お水について

 多くのお仏壇には「湯茶器」に水を入れてお供えしていらっしゃいます。「湯茶器」でない場合は、お猪口や小さなコップで代用なさるお宅もあるようです。 阿弥陀様や仏と成った亡き人の喉が渇くという思いからかもしれませんし、他のお宅でそうやっているのを見たからかもしれません。

 多くのお宅でお見かけするので、ある時、私は仏具屋さんに
「お仏壇を買いにいらっしゃった方に湯茶器も必要だと勧めたりなさるのですか」
と、うかがった事があります。すると、
「いいえ、浄土真宗ではそのような作法はないのですから、こちらがお勧めするようなことはありません。お客様がお求めになるのです」
という答えが返ってきました。 
やはり多くの門徒さんが「必要なものだ」と思いこんでいらっしゃるようです。

 この仏具屋さんがおっしゃるように、お仏壇のお飾りというのは作法であり様式が決まっていますから、
「いらないから供えないで」
と言ってしまえば終わりなのでしょうが、阿弥陀様や亡き人を思う心から出た行為であるなら、それだけでは納得していただけないでしょうね。

 皆さんが日常お使いの勤行要集(お経の本)に必ず書かれている『仏説阿弥陀経』に、
  
有七宝池 七種の宝石でできた池に
  八功徳水 八つの功徳が有る水が
  充満其中 満ちている

という言葉があります。
 
八功徳水とは、澄浄・清浄・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇等を除く・身体の健康を増す…という特性がある水のことだそうです。 このような特上のお水が極楽浄土にたたえられていれば、仏様が喉の渇きに苦しんでいらっしゃるわけではないでしょうから、わざわざ私達が水道のお水をさし上げる必要はありません。
 また、亡き人を思う心から出た行為であるにしても、喉が渇くだろうから…という供え方は追善の意味合いが強く、浄土真宗の教えに…阿弥陀様のお心に沿うとは言えないのではないでしょうか。

 何かの本で読んだのですが、
「亡き人の喉が渇いていて水を欲していたり、空腹でご飯を欲しているというなら、仏に成ったのではなくて、餓鬼道ではないか。そのような考え方は、仏と成った亡き人に失礼ではないか。」
と書いてありました。

 浄土真宗ではまったくお水を供えないのか…というと、そうではありません。しかし、意味合いも方法も違うのです。
 お水は私達が生きていくのに欠かせない自然の恵みです。食べ物であるご飯を「お仏飯」としてお供えするように、恵みに感謝して供えるのです。
 そして華瓶(けびょう:お花を供えている花瓶とは別のもの)という仏具を用いて、樒か青木をさし、花は用いません。
 元々、日本に伝来する前から仏教では香水(こうずい:水に香木で香りをつけたもの)を供えるのが作法だったそうで、鑑真という有名な僧侶が日本に仏教を伝えに来た時、香木の代わりになるものとして樒を用いたのだそうです。
 また、お水が腐りにくいように防腐剤の効果もあります。だからといって、お水を取り替えないのは……いけませんね。
華瓶にしても花瓶にしても、毎日お水は取り替えていただきたいものです。

 尊い自然の恵みに香りをつけてお供えする行為には、阿弥陀様への敬いや感謝の心が表されているのです。
 しかし、大型のお仏壇でもないかぎりスペースの関係上、華瓶は置けません。その場合には無理やりにお供えしなくてもかまいませんし、
「湯茶器」は華瓶の代用にはなりませんので、必要ありません。

2000年2月