年が明けました。大晦日と元日の境なんて普段の時間の継続と何も変りはないのですが、やはり「新年」ということでいつもとは違い、身も心も引き締まる思いがします。 こういう節目には新たな思いになる私達ですが、普段、朝 目が覚めた時はどうでしょうか。毎日が新たな私であると感じられるでしょうか。 私達がこの世で命が尽きるのに歳の順番など関係ないということは、誰しも頭ではわかっているはずです。 また、長生きして亡くなれば「大往生」だなんておっしゃる方もいらっしゃるようですけれど、人間の欲望の中で最後まで残るのは生命欲。20歳だって90歳だって、まだまだ元気でいたいのです。生きていたいのです。 いつどうなるかわからないこの私が、不思議な縁あってこの世に人として生まれ、今日1日を過ごせることを幸せに感じ、一瞬一瞬を精一杯生きる。喜ぶ。感謝する。理想的な姿ではありますが、なかなか普段の生活の中で、余裕がないとおっしゃる方も多いでしょう。 正信偈に、阿弥陀様の光について、こうあります。
普段はそんな余裕がなくても、お仏壇の前やお寺の本堂で阿弥陀様の前に座って心静かに手を合わせている時くらいは、阿弥陀様の光に照らされていることを、今日1日のいろいろなご縁に、私がここにこうしていることに感謝し、新しい今日の自分の命を喜びたいものです。 2000年1月 |
私が小学生の頃、ガキ仲間と柿を盗んできた時のことです。生きていれば110歳くらいになる私の祖母に叱られました。 親鸞聖人の御和讃に、 仏教とは、釈迦牟尼仏(お釈迦様)の教えであり、仏に成る教えです。 正信偈には、 諸仏は静かにしておいでになるから「静仏」、阿弥陀様は来てくださるから「動仏」と表現なさった人もおられます。 昔、石川県に有名な学僧で暁烏
敏師という方がおいでになりました。晩年はお東さんの宗務総長になられ、昭和29年にご逝去されました。 いつ何処にいても、独りでは在りません。必ず阿弥陀様と一緒です。その阿弥陀様に懺愧(懺悔)しながら、共にいてくださることを喜び、生きていきたいものです。 住 職 2000年2月 |
「腹を割って話そう」とか「裸の付き合い」などと言いませんか。 私たちはみな他人様に自分をよく見てもらいたい為に、飾ろうと一生懸命なのです。互いにそうですから、「裸の付き合い」という言葉が出てくるのでしょう。 阿弥陀様の眼には私のことが「貧苦」と見えるそうです。心が貧しい者の意味です。もっと言えば沢山の煩悩を持っているということで、その代表が貧欲・瞋慧・愚痴の「三毒の煩悩」と言われております。 例えば同期入社の仲間が自分より先に出世すれば 『正信偈』に 住 職 2000年3月 |
「この上なく麗しい人」という意味で念仏者を称える『妙好人』という言葉があります。 本人は詩を書くつもりはなかったようですが、ご法話を聞いている時、歩いている時、仕事をしている時などにふと思いついた仏法の味わいを書きとめるようになりました。下駄であったり、仕事場の鉋屑であったり(船大工や下駄を作るのが仕事だった)と手近なものに書き、後でノートに写すのです。(その頃は帳面だったのでしょうか)
この詩だけでなく、自分を「あさましや」と懺愧を込めて書いていらっしゃいます。 才市さんと同じ町の日本画家が描いて下さったという肖像画があります。 絵が出来あがって才市さんに見せると、 私達も角を持っていますね。目には見えないけれども、怨んで妬んで憎んで、愚痴ってそしって自慢して。おちつきなく煩悩の火に薪をくべて、なかなか静かではいられません。 才市さんは自分がどうしようもなくあさましいものである……凡夫であると、阿弥陀様の光に照らされて気づき、その私が仏にならせていただき、仏の国へ往くことができる、と感謝のお念仏をなさったのです。 縁があれば人を殺すかもしれず、盗みを犯すかもしれない。 では 2000年4月 |
「マルチ人間」なる言葉が流行って久しいですが、どんな人をそういうのでしょうか。 「仏説阿弥陀経」の中に、阿弥陀様の国(お浄土)を、
と、私達にわかりやすく書いてあります。 今の私の生活を維持する為には、いろんな物が必要です。 このように、海に働く人、街に働く人、山に働く人…直接は知らなくても、皆関係があるのです。
これを佛教では「縁」といいます。 広い境内のあるお寺は心が洗われるような雰囲気があり素晴らしいものですが、雑草を取るのが頭痛の種でしょう。 ですから、 私は僧侶ですから、僧侶としてのことしか出来ませんが、一生懸命頑張っているつもりです。 住 職 2000年5月 |
寺の生垣のテッセンが、綺麗に咲きました。 さて、このうたの「花に見とれる心」ということは、ものの命の尊さを思う……という意味です。 花を愛でる時というのは、余裕がある時ではないでしょうか。 そこで、次の言葉。「人を想う心」 「自分を見つめる心」 最近、10代の犯罪が多発していると、テレビや新聞を賑わせていますが、その中で犯罪を犯した人間と同世代の人々にインタビューしている番組がありました。 こういう意見が世の中の全体を占めているとは思いませんが、命の尊さを思い、感謝し、自分が多くの命に支えられて生きている……そしてその自分の命だって限りがあるということに気付いている人が、どれだけいるでしょう。 花が綺麗に咲く季節です。 2000年6月 |
「命をなんだと思ってるんだ!」と憤りを感じる、簡単に人を傷つけたり殺したりといった犯罪が多く目に付くようになっているここ数年です。 世の中にはペットを飼ってらっしゃる方が大勢いらっしゃると思います。我が家も昔は犬を飼っていましたし、今は猫を可愛がっています。それこそ親馬鹿ならぬ飼主馬鹿とでもいいましょうか、住職は猫の写真を持ち歩いてご門徒さんに見せまくっていた時期がありましたし、母は家を留守にするといえば、大人になった娘なんかよりもよっぽど心配で気になってしょうがないと言います。私にしても、帰宅すると開口一番「ごんちゃん(猫の名前)は?」と猫を探します。 こんな調子の私達ですから、門徒さんにうかがった話には怒り心頭でした。 しょっちゅうペットを変えるお宅があるというのです。小さいうちは可愛がるのでしょうが、大きくなってきたら首輪を外してしまって保健所に野良犬として回収されるままにするというのです。 どう思いますか。話をうかがっただけで気分が悪くなりませんか。 以前ご法話で、初めてヒヨコを持たせてもらった幼い子が、力加減がわからず、可愛いものだからと握って殺してしまったという話を聞きました。そして、「電池がきれちゃったよ」と言ったそうです。 ペットを飼うという事は、可愛いと弄くるだけでなく、命というものの大切さを子供達に…私達に教えてくれます。人であれなんであれ、命あるものが死んでしまうのは悲しいものです。 さっきまで元気にしていても、事故に遭って亡くなるかもしれません。また、病気になって亡くなるかもしれません。いつ、何がおこり、どうなるのかわからない私達の命です。年齢の順番というわけでもなければ、何歳まで生きると決まっているわけでもない。そして、1度きりの今の私の命。私だけでなく、他の人も同じであり、代わってもらう事も代わってあげることも出来ません。1つきりで儚く、この命にどれだけの命がかかわり、どれだけの心がかけられているか。 仏教は死んでから・年老いてからという誤解は多いようですが、「互いに思いあい、生かしあっているからこそ今がある」ということを、今考えることも大切なことなのです。 2000年8月 |