1999年 9月 式章をつけましょう 6月 生活の中にも
8月 冥福は 祈らない 5月 お念仏を 伝える

 

式章をつけましょう

 蓮如さまの五百回遠忌で、本山にお参りした時のことでした。
「皆が首にしている、あれは何?」
と、一緒に行った友人に聞かれました。
 このような大きな法要では記念柄のお袈裟や式章がつくられるのですが、団体で参拝なさった方の中には記念式章をつけていらっしゃる方が多くいらっしゃったのです。
「あれは、
式章といって、浄土真宗の門信徒が、お参りする時につけるものなのよ」
と答えたのですが、実際に門信徒の方がつけていらっしゃるのは見る機会は少ないですね、残念ながら。

 「家にないから、わからない」とか「見た事がないから知らない」とおっしゃるかもしれませんが、ほとんどのお宅にはいくつかあるはずなのです。
 もちろん、本当に持っていらっしゃらないお宅もあるでしょうが、お仏壇の引き出しにしまわれたままだったり、たんすのコヤシになっていたり、ある事すら忘れていたというケースのほうが圧倒的なのではないでしょうか。

 例えば、お剃刀(おかみそり)を受けて法名をいただいた方や、院号をいただいた方がいらっしゃるお宅には、必ずあるはずです。お心当たりがある方は、探してみてください。きっと見つかると思いますよ。

 私達僧侶はお袈裟をつけます。
 普段首から下げているのが「畳袈裟」、法事などで肩から下げているのが「五条袈裟」、葬儀などで体にぐるりと巻きつけているのが「七条袈裟」といいます。
 このようなお袈裟は僧侶しかつけることができないものです。袈裟をつけているということは、僧侶の正装です。
 同じように式章は門信徒にとってお袈裟に代わるもので、門信徒の正装といえるでしょう。
 
日々のお参りに、葬儀や法事、報恩講などの行事……つまり阿弥陀様の前で手を合わせる時は、お念珠と同様に、いつも使っていただきたいものなのです。大切に箱に入れたまましまっておくものではありません。

 普段から熱心につけていらっしゃる方も中にはいらっしゃるのですが、そんな方でも
「葬儀や法事に参列した時に自分しかつけていなくて恥ずかしい」
のだそうです。
「恥ずかしくて、葬儀などではつけるのをやめて、日々のお参りの時だけつけるようになりました」
とおっしゃる方も……
 でも、ちゃんとした格好をしているのに、恥ずかしいなんておかしな話です。門信徒として一番の正装でお念仏している姿は、恥ずかしいですか? 皆がしているとかしていないとか、そんな事が重要でしょうか?

 もし、
「それは何?」
と聞かれたら、
「真宗門徒の正装だよ」
と教えてあげてください。
 お持ちでない方がいらっしゃるなら、仏具屋さんで購入できます。

 10月31日と11月1日は、当寺院の報恩講です。式章をつけていらっしゃる方が少しでも増えていると嬉しいのですが……

影現寺だより1999年9月号より

 

冥福は祈らない

 お坊さんは、ちょくちょく勉強会をします。ご講師を招いてお話を聞いたり、一つの問題について論議したりするのです。
 先日の内容は、弔電などの文章についてだったそうです。(住職が参加しておりました)

 皆さん、弔電の文章を考えてみてください。
「○○さんのご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げますと共に、心よりご冥福をお祈り申し上げます」
だいたい、このような文章が思いつくのではないでしょうか。テレビでも、いろいろな文例でも『冥福』はかかせない言葉のようですが、本当にそうでしょうか。

 『冥福』という言葉について考えてみましょう。
 『冥』の文字は暗いという意味を持っています。「冥土の土産に……」といわれる冥土は、暗い世界なのです。ですから、冥福を祈るということは「暗い世界で幸せにね」ということになります。
 でも、影現寺だよりを読んでいらっしゃる皆さんの多くは浄土真宗のご門徒のはずではないですか。(そうでない方も読んでくださっていると嬉しいですが)
 阿弥陀様は、暗い闇の世界に私達を連れて行ってくださるのではありません。極楽浄土は明るい光の世界、迷いの無い世界です。 このように
冥土に行かないのですから、『冥福』という言葉は相応しいとはいえませんね。

 先日、全日空機がハイジャックされたことが大きく報道され、亡くなった機長さんの葬儀もテレビ中継されていましたが、ご覧になりましたか。
 当然のように「ご冥福をお祈りします」とアナウンサーが言っていましたね。ちなみに機長さんはキリスト教徒です。「キリスト教は、神に召されて天国に行くんじゃないの?」と言いながら観ておりました。
 このようにマスコミが使うと日本語の常識のように思われがちですが、そうではないのです。 どんな時でもどんな場合でも
『冥福』『天国』『草葉の陰』『幽冥境を異にする』『泉下の人』『昇天』『ご霊前』『御魂』などひっくるめて使うのを聞きますと、宗教に重きをおかない日本人の姿を見た気がします。ちなみに、今あげた8つはよくつかわれるようですけれども、どれも浄土真宗として相応しい言葉ではありません。
 昔、布教使の方が「草葉の陰は、犬におしっこをかけられるから嫌だなあ」とおっしゃったことがあります。モチロン、私達が死んだら草葉の陰にいるのではなく、お浄土に往くのだということを、冗談めかしておっしゃったのですが。
 
仏となってお浄土に往かれた亡き人を、こちらの思いこみで勝手に暗い世界(冥土)に押し込めないようにしなければいけませんね(^o^)

 では、どう言えばよいのか?
 どういう文章がよいのでしょうか。
例文を考えてみたのですが……
××様のご逝去を悼み慎んでお悔やみ申し上げます。今はただ心静かにお念仏させていただくばかりです。
いかがでしょうか……?

 宗教は生活の一部です。
 死んだ人のためにあるのではなく、私達がどう生きるかということの拠り所になるものです。
 ご法話やお坊さんとの会話の中などで、み教えに耳を傾けてください。
 浄土真宗は、あれをしてはいけない、これもしてはいけない……と、こうるさい宗教だと言われることもあるようですが、耳を傾ければきっと、どれもこれも一緒ではないことがご理解いただけると思います。

影現寺だより1999年8月号より

 

生活の中にも…

 ご法話はたいてい「この間、こんなことがありましてね…」というふうに始まることが多いと思います。

 ある布教使さんに伺った話ですが、ご法話の席でこんなことをおっしゃった方があったそうです。
 
住職さん、私はあなたの世間話を聞きに来たのではないんですよ
どう思われますか?
 「失礼なことを言うなあ〜」というのが、その時の私の感想でした。
 しかし、後々考えてみますと、「宗教と日常生活は、別」と考えていらっしゃったのではないでしょうか。だから「世間話はいらない」とおっしゃったのではないかと思うのです。
 皆さんも心当たりはないでしょうか。
 たとえば「葬式や法事をやっておけばいい」とか「寺から行事の案内が届いたけれど、関係ないわ」(お寺の行事は門信徒の行事でもあるのですよ!!)とか「お寺さんが来られる日にお参りしておいてもらえば、あとはいいんだ」とか……極端な例ですけれども。

 寺院に参りますと、なんだか普段とは違う気持ちになるでしょう。だからといって宗教は特殊なものではありません。お寺にいる時だけ、仏事の時だけ、特別な自分になったわけではないのです。もちろん、親族が集まる行事は一大イベントですから、特別に気持ちが引き締まるでしょう。ですが、私達はその時だけ仏教徒なわけでは無いはずです。起きていても眠っていても、私達は仏教徒であり真宗門徒です。

 日常にも「ありがたい……」と思うことがあるのではないでしょうか。
自分だけで生きているのではない。ご先祖がいて、家族がいて、友達がいて、食べ物を作ってくれる人や運んでくれる人がいて……互いに助け合い、補い合い、心を掛け合って行くのが社会です。
たくさんの命に生かされている私なのです。
 人とのふれあいの中で……お仲間と一緒に手をあわせる時……家族の団欒の中で……「ありがたい」と感じませんか?
日々の生活に追われている中にも、み教えは生きているのです。
 最初に申し上げた布教使さんは、そういう意味のお話をなさっていたのでしょう。

 難しい単語や話を聞けば、勉強した気になるものです。(私も人のことは言えませんけれども) でも、頭で知識を吸収するのがご法話を聴くことではないと思うのです。心で聴くのが「お聴聞する」ということではないでしょうか。

 忙しい日常に戻れば、忘れがちになってしまうことでしょう。ならばご法話に耳を傾けているその時だけでも、生活の中に生きているみ教えに気づかせて頂きましょう。
 
亡き人のためでなく、阿弥陀様のためでもなく、私のために。

影現寺だより1999年6月号より

 

お念仏を伝える

 皆さんはお寺の行事にお参りなさったことはありますか。
「うちからは、おばあちゃんが行ってるけど……」
ということではなくで、
あなたはどうでしょうか。

 京都に納骨に行かれたご家族が、こうおっしゃいました。
「本山で朝のお勤めにお参りしてきたのですが、初めてお寺でお経を聴いて感激しました。仏教徒なんだなぁ…と思いましたよ」
 初めてお寺でお経を耳にした……?
私にしてみれば驚きの言葉でした。しかし考えてみれば、最近はホールで葬儀をしたり、ご法事もご自宅で勤めたりということが多いです。
 浄土真宗が盛んなわりには
仏前結婚式も情けないことに少ないですし、子供が生まれたといっても神社に七五三には行くのにお寺で初参式はなさらない……。
 というか、仏事=死という誤った認識があるので、多くの方はそのような行事をご存知ないのかもしれません。
 法要と一口に言っても、暗いイメージのものだけでなく、おめでたいものだってあるのです。

 話が逸れてしまいましたが、お寺にお参りしたことがないという方、多いと思います。
 また、ご家族のご法事は熱心になさるけれど、お寺の行事は他人事なんて思っていらっしゃいませんか。

 お寺の行事(法要)というのは僧侶がやればいいというものではないのです。
「念仏の声を世界や子や孫に」
という宗門の言葉があるのですが、ご先祖からあなたへ、あなたから子孫へ「阿弥陀様ありがとう、ご縁のある全てにありがとう」の心を伝えていくのは僧侶の努めであることは当然ですが、お念仏の仲間全員が携わっていかねばならないことです。

年忌法要では亡き人にありがとうという思いでお念仏するでしょうけれど、それは亡き人からいただいた、お念仏を絶やすことなく伝えてゆく……この私に伝えてくださる機会なのです。
 そして家族や親類だけでなく、沢山のお仲間とお念仏を喜ぶ機会をいただいたのがお寺の行事です。
 たとえば永代経は「子々孫々まで永代にわたってお念仏が伝えてゆかれるように」と勤まるものですし、報恩講は宗祖親鸞聖人の法事ですから、浄土真宗のみ教えにあわせていただく根本といえるでしょう。

 若かろうが元気だろうが、いつかはこの私も娑婆の縁つきて死んで往かねばなりません。
 その私の代わりに誰がお聴聞してくれるでしょう。誰がありがとうのお念仏ができるというのでしょうか。
 
私が聴かねば私の心に響かず、私がお念仏しなければ私の「ありがとう」ではないのです。

 「お念仏の声を世界や子や孫に」伝える沢山の仏事(法要だけでなく日々のお勤めなども大切な仏事です)を通し、仏教徒である自覚を新たにして、「お寺の行事は関係ない」とか「葬式と法事だけすればいいんだ」というのではなく、私たちにお念仏が伝えられたように、今の私たちからも子々孫々に伝えていかなければと思うのです。

影現寺だより1999年5月号より