2003年 今月の言葉 2月 3月 4月 5月 6月 7月 9月 10月

 

「人間だもの」と 言い逃れ
「人間のくせに」と 他人をせめる

 世界中で一番可愛い者は自分でしょう。自分以外の人には、無意識のうちに順番をつけているような気がします。
 自分の言うことには
「うんうん」
何でも聞いてくれる都合のよい人には”良い人”と言い、自分にとって都合の悪い人は”悪い奴”と思っていませんか?
 また、同じ人でも、或る時は”良い人”、或る時は、”悪い奴”。そんな時もありませんか?
 そんな自分であることに気づきたいものです。まさに自分本意で自己中心の本性を懺愧したいものです。

 児童文学者の花岡大学先生の作品に、大きく見える眼鏡と、小さく見える眼鏡の話があります。
 自分にとって都合の悪いことは小さく見えるのです。他人にとって都合の悪いことは大きく見えるのです。意識せずに眼鏡を掛け換えている……という内容の話でした。

 私の若い頃の話です。
 あるお宅のお婆ちゃんが、誤って擂り鉢の底をぬいてしまったのです。
 仕方が無いので植木鉢にしようと思い、瓦の欠片か石を底に当てようと探していました。
 それを見たお嫁さんが私に、
「(擂り鉢の底をぬいたのが)自分でなくて良かった」
と言いました。立場が逆なら、何を言われるかと思っての言葉でしょう。

 私がお婆ちゃんの立場なら、どうするでしょうか。お嫁さんの立場なら、どう思うでしょうか。

 私たちの日常で、善悪のけじめをつけることは、非常に大切なことです。言って良い事・悪い事、して良い事・悪い事のケジメがなければ、社会の秩序が乱れ、生活の安全が保てません。ですから、善悪の基準が問題になります。十人十色と言いますが、人は皆、都合が違います。
 株価が上がって喜ぶ人がいれば、空売りしていた人は泣きます。
 封建時代の善が全て現代でも善とは限りません。
 戦争に勝って英雄になった人、負けた国・征服された国にとっては悪魔でしょう。
 医学の為に動物実験をします。動物にとって医学者は悪魔でしょう。

 こんなふうに考えると、何が善か悪かわからなくなってきます。最終的には、自分にとって都合が良いか悪いかということで判断しているように思えます。

 親鸞聖人は、こういうことを”そらごと たわごと”と言われました。
 聖徳太子様は、17条憲法の第10条に
人みな心がある。その心はそれぞれに自己中心的な執らわれに支配されている。だから他人が良しとすることを非とし、自分が良しとすることを他人は非と見るようになる。
でも、必ずしも自分が過ちを犯さない聖人ではなく、他人は過ちを犯す愚者ではない。
共に自己中心的な妄念に振舞わされている凡夫にすぎない。
この凡夫どうしが是非を争ってみても、それを決定することは誰にも出来ない。
お互いに賢さと愚かさが同居していて、丁度、円形の耳飾の輪の一点が始めであると同時に終わりであるようなものである。

と、述べられています。

 じゃあ、どうしたらいいの?
 私にもわかりません。顔や口で頷いて、心で逆らっている毎日です。どうにも出来ません。悔しいけど、一生”凡夫”のままです。
 親鸞聖人は”凡夫”を救う為に仏としての命をかけて下さる阿弥陀様だけをあてたよりにされました。他人の言葉や行動に腹をたて、愚痴を言わずにはいられない私に気づく時、私の為の阿弥陀様に懺愧し感謝してゆくほかありません。

 人様を見つめることは簡単ですが、自分を見つめることほど難しいことはありません。でも、そういう時間を持ちたいものです。

 

住  職

2003年10月

 

道は近きにあり
まよえる人は それを遠きに求む

 今月の言葉は、お東(真宗大谷派)の学僧、清沢満之先生の言葉です。

 津市に、飛鳥居昌乗という、ご住職がいらっしゃいます。三重県青少年育成センターの所長さんをしていらした方です。
 この方は、こんな事を書いていらっしゃいます。

 夏休みにやってきた孫達へのサービスに、巨大迷路に遊びに行きました。
 ゲートをくぐるや、6人の一家は散り散りバラバラになり、キャッキャッと声はしますが、何処に居るかサッパリわかりません。巨大迷路には所々に少し高い所があり、そこから見るとだいたいの見当がつけて、再び歩き出すのですが、やはり迷路は複雑で、ゴールは簡単に到達できません。
 こんな時に、ヘリコプターか東京タワーのような高い所から迷路を走り歩く人たちを見たら、さぞ滑稽で哀れな様でしょう。
 ゴールに到達する最短経路があるのに、彷徨い歩く人の姿は、正しく「人界」と言えましょう。人と争い貧欲にあけくれ、名利を追い続ける私ども人間に、巨大迷路は何かを教えてくれているようです。

と。

 迷路から抜け出られるだろうか……と、不安もあります。早く出たいと、焦りもあります。
 迷路では、辺りを見ることが出来る高い所が途中にありましたが、私の人生で、そんな所があるでしょうか。
 目的に向かっている私は何処にいるのだろうか、どんな自分だろうか……と、じっと考えて見ますと、過去の積み重ねの上に今の自分があるはずです。その積み重ねた自分が今、何処へ向かって何をしているのでしょうか。考えてみたいものです。

 私の場合は、毎日お参りがあり、日曜日には法事があり、ご法話に出向き、疲れてくると
「このご法話、約束しなければ良かったかなぁ(_)」
り、愚痴を言い……というような生活です。欲を起こし、愚痴を言い、腹を立てるばかりの生活です。年齢や体力・能力を考えなくてはいけませんね。

 迷路の出口を出た時には、最高の喜びがあります。でも、家族はみんな出ることが出来ただろうか?と、不安もあります。
 このように、私の生きるこの世界には、楽しいこと・悲しいこと。辛いこと・苦しいこと等が沢山あります。

 当寺へ毎月お参りされるご婦人がいらっしゃいます。昨年12月に、お母さんになられました。そのお子さんを連れてお参りされますが、乳飲み子の1ヶ月の変わり様には驚かされます。段々と可愛らしくなっていくのが楽しみで、待っています。8月には数枚の写真を撮りましたが、可愛らしく写っていました。

 そのように成長する子供は皆に喜びを与えてくれます。
 一方、ご婦人にしてみたら、若くして亡くしたお母様の命日にお参りされるので、一緒にお経をよんでいると悲しい日になります。でも、成長する子供を見て、皆で賑やかに話していると、嬉しいことでしょう。

 阿弥陀様は、何時も私の傍にいてくださいます。それはどうしてか?私が、

凡夫(ぼんぶ)/知識と感情が揃わない愚かな者。
貧苦(びんぐ)/”可愛い”という考えにも、無意識に順番をつけている。身体が疲れると、心も荒れる。
悪人(あくにん)/見えれば、聞こえれば、匂えば、心に悪を作る。

だからなのでしょう。嫌でもどうでも、そのような心をもっています。どうですか?
 ですから、阿弥陀様は心配でたまらず、私の傍から離れることが出来ないのです。

 迷路の高い所から辺りを見るように、阿弥陀様の心を思い出せば、過去の積み重ねの今の自分。欲心・愚痴を離れられないこと、苛立ち・腹立ちなどの多い自分を見ることが出来るでしょう。

 仏教とは、覚られたお釈迦様の教えであり、仏に成るための教えなのです。
 ですから、人間界から抜け出て静かな世界・覚りの世界で、仏に成りましょう……というのが、浄土真宗の教えなのです。

 ただ、今まで言いましたように、この肉体を持って苦しみの多い世界に居る限り、自分で覚りの世界に行くことは出来ません。
 ですから、
力尽きて終わっていく時、阿弥陀様に連れられて、阿弥陀様の世界へ行き、仏に成らせていただくしかないのでしょう。

住  職

2003年9月

 

お念仏を頂けば お浄土で会えるよ

 年齢を重ね、長生きをすると、それだけ友や家族など大切な人たちを見送っていかねばなりません。
 お参りにうかがってお話していますと、長生きはしたいけれども、そういうことがまた寂しくもあると言われます。

 青年時代に戦火を潜り抜けてきた世代の方は、苦労をともにしたお仲間と集まって、あれやこれやとお話しするのを楽しみに思っておられました。
 しかし、年を追うごとに、ある方は病に倒れ、ある方は亡くなり、段々と参加者が減っていってしまったそうです。
 そして自分もまた同じように老い、出歩くことが難しくなってくる。友を見舞うことも、葬儀に参列することも、自分で病院に通うこともままならなくなってくる。若い頃の懐かしい思い出を話し合える相手もいなくなる。

 家族と一緒にいても……家族との会話とはまた別のものだと思います。やはり同世代の人と話せる楽しみがなくなるのは、寂しいことでしょう。

 私たちだって、友達と話すことを家族にも同じように話すかと言えば、また違うのではないでしょうか。学生の頃のこと。仕事をしている時のこと。それぞれそこに同じものを見て、助け合った仲間がいる。そういう繋がりの中での会話があるものです。仲間と言うのは、家族とはまた違って、かけがえのないご縁で繋がった大切な存在です。

 大切な方を亡くされますと、もう1度会いたいと思われることもあるでしょう。いつも助けてくれたご両親に会いたい。可愛がってくれたおじいちゃんおばあちゃんに会いたい。楽しい時を過ごした友達とまた話したい。そう思って写真を眺めたこともあるでしょう。

 浄土真宗は、阿弥陀様のお力によって仏に成らせていただく教えです。
 仏と成った亡き人はお仏壇の中に住んでいるわけでもなく、お墓の中に住んでいるわけでもなく、阿弥陀様に救われてお浄土で仏と成られ今も私たちに心をかけてくださっています。
 寂しい・会いたい、と思う心は、生きている私たちとしては当然おこる気持ちでしょう。
 私たちも手を合わせ、阿弥陀様に仏に成らせていただいて、お浄土でまたお会いできるような生き方をしたいものです。

2003年7月

 

先祖は迷っていない 自分が迷っているのだ

 暑い季節になりますと、幽霊が出るという場所や、祟りがあったという特集番組がよく放送されますね。
 お岩さんなどの 昔から伝わる怪談をドラマ化して放送されるものは観ることがあるのですが、先に書いた特集番組は、亡くなった方をさも悪人のように、汚いもののように扱うので、私はどうしても好きになれません。
 まぁ、好きじゃないなら観なきゃいいじゃないかというだけの話なんですけども。

 しかし……ああいうものの影響なのか”死”そのものが恐いからか、汚いもののように感じる方がいらっしゃるようです。
 いつか私も死んでいく身です。
「死んだ後にどう言われようが、知ったことじゃない」
なんて強がる方もいらっしゃいますけど、家族や友達にそう思われたら悲しいと思いませんか。
 また、可愛がってくれた人に対して私たちがそんな目で見てしまうことを、失礼だと思いませんか。

「そんなことしたら、バチがあたるよ」
とか
「なんかよくないことがあるよ」
幼い頃にイタズラをしたら、そんな脅し文句で叱られたことはないでしょうか。そういうことばと言うのは、どこか潜在的に残っているもので、”死”そのものだけでなく、お仏壇や大切な仏様、ご先祖まで恐いものにしてしまいます。

 例えば、納骨までの49日の間、家を空けたらよくないなんて言うことがあるようですね。亡くなった人の魂が家に居るからなんだそうです。
「骨は、大事な形見なんだから、粗末にしないようにってことで、おばぁちゃんは買い物にも行かなきゃご飯食べられないし、挨拶回りにだって行かなきゃいけないし、若い人は仕事に行くようになるでしょ。家を留守にしたっていいんだよ。粗末にしないで、蝋燭と線香の火にだけは気をつけてね」
と、申し上げると納得されるんですけども、後日うかがうと
「近所の人に、留守にしたらよくないから駄目だって言われたんです……」
ということもあります。
「なんかよくないことがある」
と言われると、根拠云々以前に恐くなるとは思うんですけども、
”なんか”ってなんでしょうね。
 亡くなった方が大事な家族に悪いことをすると言うのでしょうか。仏様になられた方が私に意地悪をするというのでしょうか。

 この世の命を終えた後、阿弥陀様がお救い下さって、仏の世界に往き仏にしていただくのが私たちです。仏の世界は迷いの世界ではなく、覚りの世界。
 成長を見守り喜んでくださった親が亡くなったとしたら、今度は仏様になって
「お前達も救われてくれよ」
と、また私たちみんなを見守り、働きかけてくださっています。
 その仏様を勝手に迷い者にしてしまっているのは、あちこちからの雑音に迷わされている、生きている私たちではないでしょうか。

 人の意見をきくなというのではありません。
 沢山の壁を越え、愛するものを守り、守られ、生かし、生かされている自分が、迷いの世界で精一杯生きているのだということを、忘れないで欲しいのです。

2003年6月

 

日が暮れて あしたを 思う 有りがたさ ー多田政彦ー

これは、浄土真宗門徒の男性の言葉です。

 仲の良い友達が結婚して、子供が生まれた後、
「晩御飯を3人で食べてる時にね、子供にご飯を食べさせてあげながら、3人でいられて、今日も食卓が囲めて、なんて幸せなんだろうって思って、涙が出てきた」
と、ちょっと照れながら話してくれました。

 私たちの世代は、飢えたことが無い世代です。今日のご飯に事欠いた知人は、少なくとも私にはいません。有りがたいことです。
 しかし、それだけに、ご飯が食べられて、無事に食卓が囲めて幸せだと感じることはほとんど無いといっていいでしょう。
 テレビや新聞で飢餓に苦しむ人を見ると、比較して自分は幸せだと思ってしまうことはあっても、比べなければ有りがたいと思えない、どこか上から見ている私がいるような気がします。

 私たちは常に選択をしながら生きています。とくに意識している選択ではありませんけれども。
 今、病気でなかったとしても、もしかしたらあの時注意を怠っていたら、怪我をしたかもしれない、死んでしまっていたかもしれない。極端に言えば、そういう中で生きているのです。
 一瞬先に、今ココに生きている私がいるとは限りません。次の瞬間に転んでいるかもしれないし、倒れてしまうかもしれません。でも、それは一瞬先ではなくて、もっとずっと先のことかもしれません。
 一瞬先のことはわからないのです。

 日が暮れて、あしたを思える自分が今ここにいる。今日も1日沢山の人と笑顔を交わし、一緒に働き、または学び、遊び、助け合って生かされていた私が、今ここにいる。
 入院したり歳をとったりしてくると、朝、目が覚めたことをとても嬉しく思うと聞きます。
「あぁ、生きていた……」
と。
 ナルホド…と、話を聞いて頭で理解することはできても、その立場になって体験してみないと、本当にその切実な気持ちにはなれないものです。
 でも、今日1日過ごしてきたことは、私の体験です。今日も生かされて、家族と食卓を囲めたり、
「明日は忙しいなあ〜」
とか、
「明日は何をしようかな〜」
と思える自分が今あることを、感謝したいと思います。

2003年5月

 

みんなちがって みんないい ー金子みすゞー

 暇な時は、よくテレビを見ます。

 最近、SMAPの歌を聴いて、ハッとしたことがありました。曲名は「世界に一つだけの花」(作詞作曲:槇原敬之)です。著作権の関係があるので歌詞は載せませんが、最近よく聴こえてくる曲ですのでご存知でしょう
 素晴しい歌詞だと思います。私はすぐさま『阿弥陀経』を思い出しました。
 お浄土のさまを説いてある中に

池中の蓮華 大きな車輪の如し
青色には青光 黄色には黄光
赤色には赤光 青色には青光
白色には白光あり
薇妙香潔なり

と、分相応の光を放っているさまがあります。白い花は赤い光を放つことは出来ません。

 当寺の仏様の花(内陣に生けてある花)は私が赤い花が好きなせいで、必ずと言っていいほど赤のスプレーカーネーションが入っています。けしてピンクの花は買いません。赤く見えませんから。ピンクや白に、赤を求めません。
 当たり前のことですが、白もあり、黄色もあり、緑もあり、赤もあり……で、綺麗に見えるのです。

 この仏花を例にとって我が身を振り返ってみると、白である自分に赤の色を放てるように成ることを求めていませんか。赤い光を放てないことを嘆いていませんか。
 子供たちにも、そんなことを求めていませんか。
 自分には、他人に無い能力があるはずです。一人一人違う種…他人と違う能力を持っているのです。
 足の早い人、計算が得意な人、記憶力がある人、料理が得意な人、絵が得意な人、字が上手な人、皆それぞれ得意分野がるでしょう。それを誇りに思い、発揮するのが本当ではないでしょうか。

 お釈迦様は弟子たちの特に秀でたところを取り上げて、第一と誉めていらっしゃいます。例えば、

舎利弗 しゃりほつ 知恵第一
富楼那 ふるな 説法第一
目健蓮 もくけんれん 働き第一
迦栴延 かせんねん 話し方第一
阿難陀 あなんだ 聞法すること第一
優波離 うばり 戒律を守ること第一

 などと讃えられています。

 最近、面白い話を聞きました。
 県外に居るお孫さんの話をしていた中で、
「運動の得意じゃない孫が、幼稚園の運動会のカケッコで3番になったと聞いて、びっくりしてね。何で?と聞いて、なお、びっくり。10番になったら可哀想だから、3人ずつしか走らないんだって。そんなことある?!」

 私もびっくりしました。10番では自尊心を傷つけられるから駄目なのでしょうか。どこか間違ってはいませんか。言葉を変えると、「何でも良く出来る」と錯覚する「我」の強い子供を育てることではないでしょうか。

 「育」の字を上下半分に割ると、上部は「子」を逆さまにしている文字なのだそうです。長い日をかけて「子」にする意味で、「てる」と言うのです。
 自分の得意なところを誇りにして、努力をする子供に育てたいものです。子供だけでなく、自分もまた、そうありたい。
 『阿弥陀経』の「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」のところを、ゆっくりと、しっかりと、考えながらよむようにしたいものです。 

住  職

2003年4月

 

仏法をありがたがる人は多いが 仏法に生きる人は少ない

 若い頃、読経の声を自慢しておりました頃のことです。
 先輩で、私よりも大きな声の住職さんがいらっしゃいました。たまたま2人が法事に招待され、競争したわけでもありませんが(大きな声につられて大きな声をだしていたんです)お斉(食事)の時にそのお宅の方達が、
「なんとも…やかましい法事だったねぇ〜」(^
と、おっしゃったこともありました。
 今では、喉の炎症に悩まされて大きな声も出ず、高い声も出ず、耳まで影響されて困っています。
 ですから、法事の前に
「影現寺は、代々声が良くていいですね〜」
なんて言われると、無理して声を出してお勤めすることがあります。

 考えてみれば、あくまで雰囲気作りの問題であって、阿弥陀様の教えとは無関係のはずです。
 でも、あちこちで
「あのお寺さんのお経はありがたい、あのお寺さんは何を言っているかわからないから駄目だ」
というような言葉を聞きます。

 雰囲気作りのことは終わりにし、その後のご法話を思い出してください。
「今日のご法話は解りやすかった、ありがたかった」
と言いませんか?
 どう表現されても結構ですが、頭で理解する仏法ではありません。頭の善し悪し、記憶の多少で救われるか救われないか、そんな仏法ではありません。
 話のわかりやすいことは大事ですが、聞くほうにとって理解・知識だけで満足していると大変です。阿弥陀様のお気持ちを「知識」として知っているだけでは、嬉しくも無く、喜びもありません。

 私が学生の頃のことです。学者の小山法城師がご法話を依頼されました。その席で「悪人こそが阿弥陀様のお目当て」と『歎異抄』のお話をしていらっしゃいましたところ、一番前のおばあさんが、盛んに頷いておられたそうです。
 休憩中に、そのおばあさんがお茶を出してくださった時のことです。

小山師  あんたも、悪人ですね。

お婆さん とんでもない、私は悪人なんかじゃないですよ。

小山師  でも、私の話中、盛んに頷いておられたじゃないですか。

お婆さん あれは、ご法話の中の話ですから。私は優しい普通の年寄りですよ。

 この会話。皆さん、どう思われましたか。これが知識・理解の領域で、けして信仰ではありません。大事なことが抜けています。”自分”です。
 自分の問題ではなく、他人は悪人で愚かで……自分は別。ありがたがる人とは、こういう人のことを言います。

 これは大事な問題ですから、もっと考えてみましょう。

 いつも書くことですが、”私”の心の中をじっくり覗いてみましょう。心の中から選んで口に出し、選んで身体に表しませんか。心に思ったこと全部を口にすれば、喧嘩になると思います。それを、修羅道のような心といいます。

 最近は海外へ仕事で行く人が多い時代です、卓sんのお宅へお参りに行くので、そういう方ともお会いして話を聞くことができます。そしていつも思うことは、日本人は世界一贅沢な食事をしているということです。
 私達はいつの間にか慣れ過ぎて感じないかもしれませんが、間違いないのではないでしょうか。
 でも、食べ物に感謝していますか。
「今は、昔の祭りの時みたいな食べ物を、毎日食べてるよ」
という言葉も聞かれなくなりました。豊かになって、逆に喜びが減ってきています。
 心はいつの間にか、餓鬼道のような時間が増えてきているようです。

 このような自分であると、自覚しなければなりません。他人事ではないのです。

 このように言っても、卑下しなさいという意味ではありません。愚かであることを認めるということです。
 親鸞聖人は、

弥陀の五劫思惟の願をよく案ずれば ひとへに親鸞一人が為なりけり

さればそくばく(沢山)の業をもちける身にてありけるを 助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

と、おっしゃいました。阿弥陀様のお気持ちを知り、悪を造らなければ生きていけない自分の愚かさに気づかれたのです。
 阿弥陀様の「悪人こそ救う」との大慈悲心を喜び、この私こそ救われるのだと信じ喜び、阿弥陀様のお名前を呼ばれた親鸞聖人でした。

 心をきれいにしよう、ではなく、できない私だからと懺愧しながらわが身を省みて阿弥陀様に感謝し、生かされていることを喜び念仏する人を、仏法に生きる人と呼ぶのです。

住  職

2003年3月

 

わが身が大事なら
人さんを大事にせえや 
源左

 

 幼い頃に親に言われた言葉というのは、案外覚えているものです。
 印象深く憶えているものの中に、自分がされて嫌だと思うことは、人も嫌なことなんだから、してはいけないという言葉があります。殴られたら痛くて嫌だから、殴ってはいけない。悪口を言われたら気分が悪いから、言ってはいけない。
 今更道徳の授業のようで、
「わかってるよ、当たり前でしょ」
とおっしゃる方もあるかもしれませんが、頭でわかっているのと、実際の行いを比べて、どうでしょうか。

 私が退職したとき、海外に住んでいた友達に会いに行くことにしました。まとまった時間なんてなかなか取れるものでもないですし、せっかく友達が居るのだから、その間に…と思いきって行って来ました。
 友達はお坊さんとして住んでいるわけですから、観光地に居るわけではありませんので、ツアーで行くわけにはいきません。そこで、大きな荷物をひきずって、友達と一緒に列車を乗り継いだり、適当な店で適当に食事をとったりという、旅行形式になりました。ちなみに私は語学力ゼロ。
「なんて恐ろしいこと。ねーちゃん、勇気あるね」
と、言われたことが、後に何度もあります。が、
「いろんな人に凄く親切にしてもらったから助かったよ」
と申し上げます。
 ニッコリ笑顔だと、相手もニッコリしてくれます。言葉はまともに通じませんが、お互い好意的だとわかると、互いに相手を思いやる行動ができるものなのだなあと、実感しました。

 してもらうことばかり望んでいても、無理というものでしょう。して貰ったから、してあげる…というギブアンドテイクではありません。ですが、人に好意的ではない態度をとっておきながら、自分にはよくして貰おうというのはおかしな話です。
 して貰ったことをノートに書いてチェックしているわけではないですから、人の行為というのは行動というより気持ちとして残るのが大きいのではないかなと思います。
 この人と話していると楽しいな、とか、いつも気にかけてくれているな、と、会話や表情で感じるものです。何を買って貰ったか、何をあげたか、そういう「物」の話ではないのです。そういうことだけでは仲良くはならないでしょう?物のつながりではなく、心のつながりです。物のやり取りは、それに表す手段のひとつとしてついてくるものです。

 親子の関係が良い例ではないでしょうか。
 我が子に将来養ってもらおうとか、大事にしてもらおうと思って誕生や成長を喜ぶわけではないはずです。ただ可愛くて嬉しいのではないでしょうか。だからできる限りのことをしてあげたいと思って育てる。
 親になって初めてその有り難味がわかるといいます。私はまだ親になったことはないですので、それこそ頭でわかっているだけですが、自分がしてもらって当たり前だと思っていたことが、自分がする立場になって初めて、大変なことだったんだと、身を持って気づき、また我が子に愛情を注いで伝えていくのでしょう。

 仏教とは仏の教えであり、仏になる教えです。仏とは、刑事ドラマで言うような、死人に対して「ホトケさん」という意味ではありません。阿弥陀様やお釈迦様と同じように、覚りの世界にあることです。

 私たちは衣食住のために、家族のために働いて、今を必死に生きています。しかし、その中で、いろんな種を撒いてきました。よい種を撒けば、よい芽が出ますが、恨み、妬み、嫉み、悪口、嘘、そういう種も撒いてきたのではないでしょうか。
 ですから、証りの世界なんて、自分で行けるような私ではないでしょう。

 阿弥陀様は私たちが心配で、どこまでも届く光で照らし、仏になって欲しいと願って、徳や善を私たちに下さいます。その阿弥陀様の恵みや、周囲の愛情に、有り難うと言える「人間」でありたいものだと思います。

 子は親の背を見て育つとか、子を見れば親がわかるとか言いますが、自分が親に、家族に、周囲にしてきたことを、良いことも悪いことも、子は、孫は、見ています。それは、代々続いていくでしょう。自分が撒いた種が自分に返ってくるということでしょうか。

2003年2月