蓮如さまの五百回遠忌で、本山にお参りした時のことでした。 「家にないから、わからない」とか「見た事がないから知らない」とおっしゃるかもしれませんが、ほとんどのお宅にはいくつかあるはずなのです。 例えば、お剃刀(おかみそり)を受けて法名をいただいた方や、院号をいただいた方がいらっしゃるお宅には、必ずあるはずです。お心当たりがある方は、探してみてください。きっと見つかると思いますよ。 私達僧侶はお袈裟をつけます。 普段から熱心につけていらっしゃる方も中にはいらっしゃるのですが、そんな方でも もし、 10月31日と11月1日は、当寺院の報恩講です。式章をつけていらっしゃる方が少しでも増えていると嬉しいのですが…… 影現寺だより1999年9月号より |
お坊さんは、ちょくちょく勉強会をします。ご講師を招いてお話を聞いたり、一つの問題について論議したりするのです。 皆さん、弔電の文章を考えてみてください。 『冥福』という言葉について考えてみましょう。 先日、全日空機がハイジャックされたことが大きく報道され、亡くなった機長さんの葬儀もテレビ中継されていましたが、ご覧になりましたか。 では、どう言えばよいのか? 宗教は生活の一部です。 影現寺だより1999年8月号より |
ご法話はたいてい「この間、こんなことがありましてね…」というふうに始まることが多いと思います。 ある布教使さんに伺った話ですが、ご法話の席でこんなことをおっしゃった方があったそうです。 寺院に参りますと、なんだか普段とは違う気持ちになるでしょう。だからといって宗教は特殊なものではありません。お寺にいる時だけ、仏事の時だけ、特別な自分になったわけではないのです。もちろん、親族が集まる行事は一大イベントですから、特別に気持ちが引き締まるでしょう。ですが、私達はその時だけ仏教徒なわけでは無いはずです。起きていても眠っていても、私達は仏教徒であり真宗門徒です。 日常にも「ありがたい……」と思うことがあるのではないでしょうか。 難しい単語や話を聞けば、勉強した気になるものです。(私も人のことは言えませんけれども) でも、頭で知識を吸収するのがご法話を聴くことではないと思うのです。心で聴くのが「お聴聞する」ということではないでしょうか。 忙しい日常に戻れば、忘れがちになってしまうことでしょう。ならばご法話に耳を傾けているその時だけでも、生活の中に生きているみ教えに気づかせて頂きましょう。 影現寺だより1999年6月号より |
皆さんはお寺の行事にお参りなさったことはありますか。 京都に納骨に行かれたご家族が、こうおっしゃいました。 話が逸れてしまいましたが、お寺にお参りしたことがないという方、多いと思います。 お寺の行事(法要)というのは僧侶がやればいいというものではないのです。 年忌法要では亡き人にありがとうという思いでお念仏するでしょうけれど、それは亡き人からいただいた、お念仏を絶やすことなく伝えてゆく……この私に伝えてくださる機会なのです。 若かろうが元気だろうが、いつかはこの私も娑婆の縁つきて死んで往かねばなりません。 「お念仏の声を世界や子や孫に」伝える沢山の仏事(法要だけでなく日々のお勤めなども大切な仏事です)を通し、仏教徒である自覚を新たにして、「お寺の行事は関係ない」とか「葬式と法事だけすればいいんだ」というのではなく、私たちにお念仏が伝えられたように、今の私たちからも子々孫々に伝えていかなければと思うのです。 影現寺だより1999年5月号より |