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最近 akihito   叫び

6/4 2000

  強い個性がある子供を育てたければ、教師が強い個性をもち、個性豊かな教育をしなければ成果は上がらないだろう。そうした立場から考えると、戦後の日本の教育には民主主義についての重大な誤解と,それにより歪められた原点があり、それが今の子どもたちに大きな被害を及ぼしているのであろう。  それは民主主義においては、教師が自分の価値観(人生観や世界観まで含む)を教えてはならない、なぜならそれは生徒一人一人が違う人間であり、違う価値観を持つ権利があるわけだから、教師のそれを押しつけることになるそのような話はするべきではない。教師はあくまでも客観的事実とか知識について教えることが役目である、という考え方である。
 そもそも教師の価値観の入らない教育など存在するのであろうか。何を話すにも行動するにもそこには価値判断があるわけで、それなしには教育は成立しないのである。だから教師は堂々と自分の価値観を公開し、生徒や他教師の批判にさらされなければならないだけでなく、それを通して子どもたちに自分の価値観を構築する刺激を与え、その力量と意欲を燃え立たせるのである。よって、客観的知識を伝えるのと同時に、教師の価値観を生徒に提示し、自分の生きざまをぶつけるべきなのだ。教師が、自分の価値観、自分の個性をはっきり出して教育するほど、生徒も多様でしっかりした価値観と個性を持ち、自立して生きようとする子に育つであろう。そして、価値観が成長するにしたがい、知識にたいする意欲と知識の容量も増大するであろう。

10/28

  「人間にはそれぞれの時期(乳児期〜老年期)にそれぞれのライフサイクルの中で、達成していかなければならない成熟への課題がある」とエリクソンは言った。乳児期には他人を信頼し、自分を信頼すること。幼児期前半には自立性を達成すること、自分で自分の衝動をコントロールすること。幼児期の後半には自発的に活動できるようになること、そして、小学校時代の子どもにとって最も大事なのが勤勉さを達成することだと言われている。それぞれの時期にそれぞれの成熟への重要なテーマがあり、それらはどのようなことがあっても、飛び級が出来ない、抜かしていくことが出来ないのだ。
 年齢が何歳になったから、人間は自立する、勤勉になるということはない。人生の最初に人を信頼するということ(Basic trastつまり基本的信頼感とエリクソンはいっている)を達成しなければ自立性は達成することが出来ない。人間の成熟には、一連の手続きの順序があるのだ。運動の面で考えると分かりやすい。人間の赤ちゃんは、首が座らなければ寝返りがうてない。寝返りがうてないと、どれほど訓練を受けてもハイハイをすることはありえない。始めに首が座らなければ、立って歩くということはありえないのである。それと同じように、人を豊かに信頼することが出来なければ、自分を信じることは出来ない。人を信じるという感覚と、自分を信じるということは、人間の中ではおなじ事であろう。一つの発達は、次の発達を準備する。首が座るということは、寝返りがうてることの準備であり、寝返りがうてるということは、お座りが出来る、ハイハイが出来るということの準備段階であるように、人を信頼し、自分を信頼出来るから自分で自分の衝動をコントロール出来るのだ。自分の衝動のコントロールのよくない人、たとえば衝動買いをしてしまう、お酒を飲み過ぎてしまう人など、その様な人たちはおそらく自信もないのであろう。それから、人に対する信頼感も弱いであろう。

10/13

 私たちは、子供の頃に「OOちゃん、これをしなさい。OOちゃん、これはしちゃダメよ」と言われてきた。「しなければいけないこと」と「してはいけないこと」を教えられて、それを覚え込むことが、「大きくなる」ことであった。「自分が、なにをするか」は、自分で見つけるものではなく、大人たちの(ひいては、社会の)要求に応ずるというパターンで、形成されてきたわけである。その人が本当は、その人の魂が本当は何をしたいと願っているか、などについて、誰も(社会まるごと)関心を示しはしなかったのである。そうして育ってくると、なにも要求されない場所に来ると、なにをしてよいのか分からず、困ってしまう、不安になってしまう。「孤独」を噛みしめてしまうのである。
 「孤独」というのは、自分が周囲になじんでいないこと、「一人ぼっち」のことである。自分が、周囲(大きく言えば)社会に適合していないことである。いや、そうではない。自分が周囲・社会になじんでいない、適合していないことを「つらいと感じる」から、「孤独」なのである。自分の心の中に、周囲・社会に適合したい、(自分でいられる「場」が欲しい)、(一人ぼっちでいたくない、自分を分かってくれる人が欲しい)、という心(欲)が在るから、つらかったり、寂しかったりするのであって、そのような心(欲)がスッカラカンに無ければ、一人ぼっちというのも、すがすがしくてよいものだと感じられるかもしれない。
 「孤独」を感じている人たちは、周囲が作っている「場」になじみたい、周囲と「一緒」でいたい、という心(欲)があり、それができなかったから、不安になっているのである。一人でポケーと日向ぼっこをしてもよいし、本を読んでいても、なにをしていてもよいのである。それでは、どうして一人で気ままに出来ないのであろうか。きっと、「一人になりたい」のではないのだろう。楽しく暮らしているように見える人たちの所にいて、その人たちと知り合いになりたいのだろう。なぜ、知り合いになりたいのであろうか。なにか、触発されるものがあるかも知れない。触発されて、「自分が変わる」かも知れないと、思っているのかも知れない。
 「自分が変わる」かも知れない・・・変わりたい。つまり、「今のままの自分では、いや」なのである。全面的に「いや」ではないにしろ、全面的に「OK」でもないのだ。
 しかし、それは心の底からの「変わりたい」という思いであろうか。心底「自分を変えよう」という思いであろうか。私たち(人間というの)は案外ちゃっかりしているもので、たとえ孤独を感じて自分のいられる「場」が欲しい、自分(の内面)を分かってくれる人がいて欲しい、と思うときでも、「自分は、今のままの自分で」という前提を、無意識のうちにもっているものである。「自分は、今のままの自分で」新しい世界に行って、なにかに遭遇したい、違う考え方の人たちの所に行って、なにか触発されたい。そのような体験が出来れば、自分は変わるかもしれない、と思ってしまうふしがあるのではないか。もしそうなら、「そのような体験をするまでは」、今の自分のままでよいわけである。むしろ、「なにかに遭遇したい、なにかを求めている」今の自分のことを、とても気に入っていたりもする。

8/7

 平成14年から学校が完全週休2日制になる。つめ込み教育の反省から、子供たちにもっとゆとりをもってもらうための方針変更である。この2日という時間的空間をなんとしても有効に活用しなければと手ぐすねひいて待ちかまえている大人たち、特に野外教育関係の人たちの姿をよく見かける。私もその一人である。生涯学習審議会の中間まとめに書かれているように、現代の教育では足りない部分を自然の中で補おう、という主旨には賛成できるのだが、できるだけ自然の中へは、「教育」を持ち込んで欲しいとは思わない。木や草や鳥の名前をより多く記憶することやマニュアル通りのキャンプのやり方を学ぶことは、それはすごく多様な自然の中での、たったひとつの関わり方にすぎないのだ。言うまでもないのだが、インストラクターの知識や情報をコピーさせることが野外教育ではなく、個々が「それぞれの関わり方で楽しむうちに気付き、目覚める。そんな場を提供する」くらいに考える方がよいだろう。
 今も多くの学校でインターネットを使った授業が行われているのだが、この傾向は21世紀にはもっと顕著になるだろう。そうすると教室はもう、集中するところと言うよりは、反対に分散するところになる。先生の教養の範囲で教えるには、そのことだけに集中させなければならないが、教室の中から世界中のコンピュータにアクセスできる時代になれば、それぞれ興味ある分野へと、どんどん分散していくことになるだろう。そのとき、先生はどうすればよいのだろうか。まず介添人の立場で情報や関連性について教えればよいのだ。また、先生の重要な役割として、子どもたちの中に自分が人間として尊敬できるところを早く見つけることがあるだろう。それから、子どもたちにとってのドラマをつくりだす仕掛け人になることも必要である。そして、学校の先生は全部自分で教えられると思ってはいけないだろう。自分が100回言っても子どもたちが分からないことを、ほかの人が10分、15分話しただけで分かってしまうことが多くある。眠っている人材も山ほどいるのだ。そういうわけで、プロデューサー的、コーディネーター的な仕事が非常に大切である。生涯学習審議会の中間まとめに書かれているような、行政まかせのコーディネートではなく、先生自らが子どもたち一人一人のニーズにあった対応を行うべきだ。また、自分の得意分野と不得意分野を自覚することが必要である。そうして、いろいろな人たちを子どもたちに結びつけるのだ。
 野外教育という名のもとに従来の知識と情報をつめ込む「教育」が自然の中で行われるとすれば、「多様な自然が教室なのに」と、もったいなくてしかたがない。自然はなんにも無いからよいのだ。管理する人も指導する人もいなければ、自然の中で人はより多く気付き、目覚めることができるであろう。参加者の自主性を損なわせ、自己責任の原則を理解する道のりを遠いものにしてしまうのは、主催者やスタッフの大声である。そのことに気付くまで、かれこれ7、8年間、キャンプ協会やYMCA、ユニセフや京都教育大学野外教育研究会などの、いくつもの野外イベントで失敗してきた。受け入れサイドが張り切れば張り切るほど、従順な指示待ち集団になってしまい、互いに後味悪い思いをしてきたのである。「指導者によって体験させる」にとどまって「それぞれの関わり方で自然を体感する」域にまで達することができないのであれば、週休2日をそんなことで埋めてしまわない方がいいだろう。いくら引っ越しを繰り返しても、つめ込み癖のある人は、結局物でいっぱいのゆとりのない生活になってしまうのだ。最後に私の経験のどれ一つとして、言葉で十分に表現することはできない。言葉は経験を満たす器であり、経験は器からあふれ出る。言葉は経験をさし示すが、言葉は経験ではない。経験するものを思想と言葉のみで表現した瞬間に、その経験は消えている。それは干上がり、死に、単なる思想となってしまっている。それゆえ、あることは言葉では記述不可能であって、経験を分かち合うことによってのみ、伝達可能となる。持つ構造においては、死んだ言葉が支配する。ある構造においては、生きた、表現不可能な経験が支配する。(もちろん、ある様式には生きた、生産的な思考もある。)

7/18

 言っておかなければならないのだが、私一人だけが考えても意味がない、たった一人の力で世の中の大きな流れを変えることなど出来はしないなどと消極的になってはいけない。現在の社会が全体として向かっている方向、社会が毎日生み出している環境汚染や資源の消費は、結局のところ私一人ぐらいがと思うごく普通の人が集まって作り出しているのである。
 いま多くの日本人は、自分の日常生活が贅沢極まりないものだとは感じていないだろう。ところがそのような普通の人が集まって人口一億二千五百万の日本という国にまとまると、それは世界一の豊かで贅沢な国、外国の人々から羨望の目で見られる消費大国になってしまうのである。だからこそ私一人ぐらいなどと、自分の力を過少評価してはならない。自分を巨大な社会の片隅にいる無力でちっぽけな存在と思うことは非常に危険である。一人ひとりがすべてのもとである。自分が変れば社会も変る、自分は社会に対して能動的に働きかける力がある、自分のそのような力に自信を持つべきである。
 しばしば人は、まわりの人が誰も考えていないのだから、自分一人がどうこう言っても始まらないなどと言う。しかし人には自尊心というものがある。人から良く思われたいというのは人情であろうし、悪く生きるよりも善く生きたいと思うのは当然である。
 人間は つねに根本的に善く生きようとしているのであり、善く生きようとしている自覚があって、その上に、まさにそう生きるために、自分についても世界についても、知的に多様な見方が自由にできる・・・それが、人間の人間らしさなのである。もし他の人が 善さにあこがれているとも、善さへの生起に満ちているとも見えない、むしろ、ただ欲望におぼれ、怠惰であるように見えたとしても、本来は善く生きようとしているエロス的なものが、生まれて以来・・・不幸な過程を経て、そのようになったと考えなければならない。
 それなのに、自分がよくない、正しくないと思うことをみんながしているからというだけで、自分までがその人達に荷担し、善く生きようとすることを放棄し、愚か者の仲間入りをするという考え方ほど、矛盾した考え方はないのではないか。
 私は愚かでも馬鹿でもないし、善さを求めて生きているので、そんなことはしないと考えるのが、首尾一貫した考え方ではないだろうか。

7/2

 ほとんどの正義の味方は殺すのが大好きだ。その昔、ウルトラマンは怪獣を、仮面ライダーはショッカーを、週イチで殺し続けた。今も昔も、水戸黄門御一行様の立ち去った後には、死傷者の山が築かれる。
 正義の味方が、こんなことでよいのだろうか?いいのである。正義なんてモノはないのだから。たとえば、ウルトラマンの正義とは「宇宙平和」だった。そのくせ彼は、人間によって毎日殺されている、牛や豚を始めとする動物たちを守ろうとはしなかった。あらゆる正義は、こういうものである。つきつめると普遍性も一貫性もなくなり、単なる個人的嗜好であり、エゴにしか過ぎなくなる。つまり、ウルトラマンVS怪獣の戦いとは、エゴVSエゴの激突だった。考え方の全く違う相手に、自分のエゴを百%呑ませるためには話し合いではダメということなのだろうか。殺すしかないのだろうか。だからウルトラマンは、いつも怪獣を殺したのだろうか。
 勧善懲悪思想にパッケージされたエゴVSエゴの激突と暴力決着。正義の味方の物語は、すべてこれだ。

6/27

「学級崩壊」は、担任へのメッセージだ

児童は、本当に伝えたいこと(授業よりもやりたいこと)を言葉などで直接・的確に表現することができない
とりあえずの表現として騒いで、注目を集めようとする
だけど、授業中の態度としてはそぐわない。担任に見えるのは、「騒いでいる」状態

児童は、本当に伝えたいことをきちんと伝えられず、騒ぐ
担任は、騒いでいる状態は見えるが、児童が何を言わんとしているのか汲み取れない、汲み取らない
担任はともかく騒ぎを静め、授業を進めクラスを運営することに力を注ぐ
両者はかみ合わない
ズレは大きくなる一方

保護者の言い分もあるが、極論すれば、「私の子にあわせて(学級運営をして)」だ 40人のそれぞれに会わせた学級運営などできるはずがないことを認めようとはしない
学校の管理主義、集団主義が非難されるわけです
(極論です 念のため)

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