貧欲(とんよく)とは、色々なものに対する執着……自分の好む対象に向かって貪り求める心を言います。
仏法では瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)をあわせて、三毒と呼びます。存如上人は、
貧欲を生じ 瞋恚をおこすことも そのみなもとをいへば みな愚痴よりいでたり
と、おっしゃいました。三毒は、私たちが生きている限り取り去ることのできない多くの煩悩の中でも強いものと言えるでしょう。
便利な世の中、物が溢れかえっています。それでも、
「もっと便利で楽な生活がしたい」
「あれが欲しい、これが欲しい」
と考えるのが私たちです。もっと酷くなると、
「あの人よりも、いいものを」
と、考えることもあるでしょう。
多くを求め、思うようにならなければ怒り、他人のせいにして愚痴る。覚えがありませんか?無明とは、文字通り明るくないこと……無知という意味です。
便利さ、快適さを追求してきた結果、携帯電話、車、テレビ、コンピュータ等が普及しました。
しかし、反面、ずさんな産業廃棄物の処理や不法投棄といった問題が取り沙汰されいます。個人レベルでも、空き缶や煙草、自転車まで道端に乗り捨てる。このような問題が起きることを考え付かなかったのか、わかっていたのに知らん顔をしていたのか……
闇の中で先のことを見通せない……本当のことが見えない……それが無明ということであり、私たちの姿なのです。私たちに煩悩(迷い)でなく智慧(真実を見極めること)があったなら、今頃公害に悩むことはないでしょう。川や海の汚染、森林の伐採、排気ガス、ゴミのポイ捨て、戦争等々……ニュースで取りあげられるどれも、私たちの自己中心的な欲求が原因といえるのではありませんか。
1997年12月
お参りに行きますと、
「一緒に、のんのさんにお参りしましょうね」(のんのさん・まんまんちゃん=阿弥陀様)
と、お孫さんと一緒に迎えてくださる方がいらっしゃいます。
小さいお子さんにとって、何を言っているかわからないお勤めの間ただじっとしているということは、我慢できないのでしょうね。動きたくて、ウズウズしているのがわかるだけに、
「偉いなあ」
と思います。と言っても、子供全員がウズウズしているわけではありません。中には、小さなお念珠を手に、神妙な面持ちで静かに座っている子もいるのです。
お家の方が、
「私がお仏壇の前にいると、わからないならもお経の本を広げて、あれを読んで、これを読んで、と言うんですよ」
と、嬉しそうに話してくださいました。
普段からお仏壇のお世話をし、手を合わせる家族の姿を見るうちに、幼いながら身についたのだろうと、感心させられます。しかし、家の大事なお仏壇であるはずなのに、お参りするのもお世話するのもお年寄りの仕事と決めてしまって、他の方もご在宅なのに顔を見ないお宅も少なからずあり、残念なことです。
先祖の徳を偲び、悪を作らずにはいられない私たちが、多くの恵みの中に生かされていることを喜び、阿弥陀様に手を合わせる……これまで先祖代々が生活の一部として伝えてきたことです。
受験戦争や就職戦線等に象徴されるように、人を押しのけて生きていくのが当然のようになってしまった現代こそ、報恩感謝の心を子孫に伝えていかねばならないのではないでしょうか。
まず“私”から。1997年11月
『寺参り』で書いたように、「寺に参るには早すぎる」と考えていらっしゃる方は少なくありません。お寺だけでなく、お仏壇のお世話もお年寄りの仕事と思っていませんか?
どうも、寺に行くのは早い=まだ死ぬには早いということらしいですが、老いるだけでなく、事故や病気にあうこともあり、明日をも知れない我が身だということをお忘れのようです。人は生きているとそれだけ多く経験し、それを活かして生活をしています。多くを経験し、それを自分で乗り越えてきたと強く思う人ほど、「早い」とおっしゃるように感じます。
誰もが生きている限り歳をとります。そして歳老いていくと死を意識し始め、日課のように病院に通い、体を労わるようになってきます。経験をしていない未知の世界ですから、死は恐怖なわけです。
そしてやっと聞法を始める。死んだらどうなるのか、お浄土はどういうところか、自分はどうしたらいいのか……。
しかし、それだけではないのです。生きている限り死を意識せずにはいられませんが、その為だけにお念仏するのではなく、その瞬間を生かさせていただいていることを喜び、感謝し、手を合わせるのです。
もちろん、どのようなきっかけにせよ、お念仏するようになるのは素晴らしい事です。日暮する中で身内は勿論のこと、多くの人から心をかけてもらい、体をかけてもらい、またいろいろな物・命の恵みの中にある私です。それに気付き、喜び感謝するときを、人間と言います。
生まれてから沢山の悪をつくり、周囲に助けられ支えあいながらでなければ生きていけない私達が、今を生きるための拠所として聞法するのに、早いということはありませんね。1997年10月
「独りで生まれて、独りで死ぬ」というと、なんとも寂しい感じがします。たとえ双子で生まれてきても、事故などで一緒に亡くなっても、それは物理的な事にすぎません。 若い人が亡くなると、亡くなった方より年輩の方が 私達は親子だろうが兄弟だろうが親友だろうが、また長年連れ添った夫婦だろうが、完全に別個の人間であるかぎり、どれだけ同じ時間を共有したとしても、歩んできた人生や、これからの人生まで共有できるわけではありません。当然、代わることもできません。 ここまで読んで 唯一のこの命が、多くの人によって支えられ、生かされていることを、今一度考えてみてはいかがでしょうか。 1997年8月 |
ローマの哲学者、セネカの言葉です。 間違ってはいけないのは、よい結果を期待してよい行為をするのではなく、よい行為が結果としてよいものとなると、理解するべきだということです。 それでも私達は、何の期待もせずに何かをしたり贈ったりすることは困難なものです。 例えば、自分の行為に対して 人に施した言葉が自分にまた返ってきて、それが自分を幸せにしたならば、”他人に善を施して、また自分に善を施した”といえるのではないでしゅか。 『無財の七施』というのがあります。べつにお金持ちでなくてもできる、7種類の施しのことです。 言 施 (ごんせ) 言葉の施し 和顔施 (わげんせ) 和やかな顔(笑顔)の施し 眼 施 (げんせ) 優しいまなざしの施し 身 施 (しんせ) 肉体労働の施し 心 施 (しんせ) 思いやりの施し 牀座施 (しょうざせ) 席を譲る施し 房舎施 (ぼうしゃせ) 一夜の宿を提供する施し 説明しましたとおり、これらは相手のためにする善き施しのようですが、した自分にとっても善き施しになっているのです。 1997年7月 |