1998年 9月 お布施 7月 法名
6月 何が ありがたいのか?    

 

お布施

 私の友人が門徒さん宅へ月参りに行った時の話です。

 門徒さんが、
「封筒に“御布施”と書くと、お寺さんに失礼だから、“志”と書くようにと、作法の先生がおっしゃいましたので…」
と、読経の後に“志”をくださったそうです。

 皆さんは普段、どのように表書きなさっていますか。本当に“御布施”は失礼な言葉でしょうか?
 結論から申しますと、この先生は誤った認識をしていらっしゃるようですね。実際は失礼でもなんでもなく、“御布施”と書くのが正しいと言えます。

 布施はサンスクリット語(古代インド語・梵語)の、ダーナからきていて、「施し」を意味します。
 布施には、
@ 法施ほうせ/お勤め・法話などを通じ、精神的な施しをするとともに、お寺をお守りする行為
A 財施
ざいせ/感謝の心を、お金や品物で施す行為
B 無畏施
むいせ/優しい言葉や笑顔で心を和らげる慈悲の心
の3つがあり、法施は私たち僧侶の行う布施です。そしてその
法施に対して皆さんが財施という布施をすることでお互いに与えあい支えあっているわけです。ですから、お参りの後にお寺さんにお渡しするのは、“御布施”でよいのです。

 また、“読経料”とか“回向料”というのは、法施に対して代金を払うことになってしまいますから、誤りです。

 そして、普段から家族や友達に笑顔で接していることが無畏施ですから、私達は知らないうちに布施をしていたことになります。
 笑顔で「おはよう」と言えば、相手も笑顔で返事をしてくれるでしょう。
 また、嫌なことがあっても優しく慰めてもらったり励ましてもらったりすれば、笑顔が戻ります。慰めてもらうほうも相手の優しい心と言葉に喜び、慰めたほうも返ってきた笑顔に喜ぶ。
 これもまた、お互いに与えあい支えあう姿です。

 「“御布施”は失礼だ」という考え方は、互いに支えあうではなく、「〜してやっている」という解釈からおこった誤解と言えるでしょう。

 

影現寺だより1998年9月号より

 

法名

 「法名というのは、死んだ人につける名前のことだ」と思ってらっしゃる方はおられませんか?
 また、「戒名ことでしょ」とおっしゃる方もおられるようですが、どちらも大きな誤解です。

 まず、「死んだ人の名前」だと思ってらっしゃる方、帰敬式はご存知ですか?「ききょうしき」と読み、俗に言う「おかみそり」のことです。
 平成8年、富山本願寺で三大法要が勤まった時に受式なさった方が何百人もいらっしゃいましたが、本山以外で帰敬式が行われるのはこのような大きな行事の時くらいですから、貴重な機会だったといえます。
 
親鸞聖人の前で、ご門主やそれに準じたお立場の方々の手で頭に剃刀をあててもらう(剃髪の意味)儀式をし、生前に法名(釈○×)をいただくのです。

 さて、法名と戒名、実はまったく別のものであることをご存知でしょうか。
 
「戒名」とは自力修行を目指し、厳しい戒律を受ける人に与えられるものです。禅宗や日蓮宗がそれにあたります。
 
浄土真宗では阿弥陀様にお救いいただくわけですから、自力修行や受戒を必要としません。ですから戒名も真宗門徒にそぐわないものなのです。
 「法名」というのは浄土真宗(阿弥陀様)に帰依した仏の子……お念仏のもとで生きていく証と言える名前です。
死んだ人の名前でなければ、厳しい修行によって授かるものでもありません。

 このような意味合いから、生前にいただくのは真宗門徒として理想の姿といえるでしょう。

 最後に……聞いた話ですが、本山参拝のお土産代わりに何度も帰敬式を受式される方(今はコンピュータで管理してるだろうから無理かもしれないですが)が、極まれにいらっしゃるようです。また、観光寺院で戒名をいただいたとか……
 法名とは何か、帰敬式とは何かということをご理解いただいたなら、何度も受式するべきものでもなければ、なんでもいただいて来れば良いというものでもないと、おわかりになったと思います。

影現寺だより1998年7月号より

 

何がありがたいのか?

 「阿弥陀様にお参りしていますが、まだアリガタイと思えないのですけど……」
と、ご相談を受けました。
 お誕生日にプレゼントを貰ったり、ご近所さんに何かお裾分けして頂いたり、バスで席を譲ってもらったり……そういうことなら「ありがとう」と心から言える。
 でも、阿弥陀様にお救い頂けると言われても実感がない……ということでしょう。
 この質問に、「正直な方だなあ」と思いました。そして、形だけでなく心から手を合わせたいと願う、この方の真剣さを感じました。

 私達が知っている阿弥陀様のお姿は、お仏壇にいらっしゃる掛軸やお寺の本堂にいらっしゃる木像のお姿ですね。(ほとんどのお宅が掛軸でしょう)掛軸の裏には「方便法身の尊形―ほうべんほっしんのそんぎょう―」と書かれているのですが、ご覧になったことはありますか?あのお姿は、ただの仏様の絵ということではないのです。

 本来、色もなく、形もなく、私達のようなものには推し量れない存在なのが阿弥陀様です。逆に言えば、私達にはかり知ることができるようなら、多くの人々を救い取るようなお力があるとは思えないでしょう。
 それを
私達が解るように、見えるようにと形をもって表されたお姿なので、方便法身というのです。

 まず、立っておられる。これは、私達凡夫を今すぐにでも救おうとなさっているお姿です。
 そして手は印を結んでおられます。右の手は『招喚』といって、「私達が真実の世界に還ってくるように」という願い、左手は『摂取』といって「何があっても救い取るぞ」という願いが表されています。
 『後光』といわれる後ろの沢山の光は、阿弥陀様が仏と成る前にたてられた48願を意味します。数えてみてください、光を表す線は、48本あるはずです。

 このように、ただの仏様の絵と(像)と考えるのではなく、姿形の意味を思いつつ手を合わせれば、阿弥陀様のお心が「ありがたい」と感じられるのではないでしょうか。

 ご本尊ではなく、お飾りで考えてみましょう。
 蝋燭の灯は、手元の経本を照らすものではありません。また、阿弥陀様を照らして差し上げるものでもありません。
無量寿・無量光を表します。
 『無量』というのは量が無い……計り知れないということ……つまり、
限りない慈悲の温かさと、限りなく私達を照らす智慧の光です。
 次にお花。昔から敬愛や尊敬や感謝の気持ちが込められるものだと思います。そういう意味かどうかはわかりませんが、まれに、阿弥陀様に捧げるような方向に向けているお宅があります。
 阿弥陀様への気持ちを込めてお供えした花ではありますが、それと同時にそのお花を通して私達に教えてくださるのです。人間からみれば短く儚い花の命ですが、精一杯咲いていますね。そしてその花の命は、花粉を運んだ虫、土や水、心を込めて世話をして育てた人等、多くのご縁によって生かされてきた命です。
 同じように
私達も生かされている尊い命であると感じて欲しい。ですから、造花は用いないで、命ある生花を私達に向けてお飾りしてください。

 生かされていることに気づけば、自然と「ありがたい」と感じられるようになるのではないでしょうか。

影現寺だより1998年6月号より