四肢の不自由な中村久子さん。口の中で針に糸を通して着物を縫われた方の、喜びの言葉です。 私は3月になると満55歳になりますが、いつの間にやら……と言う感じで年齢を重ねております。身体も昔のようにはいきません。 人は色々な食べ物を口にすることで生命を維持しています。生命あるものを食べ、沢山の人々の働きで食事が出来るのですから、感謝を表して、 人前で挨拶する時、 数年前、公立幼稚園の先生に聞いた話です。 ハワイ在住の方に、 また、人様が私に心を懸けて下さることも、喜ぶべきことです。 住 職 1999年1月 |
1月から何日か雪が降り積もり、朝から除雪に追われることがありましたね。私が子供の頃は、もっと沢山降り積もり、住職が屋根の雪下ろしをしなければならない年もあったように記憶しています。 さて、今月の言葉はまさに読んで字の如しで、あらためて解説することもなかろうというほどストレートな言葉です。何を書こうか迷っているほどで…… 一般的に私たちのことを“人間”と呼んでいます。「他に何があるのか」とお思いでしょうが、仏教で言うところの“人間”は、一般で言う生き物としてのそれではなく、「恵みを喜ぶことが出来るもの」のことを指します。 しかし、恵みを喜ぶどころか、恵まれすぎて気づきもせず、もっともっとお金が欲しい、物が欲しい、楽をしたいと思っているものも世の中には沢山います。勿論、「もっと」という思いが今の豊かな世の中を創る力になったことは確かですが、それを喜ばず、なんにつけても当たり前……お浄土に持って行くつもりなのか、金利の計算ばかりしていたり、貰うことばかり考えていたり。 こういう恵みを喜ぶことを知らないものは人間ではなく“餓鬼”と言います。欲が積もって、人間としての道が見えなくなって踏み外しているのです。 余談ですが…よく、“犬畜生”なんて汚い言葉を使う人がいますが、犬だって猫だって可愛がれば恩義は忘れません。ペットを飼っている身としては、とても嫌な言葉です。私たちのほうが、よっぽど“畜生”に近いのではないかと…思えます。 普段は、「欲深き…」というこの言葉を忘れていても、雪が降ったら思い出してください。そして、欲深になって道が見えなくなっていないだろうか、振り返ってみてください。
1999年2月 |
私たち凡夫は、悲しいかな すぐに愚痴が出るものです。その中で今回の言葉に当てはまるのは、 施したと思う心は外道の心。お中元やお歳暮を例にとってみましょうか。 お正月、神社で沢山お賽銭をあげ、健康や合格祈願や商売繁盛をお願いした方はいらっしゃいますか。 では、私たちに無償の施しとは? でも、こんな話は聞いたことがないですか。 お経に、三輪清浄さんりんしょうじょうという言葉があります。施す者と受け取る者と施物の3つに執着しないことをいうのですが、難しそうですね。
1999年3月 |
杉崎大愚氏の"朝の歌"に 小学生のいの頃、遠足の日だけは必ず早く目が覚めました。嬉しくてワクワクしたことを憶えております。 「みんな待っていてくれるんだ、あてにしていてくれるんだ」 私事で恐縮ですが、忙しかった日は酒が欲しくなります。また、美味しく飲めます。これも満足感のあらわれかもしれません。 ミレーの"晩鐘"を思い出してもらいたい。 せめて阿弥陀様の前に座った時ぐらい、自分の心を素直に見つめて阿弥陀様に懺愧と感謝をし、心から「皆様のおかげ」と感謝し、今日一日無事で働けたことを喜びたいものです。
住 職 1999年4月 |
私達は食べることで栄養を取り、身体を成長させ維持し、命を保っている。あらためて言うまでもないことです。 では、心身ともに健康でなければ……心と身体に栄養をやらなければ死んでしまうけれど、「食えば死なぬか」」というと、どうでしょう。
と、ご文章で蓮如上人もおっしゃっておられます。薬を飲もうが、健康に気を使おうが、やはり死んで往かねばなりません。儚いものです。 この世に唯一の私、人生。何時どうなるかわからない私。それを考えれば、今日一日はが、今の一瞬が、何にも変え難いもののはずです。
1999年5月 |
誰もが恐れる『死』
少しでも長く生きていたいと、皆 考えるものです。
口では「長生きしたくない。早く死にたい」と言っていても、やはり生きていたい。
「この子が一人前になるまでは、元気でいなければ」と、親ならば必ず考えるでしょう。そして、孫を抱くまでは……曾孫を見るまでは……と、思うものです。私の命はここまででいい、なんて思いません。いつまでも元気で、この世に生きていたいのです。
それで、どうするか?
テレビや雑誌で体に良いといわれることは、片っ端から試します。お手継ぎの寺には行かないけれど、延命にご利益があると聞けばお参りに行く。よく見られる姿ですね。
しかし、いつかは死ななければなりません。この世に生まれたからには、歳の順でもなく、性別も関係なく、娑婆の縁がつきて死んで往かねばならないのです。唯円という方が
「念仏を申しておりますが、天に踊り、地に踊るような喜びがわいてきません。また、急いで浄土に往生したいという心もおこってまいりませんのは、いったいどのようなことでしょうか」
と親鸞聖人に伺われますと、
「私も同様の疑問を持っていたが、唯円房よ、そなたも同じ思いだったのですね…中略…果てしなく遠い過去より現在まで苦しみ悩み続けてきた迷いの世界は なかなか捨てきれず、まだ生まれたことのない安楽浄土は、どんなに素晴らしいところだと聞いても、いっこうに慕わしくもありませんし、往きたいという心もおこりませんのは、あらためて煩悩深き身であることを、思い知らされます」
と、おっしゃったのです。
聖人もまた、私達と同じように この世に執着を持ち、死にたくはなかったのです。
でも聖人は延命のために手を合わせていらっしゃったわけではありません。
「阿弥陀仏は、速やかに往生したいという心のないものを特に悲しまれ、慈しみの心ではぐくんでくださっている。煩悩にまみれ、真実の教えに背をむけてばかりいる私達凡夫を救わんがための大慈悲心こそ、ますますたのもしく、浄土への往生も確定していると思います」
と、人間であることの悲しみを受け止め、阿弥陀様のみ心を喜ばれたのです。お参りをすれば、お布施をすれば、良いことがおこると思いがちです。「苦しい時の……」という言葉どおり、よくなると思いたいのでしょう。
しかし、宗教はおまじないではありません。私達がいかに生きてゆくかを教えてくれるのが宗教であり、信仰するということではないでしょうか。生きたいと思うのが人間の本能であり、拭い去れない煩悩であるならば……延命を願うその時も、へってゆく命ならば、白骨の御文章にあるように、
「どの人も早く後生の一大事を心にとどめ、阿弥陀仏をあて頼りにして、念仏するのがよいでしょう」1999年6月
日本人の多くの人は世界中のことを知っています。 知識は豊富であることに越したことはないのですが、でもそれだけで良いのでしょうか? 仏様のお顔をよく見てください。(本当は拝んでくださいと言わねばならないのでしょうが)目は「半眼」といって、細い目です。もともと目の細い方なわけではなくて、わざと半分閉じていらっしゃるのですが……半分は外を、半分は内を見るという教えを表しているのです。 浄土真宗では自分達のことを「凡夫」といいます。 親鸞聖人は 「凡夫」「悪人」と、嫌の言葉を並べましたが、仏様からご覧になると、私達が愚か者・悪人と見えるのです。 自分を見つめることなく ただ外ばかり見るならば、他人を攻撃するやら餓鬼道のような欲求不満が募るばかりでしょう。 機会があれば、「本当の目的」について考えたいと思います。 住 職 1999年7月 |
三億円の宝くじを、まだ買っておりません。 何時の間にやら、お金・物に振りまわされていませんか。あれがあったら、これがあったら良くなるだろう、楽しくなるだろう……と。 浄土真宗でとても大切にする『仏説無量寿経』には、 お金・名誉・家族などと拘わる、また それを得る為に、一生懸命働く。それが人生の目的だと思っていませんか。それはあくまで、生活の手段であり方法でしょう。けっして目的ではありません。何故なら、必ず全てを置いて逝かなければならないからです。 お経には沢山の仏様がいらっしゃることが説かれていますが、その中の一仏だけが、煩悩燃やしどおしの者(私達のことです)を救わずにはおかないと働いてくださるとあります。その一仏が、阿弥陀様なのです。 住職 1999年8月 |
なにかをジッと待っていると、実際の時間の流とは関係なく、長く感じるものです。 私達は毎日決まったようなサイクルで生活しているわけですが、その毎日の積み重ねをしている時は何も感じなくても、気づいて振り返ってみると過ぎ去る速さを痛感させられます。 あるおじいちゃんは、亡くなるまで一度もお寺に参られる事がありませんでした。 このおじいちゃんのように「お寺に行くには早い」なんておっしゃる方は少なくありません。 1999年9月 |
8月にすでに住職が書いた言葉と同じような意味なので、解説にはちょっと苦労……(苦笑) 浄土真宗でとても大切なお経の一つに『仏説無量寿経』があります。その中でお釈迦様はこのようにおっしゃっておいでです。
お経の内容(ほんの一部)が長くなってしまったのですが、どうでしょう?我が身に思い当たることはないですか? 1999年10月 |