1998年 今月の言葉 2月 3月

 

くらやみのなかで 宝があっても つまづくだけだ

 別に“暗い所を歩いていて足をぶつけた”ということではありません。
 「くらやみ」というのは、物事を本当に見極めることのできない私たちの状態です。去年の12月に書いた無明と同じですね。

 皆さんご記憶のことと思いますが、価値観がおかしくなるほど景気がよく、土地や家や高級車などを買ったり、接待などで飲み屋街が大賑わいだったりした時期がありましたね、バブルです。収入も増え、高値のついたマンションや土地は今、ものすごく値下がりしています。多くの人が浮かれ、あれもこれもと手を出した結果、多くのローン返済が残ったと、後々報道されています。

 「くらやみのなか」の私達は、先のことなどわかりません。本当のことを見極めることができません。そんな私たちが物欲によって「つまづく」……つまり痛い思いをする……ということです。
 『舌切り雀』に出てきた、大きな葛篭を貰って帰ったおばあさんのようです。

 もっといいものを、もっと楽を……と思わずにはいられないのが私たちです。物欲によってシッカリにぎっておりますが、それはにぎったつもりであって、最後には全て放して往かなければならない私たちです。
 そんな愚かな私たちだからこそ、救わなければおかないとおっしゃるのが阿弥陀様です。
 だからといって、煩悩に任せておいてよいとは思えないでしょう。人間は煩悩の塊でありますが、阿弥陀様の智慧に比べられるほどのものではないにしても、考えて行動できる生き物なのですから。

1998年3月

 

食事とトイレは 代理がきかない 生命の一大事だから
聴聞も 代理がきかない 心の一大事だから

 私達人間は、忙しくて食事を抜くことはあるとしても、完全に食べる行為をやめてしまうことはありません。風邪などで食欲がなくても、体力をつけるためにお粥を食べたり、食事の代わりに点滴をしたりして栄養を補給し、生命を維持しています。
 私が食べなければ私の栄養にならない。誰かが食べても、私の栄養にはならない。
 排泄という行為も同様で、我慢は病気のもとです。
 文字通り、トイレに行く間ももったいないというほど忙しい時に、
「代わりに行って来て」
と、冗談みたいなことを言いたくなりますが、実際は自分が行かなければどうにもなりません。

 食べる係り、トイレに行く係り……なんて担当は決められないでしょう?どちらも当然のことです。
 このことについては皆さんも、
「当たり前だ」
とお思いでしょうが、お聴聞についてはどうでしょうか。

 ご存知の通り、当寺では毎月親鸞聖人の月命日の前夜に法座をひらいています。が、何故かお参りされるのはほとんど女性です。また、家族……ご夫婦などで連れ立っていらっしゃる方は、残念ながらほとんどいらっしゃいません。
 皆さんのお宅で、お仏壇のお世話をなさり、阿弥陀様に手を合わせていらっしゃるのはどなたでしょうか。お参りだけではなく、お世話するのも、お念仏するのも、決まった人ではありませんか?
「寺のことは、じいちゃんとばあちゃんに任せてあるから」
なんて、おかしな話です。

 いくら家族の誰かが……例えば、おじいちゃんが熱心にお聴聞なさっても、他の人の心に届くものではありません。自分が聞いていないお話を聞いたことには出来ませんから。
 お聴聞は誰かにしてもらうものではない……食事やトイレと同じように、自分でなければいけない、代理がきかないもなのです。
 なのに、暗黙の了解のように担当が決められている。おかしなことだと思いませんか。

 「宗教は個人の信仰ではなく、家の宗教」というような感覚が強い昨今では、誰かがお寺に行けば、誰かが聞いておけばいいや、という思いがあるようです。
 昔はお仏壇が家の中心的存在で、信仰の拠り所であったというのに残念なことです。
 お仏壇のない(阿弥陀様のいらっしゃらない)お宅も多いようですし、これも時代なのでしょうか?……いいえ、時代は移り変わっても、人間は食事やトイレの代理がきくようになったわけではありません。私の栄養は私がとらねば生きていけない。同様に、私がお聴聞しなければ私の心に響きません。私の心の一大事なのです。

1998年2月