごとく、一心に修行にはげむことを精進というようになったといいます。一心に修行に励む時に食する料理…それが精進料理です。
 ご存知のように浄土真宗では、お盆にご先祖が帰ってくるとか、沢山の厳しい修行をするとかいうことは申しません。
 ですが、お墓参りに行ったり、親戚一同が集まるからと法要を営んだりというこの時期。亡き人を思ってのお参りであることは間違いないでしょう。亡き人の命を思うとき……せめて1日くらい、他の命を思って、精進料理にしてみてはいかがでしょうか?
 また法要のご膳は「お斉」といって、宴会ではありません。この食事もまた仏事のうちです。本来は戒律を守った食事を指すものです。
 せめて命を思うときくらいは、精進してみませんか?

影現寺だより2001年8月号より

 

生前にお墓を建てると死人が出る?!

  以前、
「お仏壇を買うのに、時期などなく、誰もその家で亡くなっていないから買わなくてもよいのだ……というのは誤解である」
と書きました
(「お仏壇の話し」コーナー参照)が、同じ様にお墓についても、
「誰かが亡くなってから建てるものだ」
と誤解なさっている方が、多いようです。

 「お仏壇やお墓は死人が入る場所だ」という間違った認識が、世間ではまかり通っているようです。
 そうではないと知っていたとしても、周囲から
「まだ誰も死んでないのに買うなんて、良くない事がおこる」
などとしたり顔で言われては、不安に思われる事もあるでしょう。頭で知識として知っていても、感情の恐怖心や不安というものがわきあがると、困るものです。
 言い方が乱暴かもしれませんが、箱を作ったから中身を入れなきゃいけない!ということで、お墓が出来たら誰かのお骨を入れなきゃいけないから、人が死ぬ……という短絡的な発想でしかありません。
 では、お墓を建立しなかったら、その家から死人は出ないのでしょうか?どなたも亡くならずに元気でいらっしゃるのでしょうか?現実問題として、そんなことはありえませんね。
 分家をして、ご自分が1代目と思ってらっしゃる方でも、身内を一人も亡くしたことがないわけではありません。ご両親、お爺さん、お婆さん、代々のご先祖……お墓を建てたとか建てないとかではなく、人の命はいつか尽きます。でもその命は、今の私達に伝わっています。

 もし、お墓を建てて、しばらくしてどなたかがお亡くなりになったとしたら……間に合って良かったですね、と申し上げたいくらいです。
 だって、慌てて墓地を探してもなかなか見つからずにご苦労なさる方も多いのです。
 現実問題として、墓地を探すのは大変な時代です。また、お墓自体だって安い買物とはいえません。
 実際、ご自分のお骨が入るだろうお墓を、ご自分で選んで建てられた方もいらっしゃいます。
「これで、安心」
と、とてもご満足なさっていらっしゃいました。

 箱があるから入れなければ…な発想や迷信に惑わされないでください。浄土真宗は、迷信などに惑わされない、「門徒物忌み知らず」なのですから。

 また、お墓を建てるにあたって、
・墓相は気にしなくてもよい
・軸石の正面には南無阿弥陀仏のお名号を刻む
(倶会一処の場合もある)
・「吉日」とは刻まない(お墓を建てるのに良い日も悪い日も無い)
・観音菩薩、地蔵菩薩、宝塔などは建てない(阿弥陀様一仏に帰依するのが浄土真宗)
等のことに、ご注意なさってください。お手次のお寺様にご相談なさるのが良いと思います。

 もちろん、お墓を建てたら、建碑式(法要)をいたしましょう。

影現寺だより2001年6月号より

 

月忌参りはいつまで?

 「月忌参りは、いつまで来てもらえるのでしょう?」
という質問がありました。

 今は仏と成った亡き人を思い、それをご縁にお念仏するのが、葬儀や法事や月忌参りです。(もちろん普段から手を合わせることは大切なことです)
 月忌参りは追善供養ではなく、その方をご縁に手を合わせる機会をいただくということで、お坊さんがお経を詠んだからそれで良いという意味ではありません。
 お念仏にあわせていただく機会であるからには、「いつまで」と決まっているわけではなく、「ずっと」なのです。
 ただ、沢山のご先祖がいらっしゃって今の自分がいるわけですから、その沢山のご先祖の月忌参りというのは現実として困難です。
 一般的にいえば、だいたい50回忌くらいまで法事も月忌参りもつとめます。勿論それ以降、100回忌、200回忌……と続くのですが、代がかわっていく中で、顔も名前も知らない遠いご先祖の法要を営んだり月忌参りをしたりというのは、実際のところ皆無だと思います。
 現実問題として、1ヶ月に祖父母・ご両親と、4回お参りに伺うお宅は少ないです。生きているご家族の皆様にも生活がありますから、お仕事などで時間もとりにくくなっているのかもしれません。

 私の場合、有り難いことに、毎日ご門徒さんのお宅にうかがって、手を合わせるご縁をいただいています。門信徒の皆様の中には、お坊さんが来た時にしか阿弥陀様の前に座ることがないという方も(残念ながら)いらっしゃるかもしれません。
 が、月忌参りだけにこだわらず、ふとした時に手を合わせ、恵みに感謝できる私たちでありたいものだと思います。

影現寺だより2001年5月号より

 

花まつり

 4月8日は、「花まつり」です。

 「花まつり」という言葉は、聞いたことがあるかもしれません。これは、「灌仏会」かんぶつえや「釈尊降誕会」しゃくそんごうたんえともいって、お釈迦様のお誕生をお祝いする行事です。

 富山では月遅れで5月に行われるようです。
 富山市仏教連合会という、数ある宗派のお寺方が集まって組織している団体では、幼稚園の子供たちと白い象を曳いて街を歩くので、地元のニュースでご覧になったことがある方もいらっしゃるでしょう。
 デパートの前では、花御堂という子供のお釈迦様像を安置して花で飾られた小さな御堂が置かれ、
「お釈迦様のお誕生をお祝いする花まつりです。甘茶をかけていってくださいね」
という声が聞かれます。私も子供の頃に父と立っていた記憶があります。

 仏教の祖であるお釈迦様のお誕生日は、宗派を問わずお祝いいたします。

 お釈迦様は誕生なされてすぐに、七歩あゆんで、天と地を指差し、
天上天下 唯我為尊
三界は皆苦なり われまさにこれを安ずべし

とおっしゃったという、有名な逸話があります。ですから、花まつりの時に安置されている子供のお釈迦様像は、天と地を指差して立っていらっしゃるのです。
 そして、天は感動して甘露の雨を降らせたというその物語から、お釈迦様に甘茶をかけてお祝いするのです。
 七歩というのは、迷いの六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を越えて覚りの世界に至るという象徴でしょう。

 今、私達がみおしえにあうことができたのは、親、先祖、ご門徒の皆様、お坊さん、そして、宗祖である親鸞聖人など、いろいろなご縁のおかげです。
 が、その親鸞聖人が正信偈
如来所以興出世 唯説弥陀仏本願
と、あらわしていらっしゃる
(和訳のしんじんのうたでは、教主世尊は弥陀仏の 誓い説かんと生れたもうとあります)ように、仏教の祖であるお釈迦様がいらっしゃってはじめて、私達があうことができたみおしえです。
 ですから、お寺の行事に参加する、仏間で阿弥陀様に手を合わせる、形や場所は違っても、観なさまで感謝の心をこめてお祝いしたいものだと思います。

影現寺だより2001年4月号より

 

どうして般若心経は使わないの?

 月忌参りにおうかがいすると、たまに『般若波羅蜜多心経』と書かれた経本を見かけます。また書店では「写経セット」というかたちで見かける事もあります。
 意味や経文はわからなくとも、このお経の名前は日本で一番有名かもしれません。
 「西遊記」で有名な唐三蔵法師玄奘訳の600巻にもおよぶ『般若波羅蜜多経』の核心が、般若心経と呼ばれるお経なのです。(お経は多くの僧侶がたが訳してらっしゃいますけども)

 「どうして般若心経は(真宗で)おつとめしないんですか。正信偈と、どう違うのですか」
と、質問される事があります。
 まず最初にお答えするのは、正信偈はお経ではないということですが、大抵は驚かれます。
 お経というのはお釈迦様の説法を記録したもののことを言います。正信偈は浄土真宗の開祖である親鸞聖人が信心の喜びを表された「偈(うた)ですから、お経ではありません。阿弥陀様におまかせして救われることの喜びが説かれています。(和訳の「しんじんのうた」をご覧になってください)
 普段はお経とひとくくりになってしまいがちですが、厳密には「釋」と言います。

 般若心経はお経ですからお釈迦様の説法なのですが、何故浄土真宗で使わないかというと、自力のお経だからです。

 般若というと面を思い出す方もいらしゃるでしょうが、「智慧」とか「真理」とかいう意味で、どんな時代にも誰にもあてはまる普遍の真理。
 波羅蜜多は「彼岸に至る」という意味で、迷える私達の不自由な世界から理想の世界に至る道。通常は菩薩が彼岸にいたる為に修める行を言います。
 わかりやすく言うと、心理を見抜く菩薩の実践行によって煩悩を断ち切り、仏になる(覚りに至る)ということです。

 煩悩を断ち切る。生易しい事ではありません。欲や妬みや腹立ち、愚痴、怒りなど、煩悩はとどまるところを知りません。
 宗祖親鸞聖人も比叡山で厳しい修行をなさっていた頃、修行すればする程己の内にある煩悩が断ち切れずに苦しまれたと言います。そして浄土真宗を開かれたのです。

 浄土真宗のみおしえは他力です。
 他力というと世間一般では「他人をあてにする」という意味で使われ、良い意味では解釈されていません。しかし本来は、「阿弥陀様の力」という意味で、限りない、届かぬところのない力を言うのです。

 私達の浄土真宗で自力の『般若心経』(だけではないですけども)をお勤めしたり写経したりすることは、阿弥陀様のお力を否定する事になりますから、使わないのです。

影現寺だより2001年3月号より