1999年 今月の言葉 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 12月

 

生かさるる いのち尊し けさの春
ー中村久子ー

 四肢の不自由な中村久子さん。口の中で針に糸を通して着物を縫われた方の、喜びの言葉です。

 私は3月になると満55歳になりますが、いつの間にやら……と言う感じで年齢を重ねております。身体も昔のようにはいきません。
「こんな坂ぐらい」「このくらいの速さなら」「この程度の重さなら」
と、気持ちだけは若いのですが、残念なことに身体は着いて来ません。そんな状態ですから、すぐに愚痴が出ます。生かされているとも思わないで、思い通りにならなければ腹をたて、八つ当たりしかねない自分です。

 人は色々な食べ物を口にすることで生命を維持しています。生命あるものを食べ、沢山の人々の働きで食事が出来るのですから、感謝を表して、
「いただきます」
と言ってから食べていただきたいものです。
 浄土真宗には
み仏とみなさまのおかげにより このご馳走を恵まれました 深くご恩を喜び ありがたくいただきます
という“食前の言葉”があります。
 全て、生きているのではなく生かされているという「いただきます」なのです。

 人前で挨拶する時、
「皆様のおかげでこのような……」
とか、
「……させてもらいます」
などとよく聞きますが、本心からでなく、言葉だけの挨拶になってしまっていませんか。

 数年前、公立幼稚園の先生に聞いた話です。
 カナダ人の子供さんが入園したそうですが、その子の弁当を見てびっくりしたと言います。それは、ピーナッツバターを塗ったパンと、胡瓜丸ごと1本だけ。日本には栄養も勿論でしょうが、色取りや好き嫌い、可愛らしさなどに気を配って手の込んだ弁当を作っているお母さんが沢山いらっしゃるでしょう。
 でも、その時日本の子供達は、胡瓜を丸ごと噛むことを羨ましがったそうです。

 ハワイ在住の方に、
「アメリカ人はケチだね、ろくなもん食ってないね」
と言ったら、
「ケチなんじゃなくて、質素なんだ。週末だけレストランで食事して、ナイトクラブに行くんだ」
と、返事が返ってきたことがあります。まさか外国人から“質素”の言葉を聞こうとは思いませんでした。
 普段から何でもあることに慣れすぎて、感動も喜びもない……逆に不平不満を言いながらの食事になっていませんか。飽食の時代と言われて久しいですが、やはり「有り難う」の気持ちで食事をしたいものです。
 こういう私もご存知のとおり肥満体なので、今年こそ味わいながら感謝しながら食事をして、減量できないかと思っています。

 また、人様が私に心を懸けて下さることも、喜ぶべきことです。
 昔から心を懸け、身体を懸けてくださる人のいかに多いことか。家族、親類、近所の人、友達、先生、上げれば限りがないはずです。それも慣れすぎて、大きすぎて、気も付きません。
 恵まれすぎている私。喜ぶべきことに気付かずにいる私。だから当たり前と思って生きている私。
 本当は当たり前ではない、皆から生かされている私ですから、
「生かさるる いのち尊し」
と、詠まれたのです。

住  職

1999年1月

 

欲深き 人の心と 降る雪は
積もるにつけて 道を忘るる

 1月から何日か雪が降り積もり、朝から除雪に追われることがありましたね。私が子供の頃は、もっと沢山降り積もり、住職が屋根の雪下ろしをしなければならない年もあったように記憶しています。
 しかし、雪が少なくなった近年、たまに降ると、昔を忘れて愚痴が出でしまいます。我ながら情けないものです。

 さて、今月の言葉はまさに読んで字の如しで、あらためて解説することもなかろうというほどストレートな言葉です。何を書こうか迷っているほどで……

 一般的に私たちのことを“人間”と呼んでいます。「他に何があるのか」とお思いでしょうが、仏教で言うところの“人間”は、一般で言う生き物としてのそれではなく、「恵みを喜ぶことが出来るもの」のことを指します。
 勿論、欲がないわけではありません。食欲・睡眠欲・性欲・物欲など様々な欲求は誰しも持っているものです。
 それでも「いただきます」と手を合わせたり、「有り難う」と感謝したり、生かされていることを喜ぶことが出来る。それを、“人間”と呼ぶのです。

 しかし、恵みを喜ぶどころか、恵まれすぎて気づきもせず、もっともっとお金が欲しい、物が欲しい、楽をしたいと思っているものも世の中には沢山います。勿論、「もっと」という思いが今の豊かな世の中を創る力になったことは確かですが、それを喜ばず、なんにつけても当たり前……お浄土に持って行くつもりなのか、金利の計算ばかりしていたり、貰うことばかり考えていたり。
 一時期カード破産というのがニュースを賑わしましたが、簡単に言うと、高級品欲しさに後先考えずカードを使いまくり、結局は破産という形で借金を踏み倒したわけです。
 少し大げさに書きましたので、あからさまにこんな人はいないでしょうけれど、心のどこかにこんな気持ちがないでしょうか。

 こういう恵みを喜ぶことを知らないものは人間ではなく“餓鬼”と言います。欲が積もって、人間としての道が見えなくなって踏み外しているのです。
 また、「有り難う」と感謝するどころか、
「余計なことをして」
「うるさい」
とか、相手の心を逆手に取るようなご恩を知らない者を“畜生”と言います。

 余談ですが…よく、“犬畜生”なんて汚い言葉を使う人がいますが、犬だって猫だって可愛がれば恩義は忘れません。ペットを飼っている身としては、とても嫌な言葉です。私たちのほうが、よっぽど“畜生”に近いのではないかと…思えます。

 普段は、「欲深き…」というこの言葉を忘れていても、雪が降ったら思い出してください。そして、欲深になって道が見えなくなっていないだろうか、振り返ってみてください。
 怒り・嫉妬・悲しみなどで心が乱れている時は、阿弥陀様の前に座って手を合わせてみてください。阿弥陀様の前で、
「コンチクショー」
などと言う人はいないと思います。ご仏前に座っていれば静かな心になれるものです。
 そして、我が身を省みて、阿弥陀様、亡き人達、家族や友人など有縁の人々や数々の命に生かされている私であると、喜び感謝する。その時の私が、“人間”なのです。

 

1999年2月

 

施しは仏の心
施したと思う心は 外道の心

 私たち凡夫は、悲しいかな すぐに愚痴が出るものです。その中で今回の言葉に当てはまるのは、
「〜してやったのに、××さんは〜してくれなかった」
と言うようなことでしょう。口にはしなかったとしても、考えたことはないですか。

 施したと思う心は外道の心。お中元やお歳暮を例にとってみましょうか。
 勿論、いつもお世話になっているから「ありがとう」という気持ちが込められた物も少なくないでしょう。しかし、中には職場の上司だとか有力者に下心のこもった贈り物をすることもあるでしょう。

 お正月、神社で沢山お賽銭をあげ、健康や合格祈願や商売繁盛をお願いした方はいらっしゃいますか。
 これだけのことをしたから、こうしてくれというのは、まさに下心がこもった行為ではないでしょうか。

 では、私たちに無償の施しとは?
「親が子に注ぐ愛情は無償のものだ」
とおっしゃるかもしれません。確かにそうでしょう。我が子の誕生に慶び、良かれと思うことは何でもしてやりたいと愛情を注ぎ、体をかけ、心をかけて成長を見守る。施しているとは思わずに施している。確かに仏の心ですね。

 でも、こんな話は聞いたことがないですか。
「大事に育ててやったのに、大きくなったら親の言うことなんてきかなくなって、困ったもんだ」
「結婚したら別居するんだって言って出て行ってしまって、何のために育ててきたんだか、顔もなかなか出さないし」
「都会で就職したら、あっちの人になってしまって、帰ってくる気がないみたいで困る」
 代償を期待して育てたわけではなかったのに、おかしなものです。いつの間にか、外道の心になってしまっています。

 お経に、三輪清浄さんりんしょうじょうという言葉があります。施す者受け取る者施物の3つに執着しないことをいうのですが、難しそうですね。
 私達はどうしても何かに執着してしまいます。それではなかなか本当の施しができません。
 では、私たちには無理でしょうか。そんなことはないはずです。
 外道の心に気づき、我が身ばかりを考えず、相手を思い、してもらうことばかりを考えず、また、施してもらった(物ばかりではなく言葉や愛情)と感じれば、喜びや感謝を微笑みや愛情や言葉(無衣施:影現寺だより1998年9月号参照)で、あらわす。
 相手を思いやる心を大切にしていれば、「〜してやった」とは考えないのではないでしょうか。

 

1999年3月

 

朝は希望に起き
昼は努力に生き 夜は感謝に眠る

 杉崎大愚氏の"朝の歌"
「めぐみあふるゝ貴き一日 今日も捧げん 我らの生命」
と、あります。

 小学生のいの頃、遠足の日だけは必ず早く目が覚めました。嬉しくてワクワクしたことを憶えております。
 今はどうでしょうか。大変恥ずかしいことですが、目覚めると同時に愚痴が出ます。寒い日になるとか、暑い日になるとか、希望どころではありません。
 でも、考えてみると、私を待っていてくださる方が沢山いらっしゃいます。会社に出勤なさる方も同じことでしょう。自分の役目・働きをあてにしている人のいかに多いことか。立場を変えると、私も多くの人をあてにしています。今日一日を過ごす為に沢山の人の働きを必要としています。にもかかわらず、目が覚めると希望どころか愚痴が出るとは、大変恥ずかしいことです。

 「みんな待っていてくれるんだ、あてにしていてくれるんだ」
と思いたい。いや、思わなくてはいけないのです。
 気づかずにおりますが、本当のことでしょう。その気持ちがあるからこそ、一所懸命働くのでしょう。努力するのでしょう。
 ただお金のためだけに働くのではなく、
「ひとが喜んでくれるだろう」
と、一所懸命働くのでしょう。そこに、労働した後の満足感・充実感があるはずです。

 私事で恐縮ですが、忙しかった日は酒が欲しくなります。また、美味しく飲めます。これも満足感のあらわれかもしれません。
 でも、ここで大酒を飲んで寝てしまってはもったいない。
 渡辺千秋氏の"夕の歌"に、
「今日の感謝と幸福の 鐘が鳴る 鐘が鳴る」
と、あります。
 今日一日いろんな人と出会い、そして一所懸命働けた、働かせてもらったことを喜びたい。

 ミレーの"晩鐘"を思い出してもらいたい。
 夕日を浴びて夫婦が感謝して祈る姿を描いたものですが、信ずる教えは違いますが、あの姿には感動をおぼえます。
 自分で働いているのだから当たり前という考えの人が増えているようですが、それだけでいいのでしょうか。
 よく、
「皆様のおかげで」
と言いますが、あれは口先だけなのでしょうか。
 いいえ、世の中の仕組みを考えると、
「皆様のおかげで」
と言わざるを得ないのです。文字通り、皆様のおかげなのです。

 せめて阿弥陀様の前に座った時ぐらい、自分の心を素直に見つめて阿弥陀様に懺愧と感謝をし、心から「皆様のおかげ」と感謝し、今日一日無事で働けたことを喜びたいものです。

 

住  職

1999年4月

 

食わねば 死ぬ
では 食えば 死なぬか

 私達は食べることで栄養を取り、身体を成長させ維持し、命を保っている。あらためて言うまでもないことです。
 その為に仕事をし、給料を貰い、「食」の為だけではなく「衣・住」の他、学校へ行ったり、病院に行ったり、余暇を楽しんだり……そういったこと全てをひっくるめた生活を維持しています。
 「食わねば」とは食べることそのものだけでなく、心身ともに健康である為の全てを意味すると思います。

 では、心身ともに健康でなければ……心と身体に栄養をやらなければ死んでしまうけれど、「食えば死なぬか」」というと、どうでしょう。
 この世に生まれたからには、残念なららどう足掻こうが死ぬのです。蓮如上人は「一生すぎやすし」とおっしゃっています。事故かもしれません、老衰かもしれない。古い機械が壊れるように、私達の身体もいつしか節々が痛み、病に弱り、倒れることもあるでしょう。「死にたくない!痛いのは嫌だ!」そう思うのは当然のことです。
 でも、機械は部品を取り替えれば半永久的に使えるでしょうが、人の身体はそうはいかない。

私が先、人が先、今日とも明日とも知らず、人に遅れ、人に先立ち、根元に雫が滴るより、葉先の露が滴るより多く、年齢に関係なく人は死んでゆくといわれています。ですから朝には紅の血気盛んな顔色でも、夕べには白骨となる身です……

と、ご文章で蓮如上人もおっしゃっておられます。薬を飲もうが、健康に気を使おうが、やはり死んで往かねばなりません。儚いものです。
 それなら好きなことだけやって、面白おかしくやっていたほうがいいじゃないか。いいえ、そういうわけにはいきません。「食わねば死ぬ」のです。自分や家族、必要としてくれる人の為に働いたり、心をかけあったり……お互いに生かし生かされあっていなければ、それこそ生きては行けないのです。沢山の命に生かされ、大きな慈悲に守られている命……それが「私」です。

 この世に唯一の私、人生。何時どうなるかわからない私。それを考えれば、今日一日はが、今の一瞬が、何にも変え難いもののはずです。
 その大切な時を、カレンダーの六曜(大安・先勝…など)とか方角や霊感商法などに左右されて生きるのは、はたしてどうでしょうか……
 蓮如上人はこうおっしゃっています。

人間のはかないことは、老少定まりのないこの世界のならいです。ですから、どの人もはやく後生の一大事をこころにとどめ、阿弥陀仏をあて頼りにし、念仏するのがよいでしょう……

1999年5月

 

 

延命を 祈るうちにも へる命

誰もが恐れる『死』
少しでも長く生きていたいと、皆 考えるものです。
口では「長生きしたくない。早く死にたい」と言っていても、やはり生きていたい。
「この子が一人前になるまでは、元気でいなければ」と、親ならば必ず考えるでしょう。そして、孫を抱くまでは……曾孫を見るまでは……と、思うものです。私の命はここまででいい、なんて思いません。いつまでも元気で、この世に生きていたいのです。
それで、どうするか?
テレビや雑誌で体に良いといわれることは、片っ端から試します。お手継ぎの寺には行かないけれど、延命にご利益があると聞けばお参りに行く。よく見られる姿ですね。
しかし、いつかは死ななければなりません。この世に生まれたからには、歳の順でもなく、性別も関係なく、娑婆の縁がつきて死んで往かねばならないのです。

唯円という方が
「念仏を申しておりますが、天に踊り、地に踊るような喜びがわいてきません。また、急いで浄土に往生したいという心もおこってまいりませんのは、いったいどのようなことでしょうか」
と親鸞聖人に伺われますと、
「私も同様の疑問を持っていたが、唯円房よ、そなたも同じ思いだったのですね…中略…果てしなく遠い過去より現在まで苦しみ悩み続けてきた迷いの世界は なかなか捨てきれず、まだ生まれたことのない安楽浄土は、どんなに素晴らしいところだと聞いても、いっこうに慕わしくもありませんし、往きたいという心もおこりませんのは、あらためて煩悩深き身であることを、思い知らされます」
と、おっしゃったのです。
聖人もまた、私達と同じように この世に執着を持ち、死にたくはなかったのです。
でも聖人は延命のために手を合わせていらっしゃったわけではありません。
「阿弥陀仏は、速やかに往生したいという心のないものを特に悲しまれ、慈しみの心ではぐくんでくださっている。煩悩にまみれ、真実の教えに背をむけてばかりいる私達凡夫を救わんがための大慈悲心こそ、ますますたのもしく、浄土への往生も確定していると思います」
と、人間であることの悲しみを受け止め、阿弥陀様のみ心を喜ばれたのです。

お参りをすれば、お布施をすれば、良いことがおこると思いがちです。「苦しい時の……」という言葉どおり、よくなると思いたいのでしょう。
しかし、宗教はおまじないではありません。私達がいかに生きてゆくかを教えてくれるのが宗教であり、信仰するということではないでしょうか。

生きたいと思うのが人間の本能であり、拭い去れない煩悩であるならば……延命を願うその時も、へってゆく命ならば、白骨の御文章にあるように、
「どの人も早く後生の一大事を心にとどめ、阿弥陀仏をあて頼りにして、念仏するのがよいでしょう」 

1999年6月

 

 

千世界を知るも なお 自己を知らず

日本人の多くの人は世界中のことを知っています。
また、知ろうとすれば簡単なことで、新聞・テレビ・インターネット等なんでも利用することができます。
神戸で小学生の悲惨な殺人事件がありましたがその加害者の顔がアメリカ経由でインターネット上に流れました。
そんなことさえもできるし、知ることができるのです。
他国では、日本・中国・韓国の区別がつかない背景の映画さえ作られていることがあります。それを考えれば、日本人は知ることに貪欲といっていいでしょう。
世界の評論家のような顔しているくらい、まさに『千世界を知る』といえるでしょう。

知識は豊富であることに越したことはないのですが、でもそれだけで良いのでしょうか?
知識を得る為に何かを見ている自分の目を見ることができますか?
聞いている耳を見ることができますか?
そんなことのできない私でしょう。
まして、自分の心の中が見えますか?
仏教では自分に気づくこと大切であるといいます。
でも、自分に当てはめてみると、難しいことですね。
意識しなくても興味のあることは記憶に残るし、他人の間違いはよく見えるし。
自分のことを「見る・考える」なんて、なかなかできないことですね。それこそ『自己を知らず』ですよ。

仏様のお顔をよく見てください。(本当は拝んでくださいと言わねばならないのでしょうが)目は「半眼」といって、細い目です。もともと目の細い方なわけではなくて、わざと半分閉じていらっしゃるのですが……半分は外を、半分は内を見るという教えを表しているのです。

浄土真宗では自分達のことを「凡夫」といいます。
「愚か者」とか「弱い者」等という意味があります。
「愚か者」といっても知識と感情は別であるという意味での「愚か者」です。
例えば、『生あるものは必ず死ぬ』と知っているけれども「私は別でありたい」と思う愚かさ……
『弱い』とは、してあげたい気持ちが100あっても 「1しかできない、まったくできない」ということ……
そういうことの何の多いことでしょう。これが自分でしょう。できることもあるけれど、「自分にとってどうだろうか……得か損か?」と考えることもあるでしょう。

親鸞聖人は
『聖道の慈悲といふはものを憫(あわれ)みかなしみ育むなり、しかれども、思うが如く助け遂ぐること極めてありがたし……今生にいかにいとほし不便と思うとも存知のごとく助け難ければこの慈悲始終なし』
と、述べておいでになります。また、心の内にあることの、何割を口に出せるでしょうか?
選んで表に出しているはずです。
それは、悪いこと・恥ずかしいことを思うから、選ばざるを得ないのでしょう。
このように心の内に悪を造るのを「悪人」といいます。

「凡夫」「悪人」と、嫌の言葉を並べましたが、仏様からご覧になると、私達が愚か者・悪人と見えるのです。
ですから、外だけではなく、自己を見つめる時間を持ちたいというのが、浄土真宗親鸞聖人の教えなのです。

自分を見つめることなく ただ外ばかり見るならば、他人を攻撃するやら餓鬼道のような欲求不満が募るばかりでしょう。
生活の手段や方法だけを考え、本当の目的を忘れている今の生活。本当の自己を知ってこそ、本当の目的も見つかることでしょう。

機会があれば、「本当の目的」について考えたいと思います。

住  職

1999年7月

 

 

金ためて 何をするぞと思いしに
煩悩ふやすことばかり

 三億円の宝くじを、まだ買っておりません。
 テレビコマーシャルを観ると思い出しますが、お参りに出るとつい忘れてしまいがちです。早く買って、半分でも一割でも当たってくれれば……と、願っております。
 高額の当選金を受け取れば、人生……変わるでしょうね。その金で、ああして、こうして……と、思案することでしょう。思案ならまだいいかもしれませんが、おごり高ぶりの気持ちから、人を見下すかもしれません。ものすごく貪欲になるかもしれません。

 何時の間にやら、お金・物に振りまわされていませんか。あれがあったら、これがあったら良くなるだろう、楽しくなるだろう……と。

 浄土真宗でとても大切にする『仏説無量寿経』には、
老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが憂い悩むことにかわりはなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろ心配し、いつも欲に追いまわされて、少しも安らかな時がないのである。田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。……思いがけない水害や火災や盗難などにあい、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ち着く時がない。
と、当たり前のことが説かれてあります。
 何時も思うことですが、大きな家を見ると、掃除は大変だろうな…庭の草むしりも大変だろうな…と。その一方で、バーベキューができる大きな庭が欲しいな…自慢できるような家が欲しいな。どちらにしても、それぞれ悩み苦しみがあるものです。けっして常に満足できる自分ではないはずです。
 しかも、何時かは手にしたそれらを置いて逝かねばならない自分です。放しがたいですね。何時までも握っていたいですね。それが煩悩でしょう。
 金があればいろんな煩悩を増やすことになります。金が無ければ無いで、また「欲しい」と煩悩を燃やすことになります。どんな境遇にあっても、悩み苦しみは消えない……消せない自分でしょう。

 お金・名誉・家族などと拘わる、また それを得る為に、一生懸命働く。それが人生の目的だと思っていませんか。それはあくまで、生活の手段であり方法でしょう。けっして目的ではありません。何故なら、必ず全てを置いて逝かなければならないからです。
 置いて、何処へ行くのでしょうか?地獄でしょうか、餓鬼道でしょうか。

 お経には沢山の仏様がいらっしゃることが説かれていますが、その中の一仏だけが、煩悩燃やしどおしの者(私達のことです)を救わずにはおかないと働いてくださるとあります。その一仏が、阿弥陀様なのです。
 この阿弥陀様にお救い頂き、仏にしていただくのが、私が成仏することが、人生の目的です。(仏教の最終目的は仏になること)
 親鸞聖人は「阿弥陀様の大きなお気持ちには、老人・若人・善人・悪人の区別が無い」と述べておいでになります。また、「特に、心に悪を造る人が目当て」ともおおせられました。
 お金も名誉も捨てなさい!ということではありません。生活の手段として、大切なことです。
 あくまで目的ではなく、その為にいろいろと悪を造らざるをえない私の為の阿弥陀様をあて頼りにして、仏に成ることを人生の目的としたいものです。

住職

1999年8月

 

 

待つ長さ 過ぎ去る速さ 生きる今

 なにかをジッと待っていると、実際の時間の流とは関係なく、長く感じるものです。
 例えば、小学生の頃、早く大人になりたいなんて思いながら学校へ行っていなかったでしょうか?私はそうだったんです。
「大人になったら、学校で嫌いな勉強をしなくていい」
なんて浅はかな事を考えていました。でも、なかなか大人にはなれない。まだまだ何年もランドセルのお世話にならなければいけないんですね。
 ところが、何年かして、「二十歳を過ぎると坂を転がるみたいに、月日の流が速いわよ」といわれ……まったくもってそのとおり。あれよあれよという間に月日が過ぎるんですね。速く大人になりたかった時の事を考えると、嘘のようです。

 私達は毎日決まったようなサイクルで生活しているわけですが、その毎日の積み重ねをしている時は何も感じなくても、気づいて振り返ってみると過ぎ去る速さを痛感させられます。
「気がついたら子供が結婚するような歳になったわ……早いわねえ」
なんて思った事はありませんか?

 あるおじいちゃんは、亡くなるまで一度もお寺に参られる事がありませんでした。
「報恩講だから、たまにはお参りに来てくださいよ」
と住職が声をかけても「まだ早いから、行かない。退職したら行くことにしますよ」
とおっしゃる。
退職後に声をかけても
「まだ寺に行くには早いから、歳をとったら、行きます」
と言われ…その頃はもう八十代でしたか……結局一度もお寺に足を運ばれる事がないまま、亡くなりました。残念な事です。

 このおじいちゃんのように「お寺に行くには早い」なんておっしゃる方は少なくありません。
 でも、お寺に行くのに…お念仏するのに、年齢など関係ないのです。
 生きている私達が…生かされている私達が、今、手を合わせ、お聴聞し、お念仏しなければ、いったい何時できるというのでしょう?
 明日をも知れぬ我が身です。何時どうなるかなんて、先の事など誰にもわかりません。
「後で、後で」といっていて、結局お寺に参る事も、お聴聞することも無いまま亡くなるかもしれません。
 生きて行くのも私、死んで往くのも私。誰にも代わってもらえない命。人生。
 「私」の代わりに手を合わせ、お聴聞し、お念仏できる人などいないのです。
 先送りにせず、生きる今、生かされている今、お念仏する事が大切なのです。

1999年9月

 

 

財あれば財に憂え 財なければ財になやむ

 8月にすでに住職が書いた言葉と同じような意味なので、解説にはちょっと苦労……(苦笑)

 浄土真宗でとても大切なお経の一つに『仏説無量寿経』があります。その中でお釈迦様はこのようにおっしゃっておいでです。

田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。
家畜や使用人、金銭、衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂い悩む。
心配し、災害や盗難、恨みや借りのあるものに奪われなくしてしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ち着くときがない。
怒りを胸に抱いて悩み続け、心を固く閉ざし、気の晴れることはない。また、災難にあって命を失うことがあっても、すべてを残してこの世を去るのであり、何一つ持っていくことはできない。
身分が高くても裕福であっても、このような憂いがある。
そして苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。

また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。
田がなければ田が欲しいと悩み、家畜やし容認、金銭や衣食、日常の品々に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。
たまたま一つが得られれば他の一つが欠け、これがあればあれがない…というありさま。
つまりは全てをそろえたいと思う。
やっとみんな揃ったと思っても、すぐにまた消えうせてしまう。
長き悲しんで再びそれらを求めても得ることができず、思い悩むばかりで身も心も疲れ果て、何をしていても休まることがない。
ただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。

 お経の内容(ほんの一部)が長くなってしまったのですが、どうでしょう?我が身に思い当たることはないですか?
 「自分は、そういうことは考えない」とおっしゃる方は、いらっしゃらないはずです。
 この肉体がある限り、守り、愛すべき家族がある限り、(家族だけとは限らないでしょうが)財産・衣食住に対するこのような欲求は持っているはずですから。
 とはいうものの、みんな口が肥え、この飽食の時代ですから、昔のように
「なんでもいいから口に入るだけ幸せだわ」
だなんて思っているでしょうか?
「家族が仲良く暮らしていければそれでいい」
と思っていますか?それで済まないのではありませんか?
 どうせなら美味しい物が食べたいでしょう。起きて半畳寝て一畳より広くてきれいな家に住みたいでしょう。
 昔(といっても、私達の年代では教科書や年配の方にうかがった知識だけですが)に比べて生活が豊かになったといいますが、「もっと」という思いは、人の心からなかなか消えるものではありません。
 私達は死ぬときに全部置いて往かねばならない財産に、なんと執着していることでしょう。
 それは、恨み、ねたみ、嫉み…人間関係にまで影響することだってあります。
 とはいうものの、現代社会ではお金がなければご飯も食べられないし、やはり先々のために蓄えなければと思います。
 でも、「もっともっと」と欲求に振り回され、翻弄されてはいませんか?ちょっと振り返って欲しいのです。

1999年10月

 

 

恥かしや 親に抱かれて 親を探し
くたびれ果てて 親のふところ

この文を読んだとき、メーテルリンクの『青い鳥』を思い出した方もいらっしゃると思います。
 大きな幸せの中にありながら馴れすぎてなかなか気づかず、一生懸命幸せを求める人が多いようです。
 私はこの文を読んでいろんなことを思いましたが、その一つを述べたいと思います。

 かつて、何処ででも念仏の声が聞かれた頃……阿弥陀様の大きなお心が解らず、いろいろと悩んでいる人が沢山ありました。
 自分で何かしなければならない…例えば厳しい修行を積んで雑念を捨てるとか…等の条件があれば解りやすいのですが「ただ聞いて信じる」というのですから、迷い悩むわけです。
 特に「信心」が大事というものですから、
どうしたらもらえるのだろう…?
と、「もらいたい、もらいたい」となるのです。
 悪い奴がいまして、「私が信心をあげましょう」とまで言います。そこで「では、お願いします。信心をください」となると、もうおしまいです。
 今でも「私は生き仏だ」という人がいて「信心」をくれるというバカな話があるそうですが、人からもらう「信心」なんて滑稽ではありませんか。

 親鸞聖人が法然上人(聖人のお師匠様で浄土宗の開祖)の側にいらっしゃった頃「私の信心も法然承認の信心も同じです」とおっしゃったそうです。
 周囲の弟子仲間が「なんともったいないことを!!上人と同じ信心だなどと、そんなことがあろうはずが無い」と大憤慨したそうです。
 しかし、法然上人は、
「(阿弥陀)如来様から賜る信心なのだから、二人の信心は同じです」と、おっしゃったそうです。 悩まなくても、探さなくても、阿弥陀様のお気持ちを聞けば解るはずです。

 『重誓偈』の中に「普済諸貧苦 誓不成正覚」とあります。
 私の心は常に悪を造っています。欲をおこし、腹を立て、愚痴をこぼし……そのまま口に出したり態度で表したり、そのまま表に出してしまえばとんでもないことになるでしょう。
 その上、そのことに気づかず、己が善人だと思い、そして無意識に己が一番可愛い者という立場で物事を判断しています。
 つまり、こんな私達が「貧苦」です。
 その私達に「仏の命をかけて救う」とお約束してくださいました。それ程、大きなお気持ちの阿弥陀様です。ですから、何時も側にいてくださいます。
 言葉をかえれば「阿弥陀様の手の内にある私達」とも言えます。決して遠くない阿弥陀様なのです。常に私達のことを思い、一緒にいてくださる阿弥陀様をあて頼りにすることを「信心」といいます。

 母親はいつも小さい子供のことを心配して側にいます。子供は用事が無くても「お母さん」と呼びます。それと同じように、あて頼りにする阿弥陀様のお名前を呼ぶのが念仏です。それも、側にいてくださるから呼べるのでしょう。
 ですから、自分の声で称えるままが、阿弥陀様にさせられている念仏といえます。それを「他力念仏」と言うのです。(仏教用語では人間の力を自力、仏の力を他力と言います)

 見えれば・聞こえれば・匂えば、心に悪を造る私達。 そんな自分を恥かしいと気づくとき…だからこそ阿弥陀様が側にいてくださると思うとき、阿弥陀様に懺愧と感謝の気持ちでお名前を呼びたいものです。「南無阿弥陀仏」と……

 どうすれば…誰から…何処で…?と探さなくても、もともと阿弥陀様と一緒にいた私達なのです。

住 職

1999年12月