2000年 今月の言葉 1月 2月 3月 4月 5月 6月

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みほとけの 光りあふれて
いのちまいにち 新しい

 年が明けました。大晦日と元日の境なんて普段の時間の継続と何も変りはないのですが、やはり「新年」ということでいつもとは違い、身も心も引き締まる思いがします。
 なんだか「年」と一緒に「自分」も新しくなったかのようです。

 こういう節目には新たな思いになる私達ですが、普段、朝 目が覚めた時はどうでしょうか。毎日が新たな私であると感じられるでしょうか。

 私達がこの世で命が尽きるのに歳の順番など関係ないということは、誰しも頭ではわかっているはずです。
 突然倒れるかもしれないし、事故に遭うかもしれない。しかし、自分だけはまだ大丈夫……そう思いがちです。
 老いた人は若くて元気なことを羨ましく思い、病に倒れた人は、健康で動けることや働けることを有り難いことだと感じるでしょう。不治の病で明日をも知れぬ状況であれば、朝、目が覚めたことを喜ばれるかもしれません。
 満たされている時は、空だが自由に動くことも、目が覚めることも「当たり前」としか思っていないのではないでしょうか。

 また、長生きして亡くなれば「大往生」だなんておっしゃる方もいらっしゃるようですけれど、人間の欲望の中で最後まで残るのは生命欲。20歳だって90歳だって、まだまだ元気でいたいのです。生きていたいのです。
 「長く生きたから、もう思い残すことはないよ」
と言う人もいらっしゃるかもしれませんけれど、心から「今死んでも悔いはない」と思うことは、なかなかないはず。生きていられるならもっと生きていたいと願うものです。

 いつどうなるかわからないこの私が、不思議な縁あってこの世に人として生まれ、今日1日を過ごせることを幸せに感じ、一瞬一瞬を精一杯生きる。喜ぶ。感謝する。理想的な姿ではありますが、なかなか普段の生活の中で、余裕がないとおっしゃる方も多いでしょう。
 しかし、慌しい生活の中にも、家族のために働き、家事をし、子を育てる。それは、それぞれの生き方の中で気づかぬうちに精一杯生きている姿です。
 ただ、「喜び感謝する自分」は、そこにあるでしょうか。

 正信偈に、阿弥陀様の光について、こうあります。

阿弥陀様の光はいつでもどこでも、
なにものにも妨げられず、
比べられるものがなく、
威力に満ち、
清らかで、
喜びを与え、
智慧そのものであり、
絶えることなく、
人間の思いや言葉を超えていて、
全ての世界に隅々まで行き渡っており、
太陽や月の光をもしのぐ。
生きとし生けるものは皆この限りない光明に照らされているのである

 普段はそんな余裕がなくても、お仏壇の前やお寺の本堂で阿弥陀様の前に座って心静かに手を合わせている時くらいは、阿弥陀様の光に照らされていることを、今日1日のいろいろなご縁に、私がここにこうしていることに感謝し、新しい今日の自分の命を喜びたいものです。

2000年1月

 

 

みほとけと
いつも二人の よいくらし

 私が小学生の頃、ガキ仲間と柿を盗んできた時のことです。生きていれば110歳くらいになる私の祖母に叱られました。
「誰に見つからなくてもお月さんが見ておられるから」
と。
 子供ながらに後ろめたい気持ちがありますから
「曇っていて月は出ていなかったもん」
と、憎まれ口をたたいたことを覚えております。
 昔の素朴な人は月を観て仏様を思ったのでしょうか……月の中に阿弥陀様を観ていたのでしょうか……

 親鸞聖人の御和讃に、
    光明月日に勝遇して
    超日月光となづけたり
    釈迦嘆じてなをつきず
    无等等を歸命せよ

と、阿弥陀様のお働きを光であらわされ、他にも沢山の「光」という文字を使っておいでになります。
 ですから「お月さん」の表現もまるっきり外れたものではないかもしれません。

 仏教とは、釈迦牟尼仏(お釈迦様)の教えであり、仏に成る教えです。
 私が仏に成るには、自分で綺麗な心になって仏に成るしかないというのが自力聖道の教えです。
 でも、毎日、朝起きたときから心に悪ばかり造ってはいませんか。寒い時は勿論、暑ければまた愚痴が出ます。1日のうちどれだけの時間、綺麗な心でいられるでしょうか。

 正信偈には、
    法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
    覩観諸仏浄土因 国土人天之善悪
    建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

と法蔵菩薩様が、こんな私の全てをご覧に成って、他の仏様と違う稀な誓いをおこされたとあります。
 他の仏様とは違うとはどんなことでしょうか。
 諸仏方は自分で煩悩を無くす為の大変なご苦労をされ、1歩1歩仏の位に近づき、ついに仏と成られ自分のお浄土で静かにしていらっしゃいます。
 一方、阿弥陀様は仏と成られる前の法蔵菩薩様だった時から、煩悩をなくすどころか怒り・腹立ち・そねみ・妬むことを押さえきれない私のことを心配してくださり、私の傍らまで出向いて来てしっかりと抱きかかえることのできる…なにがあっても絶対に捨てない仏に成りたいと願われて、そのとおりの甲斐性のある阿弥陀如来になられたのです。
 その働きを、摂取不捨といいます。

 諸仏は静かにしておいでになるから「静仏」、阿弥陀様は来てくださるから「動仏」と表現なさった人もおられます。

 昔、石川県に有名な学僧で暁烏 敏師という方がおいでになりました。晩年はお東さんの宗務総長になられ、昭和29年にご逝去されました。
 昭和20年頃、先生は強度の近視が悪化して失明され、奥様もまた片目が不自由になられたのだそうです。
 先生は何かの折に
「目の不自由なものが手を取合ってお浄土へ行きますよ」
と、おっしゃったそうです。
 それを聞いた俳人の正岡 子規先生がこんな歌を贈られたそうです。    夫婦にて 一眼あればことたれり
    足もと照らす 弥陀のちょうちん

 なんと素晴らしい歌でしょうか。阿弥陀様のお働きを提灯で表し、また、遠くの阿弥陀様ではなく、いつも一緒にいてくださる阿弥陀様のことを詠んであります。

 いつ何処にいても、独りでは在りません。必ず阿弥陀様と一緒です。その阿弥陀様に懺愧(懺悔)しながら、共にいてくださることを喜び、生きていきたいものです。

住 職

2000年2月

 

 

自己を見失っている者には
 金も名誉も地位も 禍のもとである

「腹を割って話そう」とか「裸の付き合い」などと言いませんか。
 本当の私を忘れ、家柄・学歴・地位・名誉・お金・健康など、自分に付随するものを自分であると錯覚していることが多い上に、何がなくても「我」があるので、地位やらお金やらをチラつかせたくなったことはありませんでしたか。
 かくいう私も他所へ出かける時は家にいる服装とは違う一張羅の服を着ることがあります。
  少しでも金持ちに見えるように、馬鹿にされないようにと、言葉づかいまで変えることさえあります。近くの人、知人の前では通用しないのに。
 皆さんはそんな事をしていませんか。した事がないという人、しないという人がいたら
「うっそ〜〜」
と言いたいくらいです。

 私たちはみな他人様に自分をよく見てもらいたい為に、飾ろうと一生懸命なのです。互いにそうですから、「裸の付き合い」という言葉が出てくるのでしょう。
 ひとたび飾りを取った自分はどんな者でしょうか。それを考えるのが宗教でしょう。

 阿弥陀様の眼には私のことが「貧苦」と見えるそうです。心が貧しい者の意味です。もっと言えば沢山の煩悩を持っているということで、その代表が貧欲・瞋慧・愚痴の「三毒の煩悩」と言われております。
 そんな者の集まる世の中ですから、我と他を、彼と此を比較して羨ましいやら悔しいやら……と、まるで寺の立て付けの悪い戸のように、ガタピシガタピシとウルサイ落ち着きのない生活になりがちです。

 例えば同期入社の仲間が自分より先に出世すれば
「どうしてあいつが!?自分と同じくらいの仕事しか出来ないのに…」
と、悔しく思い、知人の立派な家を見れば
「幾らだろうか、どうしてそんな金があるのだろうか?」
と、余計なことを思いませんか。
 他人様と同じかそれ以上の境遇になりたい(貧欲)、なれなかったら腹が立つ(瞋慧)、なんで私だけが…と情けなく思う(愚痴)。そんな私に金が入り地位を得ることが出来ればどうなるでしょうか。決まっています。有頂天になり、今まで見えていたものも見えなくなるでしょう。
 これを「増上慢」(ぞうじょうまん)といいます。他人はみんな甲斐性ナシで、私は力のある素晴らしい人間だと…錯覚…増長してしまって手がつけられない。つまり、我が身には禍となります。
 バブルがはじけたことを覚えていますね。それを考えると、いつまでも続く保証もないのにね。でも、誰でもそうなる可能性はありますよ。

 『正信偈』
      善人悪人を問わず一切の凡夫が阿弥陀様の
      本願を聞いて信ずるならば、釈尊はその人を
      「大いなる智慧者」「白蓮華」と呼ぶ。
      阿弥陀仏の本願念仏は、よこしまな考えを持つ
      人や、奢り高ぶる人には信じ保つことが極めて
      難しく、難中の難で、これ以上のものはない。
とあります。
 三毒の煩悩を燃やせば、当然、心に悪を作る悪人となります。その悪人の傍まで来て心配してくださる阿弥陀様の「助かってくれよ」のお気持ち(本願)を信じ慶ぶだけで、お釈迦様まで褒めてくださいます。 でも、奢り・高ぶりの人には解らない慶べない念仏です。
 飾らない本当の自分を見せてくれる念仏の教えを聞いてもらいたいものです。
 本当の自分を知って初めて、金・名誉・地位など自分を飾るものを上手に扱うことが出来るのでしょう。

住 職

2000年3月

 

 

人をそしらず 自慢せず
身のいたらぬを 恥じて 念仏

「この上なく麗しい人」という意味で念仏者を称える『妙好人』という言葉があります。
 妙好人と呼ばれた方はたくさんいらっしゃいますが、その中に島根の浅原才市という方がいらっしゃいました。

 本人は詩を書くつもりはなかったようですが、ご法話を聞いている時、歩いている時、仕事をしている時などにふと思いついた仏法の味わいを書きとめるようになりました。下駄であったり、仕事場の鉋屑であったり(船大工や下駄を作るのが仕事だった)と手近なものに書き、後でノートに写すのです。(その頃は帳面だったのでしょうか)
 現在は詩集となってまとめられ、国内外で読まれているそうですが、その中にこのような詩があります。

あさましや
さいち こころのひのなかに
大悲の親は 寝ずのばん
もえる機を ひきとりなさる
おやのお慈悲で

 この詩だけでなく、自分を「あさましや」と懺愧を込めて書いていらっしゃいます。

 才市さんと同じ町の日本画家が描いて下さったという肖像画があります。 絵が出来あがって才市さんに見せると、
「これは私ではない、似ていない」
と言ったそうです。しかし誰が見ても才市さんの絵。
「どこが似ていないというのですか」
と聞くと、
「よい顔でありすぎる」
という答え。 それは、
「私はこんなにいい人間ではない。鬼のような恐ろしい心を持って、怨んだり妬んだり憎んだりする、あさましい私が描かれていないではないか」
ということでした。
 きちんと座って念珠を持って手を合わせた美しい念仏者の姿……そんな絵ではなく、あさましい煩悩だらけの凡夫が私だというのです。
 そして、頭に角を描いてもらった肖像画が、記念館に残っているそうです。

 私達も角を持っていますね。目には見えないけれども、怨んで妬んで憎んで、愚痴ってそしって自慢して。おちつきなく煩悩の火に薪をくべて、なかなか静かではいられません。
「私はそうじゃないですよ、ずっと静かで清い心ですよ」
と自分のことをおっしゃる方がいたなら……間違いなく大嘘つきです。
 そして、自分だけは違うんだ!という傲慢さが見えますよ。

 才市さんは自分がどうしようもなくあさましいものである……凡夫であると、阿弥陀様の光に照らされて気づき、その私が仏にならせていただき、仏の国へ往くことができる、と感謝のお念仏をなさったのです。  縁があれば人を殺すかもしれず、盗みを犯すかもしれない。
 この私だって今日のご飯にも困る時代に生まれていたら、畑の大根だってなんだって盗んだかもしれません。ありがたいことに、そういう状況にないから殺さないし、盗まないのです。

 では
「こんなあさましい私です。阿弥陀様、どうかお救いください」
と、お念仏するのでしょうか?
 いいえ、そうではありません。
 阿弥陀様はお念仏するものを救わずにおかないとおっしゃったのです。本来なら地獄直行であろう私達を救うぞとおっしゃるものを、その地獄直行の私達から阿弥陀様にどう働きかけることができるというのでしょう。
 働きかけるということではなく、働きかけられている私達の「ありがとうございます」のお念仏なのです。

2000年4月

 

 

それぞれに特色あり 
花の優しさ 雑草の根強さ

「マルチ人間」なる言葉が流行って久しいですが、どんな人をそういうのでしょうか。
 世間には天才と言われる人がおいでになりますが、極一部の人ではないでしょうか。
 それよりも、専門分野に長けた人の方が沢山おいでになります。芸術・文化・科学などの専門家が沢山おいでになり、また私の近くにはいろんな職業の方がおいでになり、その技のおかげで私達の生活も潤いのある楽しく快適なものとなっています。

 「仏説阿弥陀経」の中に、阿弥陀様の国(お浄土)を、

池に咲く蓮華は、
大きさが車輪ほどあり、
青色の華は青く輝き、
黄色の華は黄に輝き、
赤色の華は赤く輝き、
白い華は白く輝いており、
彩り美しく、きよらかな香りがただよう

と、私達にわかりやすく書いてあります。
 青い華は赤く輝けず、白の花は黄色に輝けません。みな、自分の色を出しております。

 今の私の生活を維持する為には、いろんな物が必要です。
 食べなければならない、着なければならない、持たなければならない、数え上げれば切りが無い程の物が要ります。
 それらは何処から来るのでしょう?
 例えば、食卓に上る魚。お金を出して買うのはわかりますが、その前には海で漁をする人、運ぶ人、切る人、パックに詰める人など、沢山の専門の人がいらっしゃいます。漁をするための船は誰が造るのか……など考えると、膨大な専門の人が係わってらっしゃることがわかります。
 そして、皆自分の専門職に一生懸命なのです。そのことを、「自分の色を出して輝いている」と言ってもいいでしょう。

 このように、海に働く人、街に働く人、山に働く人…直接は知らなくても、皆関係があるのです。 これを佛教では「縁」といいます。
 例えば、網の目の何処が破れても困るように、皆が繋がって生きている…いえ、生かされているのです。

 広い境内のあるお寺は心が洗われるような雰囲気があり素晴らしいものですが、雑草を取るのが頭痛の種でしょう。
 いたるところ根っこが走っていて、取っても取っても草は生えます。
 でも、世の中から雑草がなくなったらどうでしょう?虫がいなくなることから始まり、自然の連鎖が崩れてしまい、人間も生きていられるかどうかわかりません。
 一方、プランターに植えた綺麗な花は、しばらくは楽しませてくれても、すぐに枯れてしまうこともある。優しい花はそれが特色でしょう。 
皆いろんな色を持って繋がりながら生きています。

 ですから、
「私なんか」
と卑下する人がありますが、自分の色を発揮しさへすれば、そんな卑下など必要無いはずです。
 ただし、奢りや高ぶりの気持ちで、青い花が赤く輝かけないことを卑下するなら、とんでもない間違いです。
 自分の色(特色・特徴)を発揮することが大切です。その発揮を喜んでくださる人のなんと多いことか、自信を持って励むことが大切です。

 私は僧侶ですから、僧侶としてのことしか出来ませんが、一生懸命頑張っているつもりです。
 それが沢山の人との繋がりである、世の中を作っていくことになるでしょう。

住 職

2000年5月

 

 

花に見とれる心 人を想う心
自分を見つめる心

 寺の生垣のテッセンが、綺麗に咲きました。
 暖かい(暑い)日が続いて、ここ数年ガーデニングが流行っているせいもあり、庭先や玄関先のプランター等の花が、鮮やかに咲いているのを見かけます。

 さて、このうたの「花に見とれる心」ということは、ものの命の尊さを思う……という意味です。
 花だって綺麗だとか可愛いというだけでなく、一生懸命生きいて、咲いて、そして枯れてしまう時、命には限りがあることを教えてくれるはずです。

 花を愛でる時というのは、余裕がある時ではないでしょうか。
 忙しい時……時間に追われてアクセクしている時というのは、他に目が行きにくいものです。自分の心にゆとりがなければ、人に対してもゆとりを持って優しくなることはナカナカ難しいと思いませんか。

 そこで、次の言葉。「人を想う心」
 これは読んで字の如くで、「頑張ってるなぁ〜」「疲れてるんじゃないかなぁ〜」「お世話になったなぁ〜」「元気かなぁ〜」などと、いろいろと相手のことを想うこと。思いやることです。

 「自分を見つめる心」
 これは、自分の内面を……そして、自分もまた限りある命であり、確かなのは今の一瞬だけで、次の瞬間は、もう確かではないことを、見つめる…ということです。

 最近、10代の犯罪が多発していると、テレビや新聞を賑わせていますが、その中で犯罪を犯した人間と同世代の人々にインタビューしている番組がありました。
「犯罪を犯した子の気持ちがわかりますか?どう思いますか?」
という質問に、
「殺してみたかったんでしょ。やってみたかったから、やっただけでしょ」
「友達や家族は大事だけど、知らない人殺したんだから……」
という答えが(一部)返ってきました。
 自分が大切に思うように、相手(被害者)にもしんでしまったら悲しむ家族や友達がいるなんてことを、思いもしない。
 世の中、自分が中心なのでしょうか。
 自分が痛いと思うことは、人にも痛みになるとは考えられないのでしょうか。

 こういう意見が世の中の全体を占めているとは思いませんが、命の尊さを思い、感謝し、自分が多くの命に支えられて生きている……そしてその自分の命だって限りがあるということに気付いている人が、どれだけいるでしょう。
 子供だけでなく、大人だって……私達だってそうです。
 外で働いている自分のおかげで家族が食べていけるんだとか、家を守っている自分のおかげで、家族が好きなことをできてるんだとか、自分がこうしてあげたんだから……という思いが強くありませんか。
 してもらうことが当たり前になっていませんか。

 花が綺麗に咲く季節です。
 ちょっと道端の花を見て、短い花の命を思ってください。
 自分だって100まで生きるつもりでも、孫や曾孫を抱くつもりでも、いつどうなるかなんてわからない命です。
 丹精込めて花を育てている方がいらっしゃるように、私達の命も、いろんな命に育てられ、支えあっています。
 普段は思いもしないことかもしれませんが、これを読んで、ちょっと考えて見てください。

2000年6月

 

 

現在は 過去の集積である
未来の人生は 今
積み重ねつつある

 身体や口に表すのは、心にあるからでしょう。
 仏教では『身・口・意の三業』(しん・く・いのさんごう)といい、行動することも、言うことも、思うことも、同罪という考え方をします。
 普段、他人に見える言動は良いように振る舞いますが、心は見えないので何を思っていても済みます。しかし、仏の目にはちゃんと心が見えるといわれます。
 悪を造る…悪業(あくごう)を造ると言います。
 今まで良いことや悪いことを思い、行ってきた私達です。それらの積み重ねが今の自分でしょう。
 物心がついた頃から親は勿論のこと、学校の先生や周囲の人に、いろんな事を教わってきました。
 その中には嘘をつくことや言い訳することもあったでしょう。良いことばかりではないようです。

 昔から
「40を過ぎたら自分お顔に責任を持て」
と言われます。
 美人であれ美男であれ関係なく、心・生活が顔に出るものです。自分の顔はどうでしょうか?自信がありますか?

 それはさておき、今の私の身体の事を考えてみます。
 56歳、背は低く、太りすぎ。高血圧・通風の成人病を患っています。背は仕方ないとしても、食べ過ぎでなければ太りもせず、高血圧にもならず、通風にもならなかったはずです。誰のせいでもありません。若い時からの積み重ねでしょう。
 身体のことなら良くわかりますが、心が表れる顔のこととなると、大変難しいものです。

 親鸞聖人は
「欲もおヽく 怒り腹立ちそねみ妬むこころ多く ひまなくして臨終の一念にいたるまで とどまらず 消えず 絶えず」
と、仰せられました。
 このような気持ちが強すぎたり、常にあったりしたらどうなるでしょうか。悪業の積み重ねということになるでしょう。
 静かに自分の心をみて見ませんか。自慢できる心ですか。それらが、つい、顔や言葉に出ませんか。
 一生消えるものではないけれども、そんな自分であることに気づくことの出来る人間になりたいものです。
 その、気づく時しか阿弥陀様に謝ることは出来ません。
 悪を造るということは、地獄の種蒔きをしているということです。阿弥陀様はそんな私達をお浄土へ連れて行ってくださるから、感謝しなければなりません。そういう気持ちで念仏するのが本当でしょう。
 そういう時間を少しでも多く持つことが、未来の人生に生きてくることだと思います。

 現在の私はどうすることも出来ませんが、今から方向を変えることは出来るのです。

住 職

2000年7月

 

 

おとせば こわれる 命
だからこそ この命が 尊い

 「命をなんだと思ってるんだ!」と憤りを感じる、簡単に人を傷つけたり殺したりといった犯罪が多く目に付くようになっているここ数年です。
 腹が立ったといえば、殴る蹴る、殺す。我慢したり譲ったりという、人を思いやる心そのものが欠落しているのでしょうか。

 世の中にはペットを飼ってらっしゃる方が大勢いらっしゃると思います。我が家も昔は犬を飼っていましたし、今は猫を可愛がっています。それこそ親馬鹿ならぬ飼主馬鹿とでもいいましょうか、住職は猫の写真を持ち歩いてご門徒さんに見せまくっていた時期がありましたし、母は家を留守にするといえば、大人になった娘なんかよりもよっぽど心配で気になってしょうがないと言います。私にしても、帰宅すると開口一番「ごんちゃん(猫の名前)は?」と猫を探します。
 ペットというより小さな家族なのです。
 それも、人間のように喋ることができるわけではないですから、尚更気にかけます。

 こんな調子の私達ですから、門徒さんにうかがった話には怒り心頭でした。

 しょっちゅうペットを変えるお宅があるというのです。小さいうちは可愛がるのでしょうが、大きくなってきたら首輪を外してしまって保健所に野良犬として回収されるままにするというのです。
 ようするに、要らないから死んじゃえということです。
 散歩にも連れていかないのに「家の前で糞をした」と怒って打つ事もあったとか。餌が満足にあげられていないのか、隣りのお宅の庭で肥料の油粕まで食べていくしまつ。怪我をしたら医者に連れていくわけでもなく、気が付いたらいなくなっていたというお話。
 それも1匹だけでなく、合間なく動物を飼うそうなのです。でも、大きくなったら捨てる……処分する……

 どう思いますか。話をうかがっただけで気分が悪くなりませんか。

 以前ご法話で、初めてヒヨコを持たせてもらった幼い子が、力加減がわからず、可愛いものだからと握って殺してしまったという話を聞きました。そして、「電池がきれちゃったよ」と言ったそうです。

 ペットを飼うという事は、可愛いと弄くるだけでなく、命というものの大切さを子供達に…私達に教えてくれます。人であれなんであれ、命あるものが死んでしまうのは悲しいものです。
 それが、要らなくなったら捨ててしまおうとか、殺してしまおうとかいう感覚の中で育った人間はどうなるでしょう。
 それこそが今、問題になっている安易な殺人や傷害などの事件をおこす感覚に繋がっているのではないかと思います。

 さっきまで元気にしていても、事故に遭って亡くなるかもしれません。また、病気になって亡くなるかもしれません。いつ、何がおこり、どうなるのかわからない私達の命です。年齢の順番というわけでもなければ、何歳まで生きると決まっているわけでもない。そして、1度きりの今の私の命。私だけでなく、他の人も同じであり、代わってもらう事も代わってあげることも出来ません。1つきりで儚く、この命にどれだけの命がかかわり、どれだけの心がかけられているか。

 仏教は死んでから・年老いてからという誤解は多いようですが、「互いに思いあい、生かしあっているからこそ今がある」ということを、考えることも大切なことなのです。

2000年8月

 

 

何ごとも み法の親の はからいと
うちまかせたる 身こそ 安けれ

 三重県の津市に、”真宗高田派本山 専修寺”があります。そこの学僧で歓学というという地位にあった、生桑完明先生の歌です。
 自分の死を、み法(みのり)の親のはからいと受けとめて、安らかにお浄土へ往かれた先生の辞世の歌といっても良いでしょう。

 仏教学と信仰は別のものです。仏教に関してよく知っている人が信仰者かと言えば、必ずしもそうではありません。経済学者は皆金持ちになれるでしょうか?考えてみてください。
 でも、生桑先生は仏教学者であり、また熱心な信仰の人でもありました。ですから、このような歌を詠まれたのです。

 ある本に、昭和5年3月に、見事”上野音楽学校”の入学試験をパスしたお嬢さんの話がありました。
 九州福岡の浄土真宗の寺に生まれた藪てい子さんは、難関を突破し、最高の喜びの中脊髄カリエスになり、その後また別の病に侵されました。
 以後17年という長い闘病生活が始まり、その闘病記録が残っています。その中の歌も、ご紹介しましょう。

人の世は、上を見れば上で、

下を見れば下で、限りなし。

吾れ、半身不随なれど、

いまだ左手あり。

吾れ、脳腫瘍なれど、

いまだ味あり、色彩あり、

音あり、声あり、言葉あり、匂いあり。

それも、やがて消えゆく身なれど、

なお念仏あり、み仏あり、

大悲あり、浄土あり。

吾れ、なお仕合せなりき。

 なんと素晴らしい歌でしょう。それこそ、信心の人ですね。
 『歎異抄』「念仏の行者は無碍の一道なり」というお言葉がありますが、自分の死を乗り越えての歌だと思います。長い闘病生活の中で、阿弥陀様の呼び声に目覚められたのでしょう。

 生桑先生も藪さんも共に、自分の為の、阿弥陀様からのお与えものと受けとめ、その阿弥陀様にお任せし、必ず仏に成ると安心しておられたのでしょう。
 浄土真宗ではこのような素晴らしい人を「妙好人」と尊敬しております。
 自分を見つめてみますと、どうでしょうか。
 「生・病・老・死」は誰にでも平等にあることで、けっして逃れられないことは重々頭の中で承知しています。しかし、自分のこととなると、なかなか納得いきません。
 仏壇を綺麗にし、お経を読み、念仏をし、また、いろんな所へお参りしているから安心だと思っておりませんか。拝み倒して安心しているのではないでしょうか。病気にならないように…だとか、はたまた、死なないようにとか……

 『歎異抄』「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念仏をまうさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや………経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もともと不便(ふびん)のことなり」とあります。
 本当に学問と信仰は異質なものではありますが「仏教について沢山知ってる方が良いんだ」と思いこんでいる人が多いように思います。それを驕慢(きょうまん)といいます。
 また、歳をとれば体力も衰え、病気もし、愛する人と別れなければならないこともあるでしょう。けっして思い通りにはいきません。どうしても愚痴が出てしまうことだって、少なくないでしょう。
 そんな自分になりたくないのですが、気がついてみるとそんなことを思っている自分です。本当に愚かしい面を持っています。
 甘えるわけではありませんが、この私のだからこそ、阿弥陀様はいつも傍らにいてくださるのです。
 そのことに気づく時、私も念仏してゆきたい……お与え物の命であることを喜び、必ずお浄土へ連れていった下さることを、喜びたいものです。

住 職

2000年9月

 

 

毎日掃いても 落ち葉はたまる
これが とりもなおさず
人生である 人間である

 やっと涼しげな風が吹くようになり、秋を感じられるようになりました。今年は暑い時期が長かったですね。
 秋といえば紅葉。観光名所に多くの方が紅葉狩りに出かけられます。きっと今年も、テレビや新聞に、美しい景色を堪能する人達がニュースに出ることでしょう。
 しかし、綺麗な秋の景色ではありますが、落ち葉に悩ませられる季節でもあります。うちは境内らしい境内もない街中の寺なので、まだましですが……それでも落ち葉は飛んできますけれども……広い境内を持ち、沢山の木があるお寺や、お庭をお持ちのお宅は、掃除に大変な思いをなさるでしょう。
 掃いても掃いても、はらはらと枯葉が落ちます。見ているだけなら風情を感じられますが、手入れする方は大変です。
 大阪の別院がある御堂筋沿いは銀杏並木ですが、あの葉は土にかえらないので、道はそれこそ葉だらけだったように記憶しています。

 その、掃いても掃いても次から次へと落ちてくる葉は、まるで私達の煩悩のようです。
 我が身を省みて反省したり、思いなおしたりすることもあるでしょう。「ありがとう」と手を合わせ、心に感謝の気持ちが満ちていることだってあるでしょう。
 でも、普段はどうでしょうか。いつもいつも、そんな心でしょうか。
 どうしたって生命欲や食欲や睡眠欲などの生命に関わる欲求から始まり、腹を立てたり、文句を言ったり、何かのせいにしたり、声を荒げてしまうこともある。
 身近な話で言えば、心も体も健康な時は広い気持ちで考えることが出来ても、例えば「体を病む」という縁にあえば、「痛い」と言いたくもなる。「昔はこんなことも出来たのになあ」と愚痴りたくもなる。
 私自身、先月書いた生桑先生や藪さんのような心で受け入れるようには、なかなかなれないだろうと思います。

 この、あるがままの私を救って下さるのが阿弥陀様です。
 が、だからといって落ち葉を掃くことをやめてしまっていいということではないでしょう。
 自分を見つめ、阿弥陀様や周囲の人々の心やご縁に感謝して手を合わせることは、とても大切なことだと思います。
 阿弥陀様の光に照らされながら、煩悩という落ち葉を掃いていくのです。

2000年10月

 

 

世界に、自力わなし、
わがこころこそ、自力なり
自力が他力にしてもろて、
今はあなたと申す念仏

 島根県温泉津(ゆのつ)に生まれた妙好人(みょうこうにん)、浅原才市(あさはらさいち)さんの詩です。昭和七年一月に、83歳で往生をとげられました。

 才市さんが11歳のとき、両親が離婚し、しかも父親が極貧の生活をする身になり、船大工の年季奉公に出されました。才市さんの心には、父母への怨みと慕情が交錯していました。

ゆうも、ゆわんもなく、おやが死ねばよいと、おもいました。
なして、わしがおやは、死なんであろうかと、おもいました。
この悪業、大罪人が、いままで、ようこれまで、今日まで大地がさけんこに(裂けなくて)、おりましたこと。

 晩年になって、こんな深い懺悔の詩を作っていらっしゃいます。

 「おやのゆいごん なむあみだぶつ」
という才市さんの言葉でわかるように、この仏縁も父から与えられたものでした。

 50歳を過ぎた頃から船大工を辞め、下駄職人になり、近くのお寺で今まで以上に真剣に聞聴に励み、頭に浮かぶと鉋屑(カンナくず)に詩を書き、夕方お勤めをしてから清書する日々をおくられたそうです。
 もちろん、読者を意識したものではなく、自分自身の法味愛楽の為に書いたものですから「方言」もありますし、また、ようやく平仮名が書ける程度の学力だったそうで読みにくいのですが、自然に涌き出る本物の言葉は、読む人に感銘を与えます。

 人間が迷っているというのは、世界に満ち満ちている永遠のいのちの親に気づかず、自分を世界の中心に据え、自分を主人公の座につけてしまう。ですから、自分に都合の良い人を愛し、好きなもの、味方を善い人とし、都合の悪いものを憎み、嫌いなものを悪い人と決めつけてしまいます。このような虚構の世界を創ることが「迷い」です。
 これが、自分を絶対のものとして頼む、「邪見驕慢の心」です。この心こそ、阿弥陀様に背を向け、本願を受けつけない心ですから「自力」と言います。

 しかし、阿弥陀様からたえず呼ばれ、私達の疑いの心を突き破られて、「自己を頼む驕慢な心」に気づかせてもらった……言葉を変えれば阿弥陀様の本願に気づかせてもらったことを「自力が他力にしてもろて」と、詠まれたのです。

 本願他力に世界は「親にまかせよ、必ず救うぞ、助かってくれよ」と呼ばれ、「ありがとうございます、親様におまかせいたします」と信順し、呼び声に応えてゆく世界です。
 つまり、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀様の呼び声であると同時に、我々の応答でもあるので、「今はあなたと申す念仏」と、詠まれたのです。

 このように、念仏する事が、仏と私が対面し、呼びかけ、応答する様であることを、

ぶつのこころは、ふしぎなものよ、
めには見えねど、はなしができる、
ぶつとはなしを、するときは、
称名念仏、これがはなしよ。

と、詠んでいます。

 これらの詩を読みますと、深い懺悔の気持あり、阿弥陀様の広い御心を喜ぶ気持あり、です。
 お釈迦様は「念仏者は、これ人中の分陀利華」と、褒め称えられました。分陀利華とは、泥沼に咲きながら泥に染まらぬ、むしろ周囲を浄化する蓮華のことです。

 言葉には言い尽くせぬ麗しい人…妙好人とは、まさに才市さんのことでしょう。

住 職

2000年12月