1997年 12月 お経 11月 数珠 10月 ほんこはん
9月 お経は誰によむ? 8月 寺参り 7月 永代経

 

お経

 本紙(配布している影現寺だより)にて何度かご案内いたしましたのでご存知と思いますが、最近当寺院では手作り教本の会を始めました。
 といっても難しいものではなく、手本の通りに書き、和綴じに製本するものです。勿論、道具や材料さえあれば、ご自宅でも出来るわけですが、お経は空いた時間にパパッと書くのではなく、お寺で、または仏間で、阿弥陀様の前で心静に読経するのと同じ気持ちで、味わっていただきたいと、募集したわけです。

 この手作り教本は、祈願の為ではなく、毎日とおつとめに役立てていただく為のものですが、既に皆様は市販の経本をお持ちのことと思います。しかし、それを役立てていらっしゃいますか?お仏壇の中や経卓(お仏壇の前にある経本を置く机:お仏壇ページの荘厳参照)の上に飾っているだけの方はいらっしゃいませんか?
 お仏壇の棚に置いてあったり引き出しに入れているのなら良いのですが、畳や床の上にポンと置いているなんて方はいらっしゃいませんか?
「保管の仕方まで言われなきゃいけないなんて、なんてうるさくて面倒なものなんだ……」
と言われるかもしれませんが、それほど大切なものなのです。

 三部経という言葉を耳にしたことはありませんか?これは浄土真宗のみ教えの基である、3つのお経のことです。正依の経典といって、「仏説無量寿経」(大経)・「仏説観無量寿経」(観経)・「仏説阿弥陀経」(小経)を、指します。
 仏説というのはお釈迦様が説かれたという意味で、要するに、お釈迦様のお説教なわけです。
 私たちがよく知っている讃仏偈重誓偈にしても、大経から抜粋された偈(うた)ですから、やはりお釈迦様のお言葉ということになります。
 ですから、お経の長さによって、どれがありがたいというのは、誤りだとご理解いただけるでしょう。

 経本はただの印刷物でもなければ、読経に使う歌詞カードでもありません。阿弥陀様の願い(誓い)や、お浄土について書かれている仏説そのものであり、信仰の根本である“教えの本”なのです。

 ちなみに、「正信偈」は、仏説ではありません。ご存知の方も多いと思いますが、宗祖親鸞聖人が書かれた讃歌です。訳された「しんじんのうた」を読むと、阿弥陀様の素晴しさと、七高僧(聖人が特に素晴しいとされたインド・中国・日本の高僧で本堂向かって左に安置される)のおっしゃったことが書かれています。浄土真宗の教えを要約した、大切なものなのです。

 ここまで読んで、お経の大切さをご理解いただけましたでしょうか。これだけ大切なものですから、床の上に放っておいたり、上を跨いだりできませんね。
 経本だけでなく、念珠も同様です。先月号の「数珠」では、その大切さと重要さが書かれていたことをご記憶でしょう。
 経本は、机・経卓の上やお仏壇の引き出しに。法要に出かけた時など、近くに置き場所の無い場合は、バッグや膝の上等、気を配りたいものです。

影現寺だより1997年12月号より

 

数珠

 門徒さんから大変大きな数珠をご寄付いただきました。丸く広げると直系2メートル程もあり、「念仏の輪を大きく」という思いに調度よいと、「是非いただけませんか」とお願いしたものです。銀杏の木で出来ていて、珠には「南無阿弥陀仏」と刻んである、門徒さんの手作りです。(本堂の壁にかけてあります)

 房を見る限り浄土宗で使われるもののようです。皆で輪になり、数珠を回しながらお念仏を称えるのです。
 浄土宗ではお念仏することを行と言い、出来るだけ沢山お念仏することを勧める為、50回称えただけでも数珠が一回りすれば108回称えたことになるとして、数珠を回すのです。文字通り、数える珠として使われているわけです。
 しかし、浄土真宗にそういう行はありませんし、そのうち房を浄土真宗のものに取り替える予定です。(後日、紐を通しなおして編みかえました)

 数珠は珠が108個あり、2重にして使うものを二連珠と呼びますが、普段には長すぎる為27珠(4分の1)の短念珠が多く使われています。
 勿論、108個というのは108煩悩からきた数です。それは文字通り、私の心を煩い悩ますものです。
 縁に会えば…つまり、見え、聞こえ、匂えば、心が煩います。
 欲しいものが手に入らなければ、愚痴も出るでしょう。願いがあれば沢山の人に頼み、終いには神仏にまで頼みます。
 しかし、失敗すれば他人のせいと恨み、「神も仏もあるもんか」とまで腹を立て、愚痴を言う…欲を起こし、腹を立て、愚痴をこぼすことは「三毒の煩悩」といい、代表的なものです。
 また、煩悩とは別の言葉に置きかえれば、本能といってもよいでしょう。

 平素、私は善人であり、正しい考えを持って生活している」と思っていますが、本当にそうでしょうか。心にある言葉の中から選んで言葉にしたり行動したりしているのではないでしょうか。心のままに行動すればどうなるでしょう。恥ずかしいことや悪いことが沢山あるはずです。それを他人に知られないように選んで言葉にし、行動しているのです。それを自分はよく知っているはずなのですが、実際は平生気もつかず善人だと思っています。そんな自分に気づく為のものが、数珠なのです。

 親鸞聖人の御和讃(日本語で作られたうた)に、
「煩悩のまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
とあります。
煩悩が邪魔をして私からは見えないが(阿弥陀様からは悪を思う私の心がよく見え)常に心配して私に摂取の光りを注いでくださいます
という意味です。
 煩悩があるからやむなく悪をつくる毎日。それを仏教では「悪業をつくる」と言います。悪業をとすれば、が揃ったらどんながでるでしょう。地獄・餓鬼・畜生…そんな私達の心を全部ご存知の阿弥陀様は、煩悩を捨てよ、沢山念仏を称えよ、といった条件を一切つけずにお救いくださいます。狭い心の私と違い、大慈悲心をお持ちです。我が子を思う親のように傍に来て下さって、摂取不捨
(せっしゅふしゃ:つかまえてはなさない)の働きをしておられる、親様なのです。

 本願寺第8代蓮如上人は
「ここ3、4年の間念仏者を見ていると、信心を喜んでいるとは思えない人が沢山いる。何故なら数珠一連をも持つ人がいない。まるで仏様を手掴みにするようなもので、親鸞聖人は数珠を捨てて仏を拝めとはおっしゃらなかった」
と、嘆いておられます。
 煩悩を表す数の珠を持つことで我が身を振り返ってお参りする、」大切な法具です。
 お参りする時は、必ず数珠を持ちましょう。

住 職

影現寺だより1997年11月号より

 

ほんこはん

 報恩講の時期が来ると、どこのお寺さんも、ご門徒の家々とあちこちのお寺を飛び回ります。当寺の住職も、例外ではありません。法事や毎日のお参りも大切なことですが、浄土真宗にとって報恩講は最も大切な仏事なのです。浄土真宗のお寺なら、必ず報恩講をつとめます。

 報恩講は、宗祖親鸞聖人のご命日につとめられることから“御正忌”とも呼ばれています。
 聖人のお徳を偲び、そのご恩に報いるよう、お念仏をよりいっそう味わわせていただこうということからつとめられる行事です。

 聖人は弘長2年11月28日(旧暦)に、京都で90歳の生涯を閉じられました。聖人のお徳を偲んで、毎月28日にご門徒が集まってお念仏するようになったのが、始まりです。
 後に、覚如上人(第3世)によってお念仏の集会の基本が形作られ“講”と呼ぶようになり、聖人のご恩に報いる講ということで、“報恩講”となりました。

 現在、ご本山では新暦にあらため、1月9〜16日までつとめられています。
 どなたもご先祖の年忌法要は、結構気を配っておつとめなさっていると思います。では、報恩講のお参りはいかがでしょう?
 亡くなられた方々は、阿弥陀様の本願力でお浄土に往かれ、仏となられました。そして今、私たちに「助かってくれよ」と願ってやまない大慈悲心の阿弥陀様の傍で、お手伝いしていらっしゃるのです。「聖人のみ教えをよりどころに歩んで欲しい」というのは、私たちが大切にしているご先祖の願いと言えるのではないでしょうか。

 お念仏する私たちにとって、報恩講は何よりのご縁となる法要です。

影現寺だより1997年10月号より

 

お経は誰によむ?

 私が月忌参りに寄せていただくようになって、しばらくたちました。ご門徒の皆さんとお話しする機会も増え、楽しく過ごさせていただいています。
 会話は日常のことがほとんどですが、中には色々と質問なさる方もいらっしゃって、緊張することも……お寺で育った人間にとっては疑問に思わないことでも、皆さんの立場からすれば、不思議なことは色々あるのですね。

 ある時、七日参りにうかがったお宅で、『御文章』の話になりました。
 ご門徒の方の中には、お参りが終わるのが合図のように、ご文章を拝読している間にお茶を入れに行かれる方がありますが、
「これは蓮如上人が全国のご門徒にみ教えを伝えるために書かれたお手紙です。阿弥陀様に読んでいるのではなく、皆さんに読んでいるものなんですよ。ちゃんと聞いていただきたいのです。」
 これには、ナルホドと納得していただきましたけれど、そこでご門徒さんに一つの疑問がわいてきました。
「じゃぁ、お経は誰に向かって読んどんがですか?」
(読んでるのですか?)
 さて、皆さんは、どう考えていらっしゃいますか?私は“阿弥陀様に向かって”と答えたのですが、不思議な顔をされました。
「じゃぁ、死んだ人にはどのお経をあげればいいのでしょう?」
丁度“七日参り”ということで、お仏壇の隣にはお骨の乗った祭壇がある
(阿弥陀様のお軸もお掛けしてますが)わけですから、阿弥陀様ではなく、お骨になったおばあちゃんに向かってお参りしたくなる気持ちは、当然だと思います。
 しかし、阿弥陀様ただ一仏に帰依するという私たち浄土真宗の教えでは、そのおばあちゃんは亡くなった時すぐに阿弥陀様のお救いによってお浄土に生まれ、仏となられたのです。ですから、本当ならお骨を礼拝の対象とせず、唯一、阿弥陀様なのです。

 ですが、先に書いたとおり、家族としては亡き人に向かってお参りしたいでしょう。ですかた、私や住職は、お骨の前でもおつとめしてきます。(阿弥陀様のお軸はありますし)

 でも、亡くなった方はその瞬間、阿弥陀様の「絶対救う」という願いによって既にお浄土に往生されているわけです。
 じゃあ、お骨は?それは、亡き人の身体の一部であった何よりの形見なのです。そこには誰もいないのです。お骨に魂が宿っているとか、亡き人が四十九日間そこにいて、お経の功徳によって成仏させるという考え方は、大きな誤解なのです。

 お経と言うのは一般的に考えられているような、悪霊退治だとか、死人を救ってやるといった力があるわけではありません。浄土真宗で用いるお経は、釈尊(お釈迦様)の説法を弟子達が書きまとめたもの(阿弥陀様について)、親鸞聖人が教えを説かれたものです。ですから、おつとめの最中は、釈尊の説法や親鸞聖人の教えをキチンとお聴聞するか、一緒におつとめするのが本来です。

 私たちは、亡き人に導かれてお念仏に出会いました。
 私たちがそのご縁を喜び、共にお念仏することが、亡き人の喜びなのです。
 亡き人を思い、お徳を偲びつつ、日々お念仏していきたいものです。

影現寺だより1997年9月号より

 

寺参り

 「ごんげはん、わし、まだ寺に参るにちゃ早すぎっちゃ。ばぁちゃんに任せときゃいいがよ」(ちょっとコテコテ過ぎる富山弁ですが…住職さん、私、まだ寺に参るには早過ぎます。おばあちゃんに任せておけばいいんですよ…という意味です)という言葉を耳にします。残念な事です。
 だからといって、宗教にまったく関係無い生活を送っているかといえば、そうではありませんね。
 お正月には初詣、子供を七五三に連れて行き、受験にはお守りを買い、教会や神社で結婚式、厄年だといえば神社で厄払いをしてもらうのですから。残念なことに、ご門徒の皆さんは、お葬式になってはっとお寺にやってくるのです。

 私が小学校の頃、暮らすの男の子に言われた、忘れられない言葉があります。
「お前の家は、人が死んだら儲かって、いいな」
と、馬鹿にしたように言ったのですから、今思い出しても悔しいです。涙が出るほど腹がたった記憶があります。子供心に、僧侶である親をけなされたように感じたからです。

 今にして思えば、彼は本心からそう思っていたのでしょう。家族がお寺にどう接しているか、お寺をどう思っているか、それを見て、感じて、私にストレートにぶつけてきたのだと思うのです。
 『子は親の鏡』とはよく言ったものですよね。子供が知識を吸収して大人になっていく段階で、一番身近な家族が
「お寺は、葬式するところ」
と考えていれば、それが子供の中では常識として記憶されていくのですから。
 「儲かる」というのは、『坊主ボロ儲け』という言葉からかもしれません。

 坊主ボロ儲けかどうかは、また別の機会にお話するとして、お寺参りの話に戻りましょう。
 『葬式仏教』と言われますが、お寺は人が亡くなった時だけ必要なわけではありません。真宗門徒としての人生の通過儀式といえるものをご紹介しましょう。

☆初参式(しょさんしき)

子供が生まれたことを喜び、1〜3ヶ月位の間(決まってはいないので都合次第でいつでもよい)にお寺にお参りして、仏の子として人生の出発をする式

☆成人式

20歳の成人にあたり、人と生まれて育てられた意義を自覚し、真実に生きることを阿弥陀様に誓います。本山で行われていますが、大げさに考えず、自宅で阿弥陀様にお勤めしてもよいでしょう。

☆結婚式

阿弥陀様の前で、新しい人生の出発をします。
仏前結婚式は特殊な感じがするかもしれませんが、昔は式場やホテルなどなく、自宅の仏間で結婚式を挙げた方が沢山いらっしゃったはずです。
お手継ぎのお寺の本堂、国内外の別院などで行えます。

 この他、建築の定礎、起工、上練、落成などにも、阿弥陀様にご報告をして報恩感謝の思いをあらわすお勤めをします。
 宗教というものは、嬉しい時も悲しい時も、年齢に関係無く、生活の中で大切なものです。
 時と場合によって神仏を使い分けるというのは、日本の慣習が伴っているとはいっても、やはり好ましいとは言えません。それに、本来、人間に使い分けられるほどの知識や甲斐性があるわけではないのです。(もちろん私達僧侶も同様です)
 何十年生きていても、世の中の全てを知ることはできないのですから。

 とはいうものの、先に挙げた”神社への初詣”などの宗教行事は慣習として根強く、
「そんな、信じてるわけじゃないんですけど」
と言いつつも、はぶくと気持が悪いようです。また、宗教行事というだけでなく、国民の年中行事のように感じているのですから、パッと切りかえるのは困難な事でしょう。(でも、何故神社や有名観光寺院に初詣に行くのに、お手継ぎのお寺には皆行かないの?)
 ただ、真宗門徒として、「お寺は葬式をする時にしか用が無い所」ではないことを、そして、「寺にお参りするには、まだ早い」という考え方は間違いである事を理解していただきたいと思います。

影現寺だより1997年8月号より

 勿論、ご門徒さんの中には、初参式にいらっしゃったり、「真宗門徒だから」と宮総代をお断りになったり(これは地域がからむので、大変だった事と思います)、勉強会(連続研修)に参加なさったりと、熱心な方もいらっしゃいます。皆様がここまでの記事を読んで、お寺がどんなところか」ということに興味を持っていただけたら幸いです。

 

永代経

 昨月15〜16日、当寺において永代経法要がつとまりました。
 永代経と申しましても、そのような名前のお経ではありません。

 私達は肉親の死を悼み、年忌法要(法事)をつとめますが、やがてはつとめる側だった私もこの世を去り、お浄土へ参る日がやってきます。
 では、その後は誰がおつとめするのでしょうか。永い年月が過ぎ、故人を知る人がいなくなってしまえば、おつとめされなくなってしまう心配がありますね。実際、50回忌くらいが限度のようです。
 そのため、祖徳を偲んでおつとめさをお寺さんにお願いします。もう、おわかりですね。“永代”にわたって“お経”をあげるので、“永代経”と言うのです。

 亡き人への思いが込められた法要なわけですが、本当に大切なのは、子々孫々まで御仏のお徳を伝え、皆でお念仏を喜び分かち合っていくことです。
 そのために、お寺を護持し、いつまでもお念仏が絶えないようにという亡き人の思いを汲んで納めるのが“永代経懇志”です。

 このような意味合いから、当寺では、とくに希望された方だけではなく、門信徒の皆様全員にご案内しています。
 来春も皆様のお参りをお待ちしております。

影現寺だより1997年7月号(第1号)