今月の言葉は、お東(真宗大谷派)の学僧、清沢満之先生の言葉です。 津市に、飛鳥居昌乗という、ご住職がいらっしゃいます。三重県青少年育成センターの所長さんをしていらした方です。 夏休みにやってきた孫達へのサービスに、巨大迷路に遊びに行きました。 と。 迷路から抜け出られるだろうか……と、不安もあります。早く出たいと、焦りもあります。 私の場合は、毎日お参りがあり、日曜日には法事があり、ご法話に出向き、疲れてくると 迷路の出口を出た時には、最高の喜びがあります。でも、家族はみんな出ることが出来ただろうか?と、不安もあります。 当寺へ毎月お参りされるご婦人がいらっしゃいます。昨年12月に、お母さんになられました。そのお子さんを連れてお参りされますが、乳飲み子の1ヶ月の変わり様には驚かされます。段々と可愛らしくなっていくのが楽しみで、待っています。8月には数枚の写真を撮りましたが、可愛らしく写っていました。 そのように成長する子供は皆に喜びを与えてくれます。 阿弥陀様は、何時も私の傍にいてくださいます。それはどうしてか?私が、 凡夫(ぼんぶ)/知識と感情が揃わない愚かな者。 だからなのでしょう。嫌でもどうでも、そのような心をもっています。どうですか? 迷路の高い所から辺りを見るように、阿弥陀様の心を思い出せば、過去の積み重ねの今の自分。欲心・愚痴を離れられないこと、苛立ち・腹立ちなどの多い自分を見ることが出来るでしょう。 仏教とは、覚られたお釈迦様の教えであり、仏に成るための教えなのです。 ただ、今まで言いましたように、この肉体を持って苦しみの多い世界に居る限り、自分で覚りの世界に行くことは出来ません。 住 職 2003年9月 |
年齢を重ね、長生きをすると、それだけ友や家族など大切な人たちを見送っていかねばなりません。 青年時代に戦火を潜り抜けてきた世代の方は、苦労をともにしたお仲間と集まって、あれやこれやとお話しするのを楽しみに思っておられました。 家族と一緒にいても……家族との会話とはまた別のものだと思います。やはり同世代の人と話せる楽しみがなくなるのは、寂しいことでしょう。 私たちだって、友達と話すことを家族にも同じように話すかと言えば、また違うのではないでしょうか。学生の頃のこと。仕事をしている時のこと。それぞれそこに同じものを見て、助け合った仲間がいる。そういう繋がりの中での会話があるものです。仲間と言うのは、家族とはまた違って、かけがえのないご縁で繋がった大切な存在です。 大切な方を亡くされますと、もう1度会いたいと思われることもあるでしょう。いつも助けてくれたご両親に会いたい。可愛がってくれたおじいちゃんおばあちゃんに会いたい。楽しい時を過ごした友達とまた話したい。そう思って写真を眺めたこともあるでしょう。 浄土真宗は、阿弥陀様のお力によって仏に成らせていただく教えです。 2003年7月 |
暑い季節になりますと、幽霊が出るという場所や、祟りがあったという特集番組がよく放送されますね。 しかし……ああいうものの影響なのか”死”そのものが恐いからか、汚いもののように感じる方がいらっしゃるようです。 「そんなことしたら、バチがあたるよ」 例えば、納骨までの49日の間、家を空けたらよくないなんて言うことがあるようですね。亡くなった人の魂が家に居るからなんだそうです。 この世の命を終えた後、阿弥陀様がお救い下さって、仏の世界に往き仏にしていただくのが私たちです。仏の世界は迷いの世界ではなく、覚りの世界。 人の意見をきくなというのではありません。 2003年6月 |
これは、浄土真宗門徒の男性の言葉です。 仲の良い友達が結婚して、子供が生まれた後、 私たちの世代は、飢えたことが無い世代です。今日のご飯に事欠いた知人は、少なくとも私にはいません。有りがたいことです。 私たちは常に選択をしながら生きています。とくに意識している選択ではありませんけれども。 日が暮れて、あしたを思える自分が今ここにいる。今日も1日沢山の人と笑顔を交わし、一緒に働き、または学び、遊び、助け合って生かされていた私が、今ここにいる。 2003年5月 |
暇な時は、よくテレビを見ます。 最近、SMAPの歌を聴いて、ハッとしたことがありました。曲名は「世界に一つだけの花」(作詞作曲:槇原敬之)です。著作権の関係があるので歌詞は載せませんが、最近よく聴こえてくる曲ですのでご存知でしょう
と、分相応の光を放っているさまがあります。白い花は赤い光を放つことは出来ません。 当寺の仏様の花(内陣に生けてある花)は私が赤い花が好きなせいで、必ずと言っていいほど赤のスプレーカーネーションが入っています。けしてピンクの花は買いません。赤く見えませんから。ピンクや白に、赤を求めません。 この仏花を例にとって我が身を振り返ってみると、白である自分に赤の色を放てるように成ることを求めていませんか。赤い光を放てないことを嘆いていませんか。 お釈迦様は弟子たちの特に秀でたところを取り上げて、第一と誉めていらっしゃいます。例えば、
などと讃えられています。 最近、面白い話を聞きました。 私もびっくりしました。10番では自尊心を傷つけられるから駄目なのでしょうか。どこか間違ってはいませんか。言葉を変えると、「何でも良く出来る」と錯覚する「我」の強い子供を育てることではないでしょうか。 「育」の字を上下半分に割ると、上部は「子」を逆さまにしている文字なのだそうです。長い月日をかけて「子」にする意味で、「育てる」と言うのです。 住 職 2003年4月 |
若い頃、読経の声を自慢しておりました頃のことです。 考えてみれば、あくまで雰囲気作りの問題であって、阿弥陀様の教えとは無関係のはずです。 雰囲気作りのことは終わりにし、その後のご法話を思い出してください。 私が学生の頃のことです。学者の小山法城師がご法話を依頼されました。その席で「悪人こそが阿弥陀様のお目当て」と『歎異抄』のお話をしていらっしゃいましたところ、一番前のおばあさんが、盛んに頷いておられたそうです。 小山師 あんたも、悪人ですね。 お婆さん とんでもない、私は悪人なんかじゃないですよ。 小山師 でも、私の話中、盛んに頷いておられたじゃないですか。 お婆さん あれは、ご法話の中の話ですから。私は優しい普通の年寄りですよ。 この会話。皆さん、どう思われましたか。これが知識・理解の領域で、けして信仰ではありません。大事なことが抜けています。”自分”です。 これは大事な問題ですから、もっと考えてみましょう。 いつも書くことですが、”私”の心の中をじっくり覗いてみましょう。心の中から選んで口に出し、選んで身体に表しませんか。心に思ったこと全部を口にすれば、喧嘩になると思います。それを、修羅道のような心といいます。 最近は海外へ仕事で行く人が多い時代です、卓sんのお宅へお参りに行くので、そういう方ともお会いして話を聞くことができます。そしていつも思うことは、日本人は世界一贅沢な食事をしているということです。 このような自分であると、自覚しなければなりません。他人事ではないのです。 このように言っても、卑下しなさいという意味ではありません。愚かであることを認めるということです。 弥陀の五劫思惟の願をよく案ずれば ひとへに親鸞一人が為なりけり さればそくばく(沢山)の業をもちける身にてありけるを 助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ と、おっしゃいました。阿弥陀様のお気持ちを知り、悪を造らなければ生きていけない自分の愚かさに気づかれたのです。 心をきれいにしよう、ではなく、できない私だからと懺愧しながらわが身を省みて阿弥陀様に感謝し、生かされていることを喜び念仏する人を、仏法に生きる人と呼ぶのです。 住 職 2003年3月 |
幼い頃に親に言われた言葉というのは、案外覚えているものです。 私が退職したとき、海外に住んでいた友達に会いに行くことにしました。まとまった時間なんてなかなか取れるものでもないですし、せっかく友達が居るのだから、その間に…と思いきって行って来ました。 してもらうことばかり望んでいても、無理というものでしょう。して貰ったから、してあげる…というギブアンドテイクではありません。ですが、人に好意的ではない態度をとっておきながら、自分にはよくして貰おうというのはおかしな話です。 親子の関係が良い例ではないでしょうか。 仏教とは仏の教えであり、仏になる教えです。仏とは、刑事ドラマで言うような、死人に対して「ホトケさん」という意味ではありません。阿弥陀様やお釈迦様と同じように、覚りの世界にあることです。 私たちは衣食住のために、家族のために働いて、今を必死に生きています。しかし、その中で、いろんな種を撒いてきました。よい種を撒けば、よい芽が出ますが、恨み、妬み、嫉み、悪口、嘘、そういう種も撒いてきたのではないでしょうか。 阿弥陀様は私たちが心配で、どこまでも届く光で照らし、仏になって欲しいと願って、徳や善を私たちに下さいます。その阿弥陀様の恵みや、周囲の愛情に、有り難うと言える「人間」でありたいものだと思います。 子は親の背を見て育つとか、子を見れば親がわかるとか言いますが、自分が親に、家族に、周囲にしてきたことを、良いことも悪いことも、子は、孫は、見ています。それは、代々続いていくでしょう。自分が撒いた種が自分に返ってくるということでしょうか。 2003年2月 |